のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

2020年7月6日(月)きょうのみことば

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「アハブ王の罪の精算」

列王記 第二 10章1~17節

"アハブにはサマリアに七十人の子どもがあった。エフーは手紙を書いてサマリアに送り、イズレエルの長たちや長老たち、および、アハブの子の養育係たちにこう伝えた。
「この手紙が届いたら、あなたがたのところに、あなたがたの主君の子どもたちがいて、戦車や馬も、城壁のある町や武器も、あなたがたのところにあるのだから、すぐ、
あなたがたの主君の子どもの中から最も善良で真っ直ぐな人物を選んで、その父の王座に就かせ、あなたがたの主君の家のために戦え。」
彼らは非常に恐れて言った。「二人の王たちでさえ、彼に当たることができなかったのに、どうしてこのわれわれが当たることができるだろうか。」
そこで、宮廷長官、町のつかさ、長老たち、および養育係たちは、エフーに人を送って言った。「私どもはあなたのしもべです。あなたが私どもにお命じになることは何でもいたしますが、だれも王に立てるつもりはありません。あなたのお気に召すようにしてください。」
エフーは再び彼らに手紙を書いてこう言った。「もしあなたがたが私に味方し、私の声に聞くのなら、あなたがたの主君の子どもたちの首を取り、明日の今ごろ、イズレエルの私のもとに持って来るように。」そのころ、王の子どもたち七十人は、彼らを養育していた町のおもだった人たちのもとにいた。
その手紙が彼らに届くと、彼らは王の子どもたちを捕らえ、その七十人を切り殺し、その首をいくつかのかごに入れ、それをイズレエルのエフーのもとに送り届けた。
使者が来て、「彼らは王の子どもたちの首を持って参りました」とエフーに報告した。すると彼は、「それを二つに分けて積み重ね、朝まで門の入り口に置いておけ」と命じた。
朝になるとエフーは出て行き、立ってすべての民に言った。「あなたたちに罪はない。聞きなさい。私が主君に対して謀反を起こして、彼を殺したのだ。しかし、これらの者を皆殺しにしたのはだれか。
だから知れ。主がアハブの家について告げられた主のことばは一つも地に落ちないことを。主は、そのしもべエリヤによってお告げになったことをなされたのだ。」
エフーは、アハブの家に属する者でイズレエルに残っていたすべての者、身分の高い者、親しい者、その祭司たちをみな打ち殺し、一人も生き残る者がないまでにした。
それから、エフーは立ってサマリアへ行った。その途中、羊飼いのベテ・エケデというところで、
エフーはユダの王アハズヤの身内の者たちに出会った。彼が「おまえたちはだれか」と聞くと、彼らは、「私たちはアハズヤの身内の者です。王の子どもたちと、王母の子どもたちの安否を尋ねに下って来ました」と答えた。
エフーが「彼らを生け捕りにせよ」と言ったので、人々は彼らを生け捕りにした。そして、ベテ・エケデの水溜め場で彼ら四十二人を殺し、一人も残さなかった。
彼がそこを去って行くと、彼を迎えに来たレカブの子ヨナダブに出会った。エフーは彼にあいさつして言った。「あなたの心は、私の心があなたの心に対してそうであるように、真っ直ぐですか。」ヨナダブは、「そうです」と答えた。「そうなら、こちらに手を伸ばしなさい。」ヨナダブが手を差し出すと、エフーは彼を戦車の上に引き上げて、
「私と一緒に来て、主に対する私の熱心さを見なさい」と言った。エフーは彼を自分の戦車に乗せて、
サマリアに行った。エフーは、アハブに属する者でサマリアに残っていた者を皆殺しにし、その一族を根絶やしにした。主がエリヤにお告げになったことばのとおりであった。"
聖書 新改訳2017

 

 きょうの聖書箇所は、北イスラエル王国のアハブ王が犯した罪の精算の様子が描かれています。

 このことは、預言者エリヤによって預言されていたことではありますが、実際に行われる様子を見ると、実際に殺されたのはアハブではなく、その子たちだったので、非常にかわいそうに思えるものです。

 

"そのとき、ティシュベ人エリヤに次のような主のことばがあった。
「あなたは、アハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間はわざわいを下さない。しかし、彼の子の時代に、彼の家にわざわいを下す。」"
列王記 第一 21章28~29節


