日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

◎2020年6月21日 礼拝説教

説教題 「彼らを恐れてはいけません」
聖書箇所 マタイの福音書10章24節~33節

10:24 弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。

10:25 弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。

10:26 だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。

10:27 わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。

10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

10:29 二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。

10:30 また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。

10:31 だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。

10:32 ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。

10:33 しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。

 


 かつてルーマニアで活躍したリチャード・ウォームブランドという伝道者がいました。彼は当時共産主義国家で伝道活動が禁止されていたルーマニアで福音を宣べ伝え、地下教会の兄弟姉妹たちを励ましていました。そこで何度も逮捕され、拷問を受け投獄されました。その迫害の中、彼は手にしていた1冊の聖書を読み続けたそうです。その中で彼の心に刺さってきた言葉は「恐れてはならない」というみことばでした。そこで彼は、聖書を読んで「恐れてはならない」という言葉が出てくる度に線を引いたそうです。そして、聖書を読み終わって、その線を引いた「恐れてはならない」という箇所を数えてみると、365か所あったと言います。
今日のみことばにも「恐れてはいけません」とあります。今日の箇所だけでも3回も言われています。それは、そのくらい、私たちは色々なものを恐れて生きているからだと言えます。人からのけ者にされることを恐れ、お金がなくなることを恐れ、病気を恐れ、死を恐れて生きています。
それは、人間ならば誰もが持っている恐れではないでしょうか。でも、そこから湧いてくる不安を神様はよくご存じなのです。だから毎日一回は「恐れるな」というみことばを思い出しなさいと仰っているのではないでしょうか。
特に今日のみことばは先週から続いている「迫害」が背景にあります。迫害と言うのは自然災害とは違います。それを起こすのは誰でしょうか。それは人間です。人間が人間を脅し、危害を加える。それを迫害と言います。だからイエス様は、弟子であり、僕であり、神様の子どもとされたクリスチャンたちにこの励ましのことばを続けて語られるのです。それが「彼らを恐れてはいけません」です。

1.明るみで、屋上で広める
 まず一つ目の「恐れてはいけません」と言われているところを見てみましょう。
24節~26節前半。
「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。だから、彼らを恐れてはいけません。」
 イエス様は26節で「だから、彼らを恐れてはいけません」と仰いました。それは明らかに「彼ら」つまり「人間」を恐れるなということです。それが、私たちが最も日ごろ恐れてしまう相手が人間であるということがわかります。何が怖いって、人間ほど怖いものはないでしょう。
 最近、この時期カラスが子育てで神経質になっていますので、カラスの巣が近いところを通ると襲われます。正直言ってぞわっとします。でも、人間に比べれば可愛いものです。なにせ、人間は言葉が通じると思って安心していると、通じないことがよくあるからです。言葉が通じるということは、心が通じることに繋がるから安心できるのです。しかし実際、人間同士で話し合いができずに、憎しみが増幅して殺し合いになることはいつも起きています。カラスに殺されましたという事件は聞いたことがありません。たとえカラスに殺されても、言葉がわからないから仕方がないことだと割り切れます。でも、人間は言葉が通じるはずなのに、心が通じるはずなのに、通じず、獣化します。それが個人であったり集団であったりするので怖いです。それが、イエス様を信じているというだけで白い目で見られたり、馬鹿にされたりすることもあるし、共産主義の国のように未だに迫害があるのです。それでイエス様は、ここに一つ目の恐れてはならない理由を語られています。
 その初めの言葉が「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません」です。
 イエス様は、その弟子でありしもべである私たちに対して、あなたがたは、先生であり主人であるわたしを超えることはできないと言うのです。なんだか、ここだけを読むと「あなたたちは弟子でしもべで愚かなのだから、先生であるわたしを追い越すなんて100年早い」と言われている感じがします。でも、そうではないことが25節のことばでわかります。
「弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。」
それは、弟子というのは先生のようになれたらそれで十分だよ。しもべが主人のようになれたらそれでいいんだよ。と言われているからです。
 ここでイエス様が言わんとしていることは何でしょう。それは、今日のテーマの背景には迫害があるということが鍵です。つまり師であり主人であるわたしが、あなたがたよりも厳しい迫害を受けるのだから、それを超える恐ろしい体験はあなたがたはしないということです。その言葉には、わたしが最も恐ろしい迫害である十字架を通る。その死に弟子であるあなたがたが勝つことはできない。なぜならば、その死とは、ただ憎まれて殺される迫害の死だけではない、父なる神から捨てられるという迫害であるからだ。そういう意味が、この弟子は師にまさらずという迫害に含まれていると思います。なぜならば、十字架刑という最もむごい迫害は弟子たちの中でも経験するからです。ですから、人間から受ける以上の迫害、苦しみはイエス様だけが通らされることが、「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません」ということではないでしょうか。
 だから、ただ、わたしのような生き方ができればそれで十分じゃないか、そこに到達できるように生きれば良いのだ。ただ、主イエスだけを見て、そこを目指して歩むのです。だから、迫害する者たちがわたし(イエス)のことを悪魔の親分と呼ぶけれども、あなたがたは、親分ではないのだから、悪口を言われたところで、その家族と呼ばれる程度なのだと励ましているのです。最も恐ろしい経験は、あなたではなく師であり主人であるわたしイエスがすべて受けるのだから安心しなさいと励ますのです。
 だから、26節後半から27節にあるように、人を恐れないで大胆にイエス様のみことばを宣べ伝えることができます。
「おおわれているもので、現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはありません。わたしが暗闇であなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい」
 イエス様の先取した自己犠牲の恵みがここにあります。そして、私たちの宣教、また信仰生活の出発点がここにあるのです。それは、単純に言えば、どんな迫害があっても、どんな禍があっても、人ではなく主イエスだけを見ていなさいと言うことです。そこから福音の真理が明らかにされていきます。どんな暗闇の中にあっても、主イエスのように生きようと主を見上げるときに、信仰が整えられ、みことばがよくわかるようになります。主の細き御声を大胆に証しできる者とされていくのです。

