日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

2020年7月12日 礼拝説教

説教題 「あの人は預言者
聖書箇所 創世記20章1節~18節

 

序論
 創世記から、神に選ばれた者として整えられていくアブラハムを学びます。
 今日の箇所で神様は、アブラハムのことを外国の王様に紹介しています。それが「あの人は預言者」ということばです。でも、どうして神様が紹介しなければならなかったのか。どうして、アブラハム本人の口からではなかったのか。ここに、今日の箇所でアブラハムが神様のお取り扱いを受ける大事なポイントがあります。しかも、今日の事件は以前も経験したような出来事です。
 果たしてアブラハム預言者として立っていけるのか。神を証しする者として立っていくために必要なことは何なのか。その問いをもってみことばに聴いてまいりましょう。

 

1.アブラハムの失敗とその影響
 アブラハム遊牧民でした。それで、住んでいたマムレの樫の木のところを拠点として移動しました。羊などを飼って動きまわる必要がありますので、今日お読みしたネゲブ地方のゲラルという、更に南に行った場所まで移動したと思われます。
 ここでアブラハム夫婦にピンチが訪れます。なんと妻のサラがこのゲラルの王様アビメレクに側室として召し入れられてしまったのです。でも、聖書はその原因が夫のアブラハムにあったことを告げています。2節。
アブラハムは、自分の妻サラのことを、『これは私の妹です。』と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れた。」
 聖書は、ここで「アブラハムは、自分の妻サラのことを『これは私の妹です』と言ったので」と、アブラハムの言ったことが原因でサラがアビメレクの王宮に召し入れられてしまったことを指摘しています。「妻サラのこと」と、サラが妻であるのに、夫アブラハムはそれを明らかにしなかったと言っているのです。
 このような事件は以前にもありました。かつてエジプトに行った際、アブラハムは同じように妻サラのことを、自分の妹だと言ってエジプトのパロに召し入れられてしまったことがありました。アブラハムがなぜ妻サラのことを妹だと言ったのか。それは、妻があまりにも美しいことを妬まれて自分が殺されるかも知れないと思ったからでした。
ここがアブラハムの弱点でした。自分のことを微妙に隠すのです。それは、その理由が周りの目を恐れているからです。周囲の人の目、出会う人たちを恐れて、その人たちを信用できない姿勢。それは同時に神様を恐れず、神様を信頼していない姿勢でもありました。
 そこで神様は、特別にアビメレクの夢の中で彼に告げます。3節。
「ところが、神は、夜、夢の中で、アビメレクのところに来られ、そして仰せられた。『あなたが召し入れた女のために、あなたは死ななければならない。あの女は夫のある身である。』」
 神様は、外国人の王であるアビメレクの夢でみことばを告げられました。これは特別な介入です。前回のエジプトの時はいきなり災いが起こりました。でも今回は特別に夢に現れてアブラハム夫婦を守り、同時にアビメレクをも救うことになったのです。
 神様はいきなり災いを与えず、警告してアビメレクが救われるように配慮されたのです。それはどうしてでしょうか。それは、アビメレクなりに最善を尽くして正しく生きようとしていた人だからでした。彼は5節でこう言っています。
「私は正しい心と汚れない手で、このことをしたのです」
 この世には義人はいないという観点で見るならば当然彼の正しさは不足しています。それは彼には妻やがいたことは17節に書いてありますので、そこを指摘したら彼の言葉は単なる言い訳に過ぎなくなるでしょう。でも神様のアビメレクへの指摘のことばは「あの女は夫のある身である」ということでした。それは、アビメレクが王様として側室を設けることに対しては触れず、ただサラが、アブラハムの妻であり結婚している女性である。だから人の妻を横取りすることになるので警告しているのです。
 アビメレクも、当時の王様としての常識の中で「側室は良い」と思っていたが、他人の妻を自分の妻にすることに関してはダメだと思っていたのです。その倫理観は正しかったわけです。その倫理観、道徳心のことをアビメレクは自分で「正しい心と汚れない手」と言って弁明したということです。それは、主を知らない外国人なりに最善を尽くして正しく生きようとしている人の美しい姿でした。だから、そのことを神様も評価しています。6節。
「神は夢の中で、彼に仰せられた。『そうだ。あなたが正しい心でこの事をしたのを、わたし自身よく知っていた。それでわたしも、あなたがわたしに罪を犯さないようにしたのだ。それゆえ、わたしは、あなたが彼女に触れることを許さなかったのだ。』」
 神様は、アビメレクの弁明に何とお答えになったか。それは、
「そうだ。あなたが正しい心でこの事をしたのを、わたし自身よく知っていた」
 神様が「そうだ」とこのアビメレクを認めるところに神様の深い愛と憐みを覚えます。アビメレクはアブラハムの子孫でも親戚でもありません。砂漠にすむ小さな国の王様です。だから真の神様のことは知らなかったと思われます。でも、そうであっても、主は彼の心を「よく知っていた」と言ってくださる。しかも罪を犯さないように配慮してくださっている。ここに、聖書の神様が決してイスラエル人だけを救おうとしているのではなく、神に造られたすべての人間を愛し身許に招いておられることがわかります。
 それは、現に私たち日本人に対しても同じです。神様は、どの国のどの民族の人でも、その人の中に残っている神のかたちをご覧になって祝福を与えてくださるお方だということです。しかも、神様はアビメレクにこのように言われます。7節
「今、あの人の妻を返していのちを得なさい。あの人は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう。しかし、あなたが返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことをわきまえなさい。」
 神様は、アビメレクに妻を返しなさい。さもなければ死ぬとは言われていますが、何よりも大事なことを二つ仰っています。
 その一つは、「いのちを得よ」です。神様がこの警告をなさっておられるのは、アビメレクがいのちを得るためだったという福音のメッセージです。そして、もう一つは、その妻の夫であるアブラハムに祈ってもらったらそうなるということです。それは、「あの人が預言者」だからだと。アブラハム自身が言えなかった主を信じる人としての立場を神様が証ししてくださったのです。これによって、アビメレクが救われるばかりか、アブラハムの役割を異邦人であるアビメレクに知らせて、神様がアブラハムを通して行おうとしている人類救済の大きな計画を垣間見せたのです。それはアブラハムを通してすべての国民が祝福されるという祝福のことです。

