のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

「聞け、イスラエルよ」

f:id:kinokunizaka66:20200625065747j:image

申命記 6章4~15

"聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。
あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
私が今日あなたに命じるこれらのことばを心にとどめなさい。
これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家で座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい。
これをしるしとして自分の手に結び付け、記章として額の上に置きなさい。
これをあなたの家の戸口の柱と門に書き記しなさい。
あなたの神、主は、あなたの父祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てたのではない、大きくてすばらしい町々、
あなたが満たしたのではない、あらゆる良い物で満ちた家々、あなたが掘ったのではない掘り井戸、あなたが植えたのではない、ぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与えてくださる。それであなたは、食べて満ち足りるとき、
気をつけて、エジプトの地、奴隷の家からあなたを導き出された主を忘れないようにしなさい。
あなたの神、主を恐れ、主に仕えなさい。また御名によって誓いなさい。
ほかの神々に、すなわち、あなたがたの周りにいる諸国の民の神々に従って行ってはならない。
あなたのうちにおられるあなたの神、主はねたみの神であるから、あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、主があなたを大地の面から根絶やしにされることのないようにしなさい。"

 主はイスラエルに命じられた。「聞け」と。

 使徒パウロは、ローマ書でこう言っている。

"ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。"
ローマ人への手紙 10章17節


 信仰は聞くことから始まる。それは、信仰者にとっての基本の基である。そして、その信仰とは神を恐れることである。神を恐れることは知恵のはじめとも、知識のはじめとも言われている。それは、私たち人間が人間として、特に神のかたちに造られた者として、他の獣との違いを意味している。

 私たちは、正しい知識を持ち、知恵を用いてこの世界を歩まなければ生きていけない。最初の人アダムは、まさにこの正しい知識、知恵を備えられて造られた。それは非常に良かったのである。

 ところが、悪魔に操られた蛇によって罪の世界へと誘われてしまう。この蛇は、そもそも獣のうちで最も賢く造られたものであった。ところが、それは人間ではないので、神のかたちとしての賢さではなかったのである。しかし、その蛇は悪魔の手先となって、人間が正しい知識と知恵ではなく、蛇が悪魔に従った賢さの方を選ぶように誘惑したのである。

 そこから、人間は神から隠れ、神とは違う世界に住むことになってしまった。それが、この世界である。ところが、神はそれで終わらせることを望まず、一人の人アブラハムを選び、彼とその子孫を通してご自身を現し、すべての人がもう一度神を恐れる、正しい知識と知恵を持つことができる道を備えられた。

 それが、まずイスラエル民族を通してご自身を現し、律法を与えて、そのきよさと愛を示すことだった。そのために、エジプトで奴隷となっていたイスラエル人たちをモーセによってエジプトから救い約束の地へと導き、救い出した。

 そのイスラエル人たちが約束の地に向かう荒野の中で語られたのが、きょうのみことばである。そこには、神を信じる者にとっての大切な信仰生活の基本が示されている。それは、何よりも唯一の神である主を愛するということである。

 

あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

 この神への愛をなくして信仰生活はありえない。この神への愛を忘れて信仰は成り立たない。だから、主はこのことばをモーセを通して語られたのである。

 そして、その神への愛はどこから生まれてくるのか。それが、「あなたが建てたのではない」などと繰り返される、主によって救われたという事実、その歴史を繰り返し思い起こし、その恵みの偉大さに触れることである。そのことを全ての世代へと受け継がせることも大切な信仰者の務めである。

 このことは、現代においてもなお、キリスト教会という神の救いの計画にある奥義の中に置かれた私たちにも与えられている。それが聖礼典であるバプテスマ聖餐式として主イエスによって制定された。

 これは、繰り返し行うことで神の愛を思い起こし、その愛を受けて私たちが神を愛し続けるものとなるためである。

 今、神は、かつてイスラエル人たちを奴隷の地エジプトから救い約束の地に導いたように、全ての人を罪の奴隷から神の国へと救い出すためにイエス・キリストをお遣わしになり、この方を信じる者にも、神の愛を思い起こして、その感謝が信仰生活の根源となるようにと望んでおられる。

 今朝も、主はイスラエルに命じられたように「聞け」と叫ばれる。それは、主イエスによって示された神の完全な愛を永遠までも心に刻むことである。

 

これをしるしとして自分の手に結び付け、記章として額の上に置きなさい。
これをあなたの家の戸口の柱と門に書き記しなさい。

 

 これは、現代においては心の板に刻むことである。形式的に記章として額に置いたり、家の戸口の柱、門に書くよりも、大切なことは絶対に忘れないように、心に刻むことである。

 きょうも、このみことばを心に刻もう。神の愛を忘れないように、自分の心に結びつけ、置き、書き記そう。それは、神の愛を心に刻んだあなた自身が神の手紙として、人々の前で、その刻まれた神の愛を証しする者として用いられるからである。

 

"あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。"
コリント人への手紙 第二 3章3節