 神が愛ならばこんなことをするのはおかしいと言う人もおられるかも知れません。だから神などいないのだという口実にするかもしれません。

 でも神様は義なるお方、聖なるお方でもありますので、罪を見過ごさないお方であるとするならば、当然のことなのかも知れません。

 神は義なるお方ですから、罪を見逃しません。罪をそのままにはなさらず、必ず罪の精算をなさるお方です。そうでなければ、この世は益々、悪が満ち、今よりももっと秩序が失われて、人々の愛が更に冷えてしまった世界になるでしょう。

 いや、現代だって、もはや悪が蔓延しているではないかという見方もあるかも知れません。確かに、そう見えなくもありませんが、それでも神はこの世を支えておられ、ご自分のタイミングで、この世を一度終わらせて、新しい神の国を完成なさるのです。

 

"また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」"
ヨハネの黙示録 21章1~4節


 しかし、まだその時ではありません。それで神は、教会を通してご自身の救いの計画を進めさせて、その神の国に入ることのできる人を招き、より増やそうとしておられるのです。

 そのためには、人間の罪を精算しなければならない問題を何とかしなければなりません。

 それが旧約時代では、きょうの聖書箇所のように、人間自身が負い、その罪のためには血が流されなければならなかったのです。でも、律法が与えられていましたから、もしアハブ王が存命中に、自分の罪を悔い改めて、偶像崇拝をやめて真の神に立ち返り、エルサレムの神殿において、真心から悔い改めて、律法にあるとおりに動物の犠牲を捧げ続けていたならば、その罪が赦されたのかも知れません。

 しかし、彼はそうしなかった。かえって義人ナボテが先祖から譲り受けた土地を力尽くで奪い取り、ナボテに言われのない罪を着せて処刑したのです。

 つまり、罪に罪の上塗りをして、さらに主の目の前に悪を重ね、またイスラエルの王という、神の栄光のために、神の民に対して責任ある立場にいながら、その責任を果たすどころか私利私欲のために、その地位を悪用した。それは、もはや神の愛をないがしろにした姿勢だったのです。

 しかし、そのためにアハブ自身ではなく、その子どもたちが殺される。次の支配者によって、その命が奪われるのは釈然としません。でも、これが旧約時代の限界でした。旧約時代における救済の及ばない部分でした。そこには、真の救いを渇望させる信仰を芽生えさせる神の聖なる意図があることを見ることができます。

 

"律法には来たるべき良きものの影はあっても、その実物はありません。ですから律法は、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって神に近づく人々を、完全にすることができません。"
ヘブル人への手紙 10章1節

 

 もし、ここにイエス様がおられたら、もし、ここにイエス様の十字架の贖いがあったなら、このような罪の精算はイエス様が負ってくださって、いくら親の罪とは言え、その家族が罰を受けることはなかった。

 旧約聖書において、理不尽な場面、おやっと思うお話には、必ずそこに主が立っておられて、来るべきメシアであるイエス・キリストにこそ真の解決があることを示しているのです。

 

"したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。" ヘブル人への手紙 7章25節

 今日、もう一度、このアハブの子どもたちの悲惨を目の当たりにしつつ、もし、今、主がおられなかったら、私たちもそのようなかたちで裁かれなければならなかった。特にアダムから続く罪の根は神との断絶を生み、神のさばきの対象となり、その子孫である私たちも、アダムから受け継いだ罪のゆえに、きよい神の審判を受けて地獄へ行かなければならなかった。

 しかし、神はそれを良しとせず、ご自分の御子を私たちに与えることで、その完全な愛を示してくださったのです。その愛をないがしろにせず受け入れるなら、あなたは、これまで、どんな罪を犯していたとしても、必ず神の主権によって救われます。どうか、もう一度、主の前に罪人であり滅びて当然のものが今、赦されて新しい神の国へ招かれている恵みに感謝しようではありませんか。神はあなたが滅びることを望んでおられません。神はあなただけでなく、全ての人が救われることを願っておられるからです。

 

"神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。"テモテへの手紙 第一 2章4節

"主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。"
ペテロの手紙 第二 3章9節