 

2.神を恐れよ
 そのことが次の二つめの「恐れてはいけない」の理由に繋がっていきます。28節。
「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」
 イエス様は、人間が恐れるに値しないものである理由を述べます。人間が、いくら力づくで脅して私たちの肉体を殺せたとしても、その魂には触れることすらできないという決定的な事実です。そして、そのことと合わせて神様ご自身の魂にかんする権威について教えてくださいました。
 結局、いくら人間が様々な力で脅して信仰を失わせようとしても、彼らにはできないと言うのです。それは神様の主権の中にあることだ。だから、最も大切な永遠のいのちを与え、同時に地獄へ落とす権威を持っておられる神様だけを恐れなさい。それが、人間が唯一恐れるべきお方であるということです。
 そうです。私たちは無力な人間を恐れるのではない。それよりも、私たちに永遠のいのちを与えようとまっておられる、ただ唯一の神様だけを恐れるのです。
 でも、神さまを恐れるとはどういうことでしょう。日本語で神を「恐れる」とは、「畏れる」とも書きます。どうして聖書ではこの「恐れ」を使うのかといいますと、聖書の原語にも恐怖と畏れかしこむ意味と両方あるからなのです。そこには聖なる神という、他に類のない最高の恐れをもって近づくべきお方。いや私たちからは本来近づけないくらいきよいお方であるという意味があります。主の祈りにある「あがめさせたまえ」とはそういう意味です。他の偶像の神々と一緒の畏れかしこむのではなく、それとは分離された意味での究極の恐れをもって近づくお方。それが聖書で啓示されている唯一絶対の神様です。
 ではイエス様は、天のお父様はおっかない親父なのだから、そのおっかない神に恐怖で怯えなさいとは仰っているのでしょうか。神を恐れなさいとは、そういう恐れなのでしょうか。確かに恐れかしこむことは大事です。しかし、恐怖に怯え続けなさいという意味ではありません。それは29節~30節を読むとわかります。
「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。」
 ここでイエス様は市場で売られている雀を取り上げます。雀は当時の社会では普通に食用として売られていました。2羽で1アサリオンだったとここに書かれています。1アサリオンは当時の一番小さな単位の銅貨です。仮に1アサリオンを10円としましょう。すると1羽5円となります。ルカの福音書には5羽の雀は2アサリオンだったと書かれています。そうすると5羽で20円だということです。そうなると計算が合いません。5羽ならば25円であるはずです。
 でもそれは、雀の価値の低さを物語っています。実は5円の価値すらない生きものだということです。ディスカウント商品として売られていたのです。その価値の低いと思われている雀すら、神様の許しなしには死なない。神様は雀にでさえ、そこまで心を配っておられるということです。
 そこで更に私たち自身すら把握できない自分の髪の毛の数も神様はご存じだというのです。これは、神様は単に全知全能だから知っているというのではありません。私たち一人ひとりをとても関心をもってよく知っておられるということです。
 関心をもってよく知るということは、どういうことか。以前も言いましたが、聖書で言う「知る」という言葉は単に知識だけのことを言っているのではありません。体験をもって、また行動をもって関わって知る。すなわちそれは愛しているということを表しています。
 天のお父様は、私たちを愛しているからこそ、よくご存じなのです。しかも人間一人ひとり髪の毛の数が違います。そのことさえも知っているとは、まさに私たち一人ひとりをきちんとそれぞれに対して愛をもって関わってくださっているという事です。31節。
「だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」
 ここまで天のお父様が愛しておられるのだから、人を恐れることはありませんと言うのです。しかも、雀よりもすぐれているというのは、それはあなたには価値がある、あなたは重要ですというイエス様からのラブコールです。雀だって愛されている神は、それ以上に「あなたのことを宝物のように大事に思っているよ」ということです。

