のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

2020年6月24日(水)きょうのみことば

列王記 第二
1章
1,アハブの死後、モアブがイスラエルに背いた。
2,アハズヤは、サマリアにあった彼の屋上の部屋の欄干から落ちて重体に陥った。彼は使者たちを遣わし、「行って、エクロンの神、バアル・ゼブブに、私のこの病が治るかどうか伺いを立てよ」と命じた。
3,そのころ、主の使いがティシュベ人エリヤに告げた。「さあ、上って行って、サマリアの王の使者たちに会い、彼らにこう言え。『あなたがたがエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに行くのは、イスラエルに神がいないためか。
4,それゆえ、主はこう言われる。あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」そこでエリヤは出て行った。
5,使者たちがアハズヤのもとに戻って来たので、彼は「なぜおまえたちは帰って来たのか」と彼らに尋ねた。
6,彼らは答えた。「ある人が私たちに会いに上って来て言いました。『自分たちを遣わした王のところに帰って、彼にこう告げなさい。主はこう言われる。あなたが人を遣わして、エクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てるのは、イスラエルに神がいないためか。それゆえ、あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」
7,アハズヤは彼らに尋ねた。「おまえたちに会いに上って来て、そんなことを告げたのはどんな男か。」
8,彼らが「毛衣を着て、腰に革の帯を締めた人でした」と答えると、アハズヤは「それはティシュベ人エリヤだ」と言った。
9,そこでアハズヤは、五十人隊の長を、その部下五十人とともにエリヤのところに遣わした。隊長がエリヤのところに上って行くと、そのとき、エリヤは山の頂に座っていた。隊長はエリヤに言った。「神の人よ、王のお告げです。下りて来てください。」
10,エリヤはその五十人隊の長に答えて言った。「私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたとあなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。」すると、天から火が下って来て、彼とその部下五十人を焼き尽くした。
11,王はまた、もう一人の五十人隊の長を、その部下五十人とともにエリヤのところに遣わした。隊長はエリヤに言った。「神の人よ、王がこう言われます。急いで下りて来てください。」
12,エリヤは彼らに答えた。「私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたとあなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。」すると、天から神の火が下って来て、彼とその部下五十人を焼き尽くした。
13,王はまた、第三の五十人隊の長と、その部下五十人を遣わした。この三人目の五十人隊の長は上って行き、エリヤの前にひざまずき、懇願して言った。「神の人よ、どうか私のいのちと、このあなたのしもべ五十人のいのちをお助けください。
14,ご承知のように、天から火が下って来て、先の二人の五十人隊の長とそれぞれの部下五十人を、焼き尽くしてしまいました。今、私のいのちをお助けください。」
15,主の使いがエリヤに「彼と一緒に下って行け。彼を恐れてはならない」と言ったので、エリヤは立って、彼と一緒に王のところに下って行き、
16,王に言った。「主はこう言われる。『あなたが使者たちをエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに遣わしたのは、イスラエルにみことばを伺う神がいないためか。それゆえ、あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」
17,王は、エリヤが告げた主のことばのとおりに死んだ。そしてヨラムが代わって王となった。それはユダの王ヨシャファテの子ヨラムの第二年のことであった。アハズヤには息子がいなかったからである。
18,アハズヤが行ったその他の事柄、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。

 

 イスラエルの王アハズヤは、父アハブに倣い偶像崇拝者でした。彼は、不思議なことに、いつも慣れているはずの王宮の屋上の欄干から落ちるという事故に遭います。それが彼の命取りとなりました。それは、アハズヤが、その怪我が治るかどうか伺いを立てるのに向かったのがバアル・ゼブブ、つまり蠅の主という偶像の神であったからです。

 あなたの危険の中にあっても、彼の心には、生ける真の神、主のことが頭になかったということです。イスラエル人は、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主だけを崇め、その主を世の民に証しする務めがありながら、しかも自分の命の危機の中で求める対象が主ではないというのは、致命的な選択ミスであり、もはやミスというレベルの話ではありません。

 主は、ここで老預言者エリヤを遣わしさばきのことばを告げます。それは、主が、アハズヤが主に立ち返ることを願ってあえて告げているのですが、その配慮すら彼は無駄にして、結果的に、その預言通りになります。

 

「あなたが使者たちをエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに遣わしたのは、イスラエルにみことばを伺う神がいないためか。それゆえ、あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。」

 

  主のことばには、主のアハズヤに対する問いかけがあり、あくまで気づかせようとしておられるのを汲み取ることができます。「イスラエルに伺いを立てる神がいないためか」と、それは、言い換えると、その神はここにいるじゃないか、それに気がつかないのか?というふうに、アハズヤの短絡的に、いとも簡単に、自然に偶像に向かう心に傷つく主の御心がそこにあります。

 このアハズヤの決断は、読み手である私たちには、全く無関係に見えます。既に神を信じている者にとって、偶像崇拝はありえないからです。

 しかし、本当にそうだろうか。また、聖書にこのような歴史的事実が記され、そこに神が預言者を通してみことばを伝えていることは、現代の私たちの間でも日常のことです。現代は聖書が完成していますので、聖書を通して、また主日礼拝の説教によって御心が語られます。

 そのみことばは、習慣的に語られているものではありません。神が説教者を通して教会に語っているみことばです。でも、そのみことばに慣れてしまい、習慣的になって聞くことになっているならば、このアハズヤと何も変わりません。それは、神のことばを虚しくしてしまうことにおいて共通の問題があるからです。

 アハズヤは、もちろん自分の命の危機の中で頼る神を間違っていました。でも、結果的にエリヤを通して語られるみことばを無視して、悔い改めず、死に至ったことは、主のみことばを軽んじた、空くした意味では、みことばを聞くことに慣れてしまうことによって、みことばを空くしすることと同じなのです。

 しかし、きょうも主は聖書を通して、私たちがそうならないように教えてくださっています。それは、主が語られていることに耳を傾け、真剣に向き合う人を主は求めておられるからです。

 私たちも、あらためて、新しい心で主のみことばに聴いていくものでありたいと思います。

 

"わが子よ、主の懲らしめを拒むな。その叱責を嫌うな。
父がいとしい子を叱るように、主は愛する者を叱る。"
箴言 3章11~12節

"主のおしえは完全でたましいを生き返らせ主の証しは確かで浅はかな者を賢くする。
主の戒めは真っ直ぐで人の心を喜ばせ主の仰せは清らかで人の目を明るくする。
主からの恐れはきよくとこしえまでも変わらない。主のさばきはまことでありことごとく正しい。
それらは金よりも多くの純金よりも慕わしく蜜よりも蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。"
詩篇 19篇7~10節