日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

2020年7月11日(土)きょうのみことば

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「アマツヤの高慢」

列王記 第二 14章1~16節

"イスラエルの王エホアハズの子ヨアシュの第二年に、ユダの王ヨアシュの子アマツヤが王となった。
彼は二十五歳で王となり、エルサレムで二十九年間、王であった。彼の母の名はエホアダンといい、エルサレム出身であった。
彼は主の目にかなうことを行った。ただし、彼の父祖ダビデのようではなく、すべて父ヨアシュが行ったとおりに行った。
すなわち、高き所は取り除かれなかった。民はなおも、その高き所でいけにえを献げたり、犠牲を供えたりしていた。
王国が彼の手によって強くなると、彼は、自分の父である王を討った家来たちを打ち殺した。
しかし、その殺害者の子どもたちは殺さなかった。モーセの律法の書に記されているところに基づいてのことであった。主はその中でこう命じておられた。「父が子のゆえに殺されてはならない。子が父のゆえに殺されてはならない。人が殺されるのは、ただ自分の罪過のゆえでなければならない。」
マツヤは塩の谷で一万人のエドム人を討って、セラを取り、その場所をヨクテエルと呼んだ。今日もそうである。

 

 北イスラエルの王がヨアシュの時代、南ユダはアマツヤが王でした。アマツヤは前回、家来たちの謀反で殺されたヨアシュの子でした。彼の良いところは、主の目にかなうことを行ったことでした。これは褒め言葉です。だから、父を殺したものを逮捕し処刑したものの、その子どもたちには、その罪を負わせませんでした。それは律法にあるように生きたということです。しかし、ダビデほどではなかったと評されています。しかも父ヨアシュのようだったということですから、「高き所」はそのままで、主を信じているようで、同時に偶像にも仕えていた、もしくは自分流の礼拝を行なっていたと言えるでしょう。それが父から受け継いだ信仰だったのかも知れません。

 私たちも、主を信じていると言いながら、主よりも大事にしているものはないでしょうか。確かに偶像は拝んでいないかも知れませんが、金銭に執着していたり、ギャンブルや酔酒に依存していたり、やめた方が良いとわかっているのに、ついまたしてしまうあのことも、私たちを縛っているなら、それは偶像であり、高き所ではないでしょうか。

 そこに気づかずに、自分は信仰は大丈夫だと自負していると、そこにサタンが働きます。

 

そのときアマツヤは、エフーの子エホアハズの子、イスラエルの王ヨアシュに使者を送って言った。「さあ、直接、対決しようではないか。」
イスラエルの王ヨアシュは、ユダの王アマツヤに人を遣わして言った。「レバノンのあざみが、レバノンの杉に人を遣わして、『あなたの娘を私の息子の妻にくれないか』と言ったが、レバノンの野の獣が通り過ぎて、そのあざみを踏みにじった。
あなたはエドムを打ち破って、心が高ぶっている。誇ってもよいが、自分の家にとどまっていなさい。なぜ、あえてわざわいを引き起こし、あなたもユダもともに倒れようとするのか。」
しかし、アマツヤが聞き入れなかったので、イスラエルの王ヨアシュは攻め上った。彼とユダの王アマツヤは、ユダのベテ・シェメシュで直接、対決した。
ユダはイスラエルに打ち負かされ、それぞれ自分の天幕に逃げ帰った。
イスラエルの王ヨアシュは、アハズヤの子ヨアシュの子、ユダの王アマツヤをベテ・シェメシュで捕らえ、エルサレムにやって来た。そして、エルサレムの城壁をエフライムの門から隅の門まで、四百キュビトにわたって打ち壊した。
彼は、主の宮と王宮の宝物倉にあったすべての金と銀、すべての器、および人質を取って、サマリアに帰った。
ヨアシュが行ったその他の事柄、その功績、ユダの王アマツヤと戦った戦績、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。
ヨアシュは先祖とともに眠りにつき、イスラエルの王たちとともにサマリアに葬られた。彼の子ヤロブアムが代わって王となった。"
 

   

 信仰は恵みなのに、自分の行いかのように、自分の誇り、自分の功績のように思わせるサタンのささやきがあります。一見些細なことに見えるものを放置するならば、そこから大きな罪を生み、痛い目に遭うことになるのです。

 アマツヤもそうでした。主の律法を守りへりくだって歩んでいるならば、それは主に祝福されたでしょう。しかし彼は、何を勘違いしたか、イスラエル民族としては兄弟的存在である北イスラエルに戦いを挑むのです。でもそこで、主は北イスラエル王ヨアシュに働いてくださり、その戦が無駄であることを喩えを用いて諭します。

 しかし、アマツヤの高慢は覚めず、とうとう戦闘が始まってしまい、結果、南ユダ軍は北イスラエルに負けて逃げ、エルサレムまで入り込まれて、神殿や王宮にあった金銀等の財宝と国民を人質として連れて行かれたのでした。

 アマツヤは、主の目にかなうことを行ったと言われていながら、高き所は残していた。その信仰の曖昧さが、結局アマツヤ自身の生き方にも現れて、自分の首を絞める結果となったのです。

 私たちも、信仰の目を開いて、除かれていない罪はないか。特に、その些細に思っていることはないかチェックが必要です。そこにサタンが入り込み、高慢につながり、自分が見えなくなって余計な行動へと向かってしまうからです。その行動や言動は、今度は周囲を巻き込み、あなたが守るべき愛するものたちをも不幸に追いやってしまうのです。

 きょうのみことばは、そのことを私たちにも適用させるべく教えています。だからこそ、きょうも繰り返し覚えたいのは、そのあなたの高き所に、主の十字架が立てられたということです。

 知らないうちに犯している罪。その高慢の高き所である、あのゴルゴタの丘に主は重い十字架を負いながら登られ、私、そして、あなたのために、その上で釘付けにされたこと。そのことを覚えたいのです。

 その十字架こそ、高ぶってしまう私の身代わりであった。そこに心を向けるとき、そこまでしてあなたを愛された主の御顔が見えてきます。その主を仰ぐ限り、そこにサタンは入って来られません。それは主によって悪魔の誘惑は遮断されるからです。

 きょう、あなたの高き所はなんですか?あなたの高き所はどうなっていますか?その高い所を、その主に委ねましょう。主がそこで死なれたことを、受け入れましょう。主はあなたを愛して、そこに執着せずに神の愛に執着するようにと待っておられます。

 その愛から、あなたを引き離すものは何もないのです。

 

"信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。"ヘブル人への手紙 12章2節

"しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、
高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。"ローマ人への手紙 8章37~39節