 

2.アブラハムの弁明と回復
 結果的にサラは返されて、アブラハムは、このアビメレクのために祈り、名実ともに神の預言者として整えられます。先に17節、18節をお読みしましょう。
「そこで、アブラハムは神に祈った。神はアビメレクとその妻、および、はしためたちをいやされたので、彼らはまた子を産むようになった。主が、アブラハムの妻、サラのゆえに、アビメレクの家のすべての胎を堅く閉じておられたからである。」
 そこでアブラハムは祈ったとありますが、それは自分のためではありません。彼が出会った人。言い換えると神が出会せてくださった人であるアビメレクとその家族、彼に関わる人々の祝福です。この他の人のために祈ること、執成すことは、実は既に経験していました。それは、あのソドムとゴモラが滅ぼされる前のことです。しかし、それだけでなく、さらに神の預言者となるためには、彼はもう一度、自分の弱さを知り、それをあらためて神様の前に取り扱っていただかなければなりませんでした。9節、10節を読みます。
「それから、アビメレクはアブラハムを呼び寄せて言った。『あなたは何ということを、してくれたのか。あなたが私と私の王国とに、こんな大きな罪をもたらすとは、いったい私がどんな罪をあなたに犯したのか。あなたはしてはならないことを、私にしたのだ。』また、アビメレクはアブラハムに言った。『あなたはどういうつもりで、こんなことをしたのか。』」
 アビメレクはアブラハムに言います。あなたは何ということをしてくれたのか。ここまでは前回のエジプトのパロに言われたことと同じでした。しかしアビメレクは更に続けます。あなたが…こんな大きな罪をもたらすとは。いったい私がどんな罪をあなたに犯したというのか。アビメレクが繰り返し強調していることは何でしょうか。それは罪の問題です。それは、アブラハムの罪です。それもこんな大きな罪と、アビメレクは、この出来事を罪の問題としてアブラハムに訴えているのです。これは前回のエジプトではなかったことです。どうして、アビメレクがここまで罪を犯すことになることに大声を上げているのでしょうか。それは、彼の方が神を恐れていたからではないでしょうか。異邦人であり真の神を知らないはずのアビメレクですが、神を恐れているからこそ、罪に対して敏感に反応し、アブラハムがもたらしたこの失敗が単にアブラハムの弱さを越えて、それは罪であると指摘したのです。
 では、それに対するアブラハムの反応はどうだったでしょう。11節
アブラハムは答えた。「この地方には、神を恐れることが全くないので、人々が私の妻のゆえに、私を殺すと思ったからです。」
 アブラハムの答えは、「この地方には、神を恐れることが全くないので」という、明らかにアビメレクをはじめとするこの地域の人たちを蔑んでいるということ暴露し、それを正当化して自分は仕方がなく妻を妹と言っている。しかも、それだって決して嘘ではないと。妻のサラが母の異なる妹であるのは確かなのだから。なんと言っても「私を殺すと思った」「あなたたちは神を全く恐れていない」そうやって、自分の判断はあなたを困らせたかも知れないが、それは私のせいではないのだ。そう言っているようなものでした。これはアビメレクにすれば侮辱です。ここで逆にアビメレクのその正義感によって、アブラハムは殺されても仕方がない状況です。
 するとここまでアブラハム預言者として、どうでしょうか。神の御心を行うべく選びの民、祭司である国民として大丈夫でしょうか。しかし、ここで、ある出来事を通してアブラハムは造り変えられます。14節~16節
「そこで、アビメレクは、羊の群れと牛の群れと男女の奴隷たちを取って来て、アブラハムに与え、またアブラハムの妻サラを彼に返した。そして、アビメレクは言った。「見よ。私の領地があなたの前に広がっている。あなたの良いと思う所に住みなさい。」彼はまたサラに言った。「ここに、銀千枚をあなたの兄に与える。きっと、これはあなたといっしょにいるすべての人の前で、あなたを守るものとなろう。これですべて、正しいとされよう。」
 そこで、アビメレクがしたことは、そのグダグダ言い訳をし続けるアブラハムに対する怒りや、呪いではなく、何と祝福を与えるのです。前回、エジプトのパロはただ恐れて、頼むから早く出て行ってくれという感じでしたが、アビメレクは違いました。アビメレクは、自分の土地さえも自由に住んでいいよ。お金もあげるので、それがこの土地で生きるための助けになるだろう。そう言って、アブラハムとサラを祝福したのです。

