のりさん牧師のブログ

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2020年7月13日(月) きょうのみことば

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「アザルヤの傲慢」

列王記 第二 15章1〜22節
1,イスラエルの王ヤロブアムの第二十七年に、ユダの王アマツヤの子アザルヤが王となった。
2,彼は十六歳で王となり、エルサレムで五十二年間、王であった。彼の母の名はエコルヤといい、エルサレム出身であった。
3,彼は、すべて父アマツヤが行ったとおりに、主の目にかなうことを行った。
4,ただし、高き所は取り除かれなかった。民はなおも、その高き所でいけにえを献げたり、犠牲を供えたりしていた。
5,主が王を打たれたので、彼は死ぬ日までツァラアトに冒された者となり、隔離された家に住んだ。王の子ヨタムが宮殿を管理し、民衆をさばいた。
6,アザルヤについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、それは『ユダの王の歴代誌』に確かに記されている。
7,アザルヤは彼の先祖とともに眠りについた。人々は彼をダビデの町に先祖とともに葬った。彼の子ヨタムが代わって王となった。
8,ユダの王アザルヤの第三十八年に、ヤロブアムの子ゼカリヤがサマリアイスラエルの王となり、六か月の間、王であった。
9,彼は先祖たちがしたように、主の目に悪であることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪から離れなかった。
10,ヤベシュの子シャルムは、彼に対して謀反を企て、民の前で彼を打ち殺し、彼に代わって王となった。
11,ゼカリヤについてのその他の事柄は、『イスラエルの王の歴代誌』にまさしく記されている。
12,主がかつてエフーに告げられたことばは、「あなたの子孫は四代までイスラエルの王座に着く」ということであったが、はたして、そのとおりになった。
13,ヤベシュの子シャルムは、ユダの王ウジヤの第三十九年に王となり、サマリアで一か月間、王であった。
14,ガディの子メナヘムは、ティルツァから上ってサマリアに至り、ヤベシュの子シャルムをサマリアで打ち、彼を殺して、彼に代わって王となった。
15,シャルムについてのその他の事柄、彼が企てた謀反は、『イスラエルの王の歴代誌』にまさしく記されている。
16,そのとき、メナヘムはティルツァから出て、ティフサフとその住民、その領地を討った。彼らが城門を開かなかったので、その中のすべての妊婦たちを打ち殺して切り裂いた。
17,ユダの王アザルヤの第三十九年に、ガディの子メナヘムがイスラエルの王となり、サマリアで十年間、王であった。
18,彼は主の目に悪であることを行い、一生の間、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪から離れなかった。
19,アッシリアの王プルがこの国に来たとき、メナヘムは銀千タラントをプルに与えた。プルの援助によって、王国を強くするためであった。
20,メナヘムは、イスラエルのすべての有力者にそれぞれ銀五十シェケルを供出させ、これをアッシリアの王に与えたので、アッシリアの王は引き返し、この国にとどまらなかった。
21,メナヘムについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。
22,メナヘムは先祖とともに眠りにつき、その子ペカフヤが代わって王となった。

 

 アザルヤは父アマツヤに倣って主の目にかなうことを行ったと聖書は証言しています。でも、高き所はそのままでした。このあと、アザルヤは主によってツァラアトにかかります。それは、彼の傲慢にあったと言われます。

 彼については歴代誌第二26章に、その功績と罪が記されています。彼は別名ウジヤであり、彼の教育者であるゼカリヤが生きている間は、委ねられたユダ王国をきちんと治めていました。ところが、途中から脱線し出します。

"しかし、彼が強くなると、その心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は自分の神、主の信頼を裏切った。香の壇の上で香をたこうとして主の神殿に入ったのである。" 歴代誌 第二 26章16節

 ウジヤすなわちアザルヤは、祭司でもないのに、香を焚こうとして神殿を侵したのです。これは、いくらダビデ王家によるユダ王国の王とは言え、許されることではありません。

 その罪の行動の原因は何か。それは、彼の高ぶりであったと記されている通りです。彼は、最初はみことばに従い、信仰をもって歩んでいたと考えられますが、「強くなると」とあるように、事が上手くいって、何だか自分の力で、自分の能力で勝ち進んでいると錯覚し始めたのです。

 このような傲慢が信仰生活を蝕むことは、私たちにもあることです。自分の行いに立つとき、それまで主への感謝によって行ってきたすべての麗しい業が、献げものではなく、報酬を得るための業務と化すのです。

 きょう、このみことばから、私たちの中にある傲慢について思い巡らしましょう。もし気づかされる傲慢があるならば、そのまま主の前に置きましょう。そして、主にお取り扱い頂き、主の方法できよめていただくのです。

 大切なことは、そのままの自分を主に見ていただき、主の御霊によって変えられていくことを認め、委ねる祈りを、常に心がけていくことです。そこには、「強くなり」ではなく、へりくだる心が起こされて、自分の王国ではない、神の御国が広がっていくからです。

 

"だれが自分の過ちを悟ることができるでしょう。どうか隠れた罪から私を解き放ってください。
あなたのしもべを傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。そのとき私は大きな背きから解き放たれて全き者となるでしょう。
私の口のことばと私の心の思いとが御前に受け入れられますように。主よわが岩わが贖い主よ。"  詩篇 19篇12~14節

 

"主を愛せよ。すべて主にある敬虔な者たち。主は誠実な者を保たれるが高ぶる者には厳しく報いをされる。"
詩篇 31篇23節


 

"高ぶりが来れば、辱めも来る。知恵はへりくだる者とともにある。"
箴言 11章2節


"神は、さらに豊かな恵みを与えてくださる」と。それで、こう言われています。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」"
ヤコブの手紙 4章6節