 

3.人の前で主を認める歩み
 そのように神様の私たちへの愛が分かった人はどうなるか。それは32節、33節です。
「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」
 神様の愛が分かった人は、人の前でも恥ずかしがることなく大胆にイエス様を認めます。この認めるという言葉は「告白する、賛美する、主張する」という意味も含まれている言葉です。ですから、誰の前でも、告白し、賛美し、主張するのです。しかも、ここでイエス様は「人の前で」誰を認めると言っておられるか。それは「神様」ではなく「わたし」なのです。つまり、迫害の要因になっているのはイエス様であるからです。神様を信じていますと言えば、色々な意味でそういう人は結構います。でも、イエス様こそ神であると信じ、認め、告白し、賛美し、主張するときに迫害が起きてくるのです。
 でも、イエス様のラブコールを聴いて、その愛を受けたときに私たちは大胆にイエス様を告白するものへと変えられるので、人を恐れず、しかも喜んでイエスは主ですと宣言できるのです。それは、なぜか。それは私たちが、天のお父様を愛しイエス様を愛する者とされるからです。それこそ、まことのシャロームの状態。真の平安です。神の国があなたの中に始まったのです。そういう人をイエス様もまた天のお父様の前で認める。つまりイエス様が、私たちを神の前に神の子どもとして告白してくださり、称賛してくださり、主張してくださりというのです。
 33節にある「人の前でわたしを知らないというような者」とは言い換えれば、イエス様を愛していない人ということです。すなわち神の愛がわかっていない。神のここまで迫って来る愛を受けそこなっている人ということです。そういう人は、イエス様も天のお父様の前では知らないと言いますと厳しいことをおっしゃっています。厳粛なことばです。

 

結び
 人の前で信仰を言い表す勇気、キリストを証しする力はどこから来るのでしょうか。それは、神を正しく恐れることです。では神を正しく恐れるとは何か。それは私たち罪人を価値ある者として愛してくださっている神様の愛を知るということです。その愛とは、本来、私のような小さきものに目を留めてくださったという恵みです。しかし、その愛を明確に示すために主は弟子たちにまさる苦しみの道を通られた。それが十字架の死です。
 神はそのひとり子を世に遣わし、その御子イエス様によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
 十字架は最もむごい迫害であると同時に、神様から捨てられるという人間にとって最も恐ろしい神のさばきでもあったのです。しかし、そのイエス様の十字架の死によって私たちを神様の大きな愛に包まれて安心して生きるものとしてくださいました。その愛を今度は、まだ神の愛に気が付いていない人たちの前で大胆にキリストを告白する者、賛美する者、主張する者へとされたのです。
 今週も、もう一度、神様がどれほどあなたを愛しておられるのか。そのために神様はどんなことを私にしてくださったか。その愛に感謝し、その神の愛に溢れてキリストを告白し、賛美しつつ歩ませていただきたいと思います。

 

祈り