 

結び
 実は、この14節から続く二つの「そこで」を通して、アブラハムが神の選びの民、預言者として、神様との関係も修復されたという事が出来ます。というのも、今日の創世記20章に入ってから、なぜか「主」という神様のお名前が見当たりません。でも、この二つの「そこで」を通らされてから18節でようやく「主が」と出てきます。これは明らかに創世記の記者が意識的にそうしたと考えられます。それは、「神」という言葉の間中、アブラハムの心は「主」から離れていたということです。主ではなく人を見て恐れていたということでしょう。でも神様は、あえてアブラハム自身の弱さに向き合わせ、一連の出来事を通して、最後にアブラハムは「主」を見上げることができたのです。
 ですから、それは、まずアブラハムは自分の弱さから生まれた大きな罪に、彼自身が気付かされることでした。そして、エジプトでもそうですが、ここに来ても他の外国人たちを見下す姿勢、その高慢にも主はくさびを打ち込まれました。アブラハムが蔑んでいたアビメレクの方がむしろ正しく生きようと最善を尽くしていた。しかも、罪に敏感に反応して神を恐れて生きていたことです。ここで、アブラハムの高慢な鼻がへし折られたのです。そして、最後に、そのアビメレクが、どうして最後にアブラハムに怒りを燃やして処刑せず、また早く帰れと追い出さず、財産を与えて祝福したのか。
 それは、主の赦しを経験していたからです。実は選びの民アブラハムではなく、アブラハムから見下され、この土地には神を恐れることがないと見くびられていたアビメレクが、主の大きな憐みと赦し、その愛に打たれて、彼の心は呪いや怒りから解放され、本来怒りを注ぐはずの相手、アブラハムを祝福するものとされたのです。
 そのアビメレクの姿を通して、アブラハムは、彼が主に対する感謝によって祝福していると気付かされ、目が開かれたのではないでしょうか。それで、18節から、あらためて主なる神、ヤハウェなる主は、遠くにいる神ではなく、さらにアブラハムに祝福を与える主として歩んでくださるのです。

 

適用
 このアブラハムの出来事は、私たちの信仰の歩みにもそのまま適用できます。私たちもみんな弱さを持っています。しかし、弱いから仕方ないと、その弱さに負けたままでいることを放置してはいけません。その弱さの放置は、大きな罪を犯すことに繋がるからです。
 今日のみことばでアブラハムが変えられたのは、まず罪の指摘を受けたこと。そして怒りや呪い、叱責ではなく、祝福を与えるアビメレクの生き様によってでした。アブラハムの罪を指摘しながらも、主の赦しを受けて自分も赦す。それこそ、福音の感謝の中で生きる信仰者の姿です。
 主の赦し、主の愛を経験した人の姿は出会う人の生き方を変えます。主に罪が赦され、その愛が分かった人はその生き方で福音を伝えているのです。その生き様で主の祝福を広めているのです。アブラハムは、このアビメレクを通して主の祝福の恵みを味わい、多くの人々のために神の前に執り成し祈る人に変えられたのです。
 何よりも主イエス・キリストの贖いによって神の完全な赦しの福音をいただいた私たちは、このアビメレク以上に、またアブラハム以上に神様の偉大な愛を知らされています。そうであるならば、自分の弱さから逃げずに、主に取り扱っていただきたいと思うのです。あなたの弱さはなんでしょうか。ついつい繰り返してしまう失敗。それぞれ違うと思いますが、そのことを、繰り返してしまうからと言ってあきらめないで、主の前に悔い改め、それでもなお赦しを持って「預言者」だと呼び、アブラハムを立たせてくださる主の愛に触れていくのです。
 今週も、益々主を愛し、感謝し、祈る人、主の預言者として、整えられていこうではありませんか。


祈り