のりさん牧師のブログ

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2020年8月4日(火)きょうのみことば

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ルカの福音書 14章15~24節

"15 イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」
16 するとイエスは彼にこう言われた。「ある人が盛大な宴会を催し、大勢の人を招いた。
17 宴会の時刻になったのでしもべを遣わし、招いていた人たちに、『さあ、おいでください。もう用意ができましたから』と言った。
18 ところが、みな同じように断り始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、見に行かなければなりません。どうか、ご容赦ください。』
19 別の人はこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それを試しに行くところです。どうか、ご容赦ください。』
20 また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』
21 しもべは帰って来て、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人たち、からだの不自由な人たち、目の見えない人たち、足の不自由な人たちをここに連れて来なさい。』
22 しもべは言った。『ご主人様、お命じになったとおりにいたしました。でも、まだ席があります。』
23 すると主人はしもべに言った。『街道や垣根のところに出て行き、無理にでも人々を連れて来て、私の家をいっぱいにしなさい。
24 言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいません。』」"

 イエス様と一緒に食事をしていた人が、その交わりがとても楽しく幸せに思えたのでしょう。それを叫ばずにはおられませんでした。

"15 イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」

 

 それは、まさに天国にいるかのような、いや事実、主イエス様が共にある交わりですから、その場所は神の国であったのです。その喜びを堪えきれなかったのでしょう。

 そこで、主イエス様は神様は、この神の国に多くの人を招いているが、多くの人は自分からその招きを断っているという喩えを話されます。

 このイエス様のお話には、初めに選ばれて招かれていながら、何か理由をつけて、その招きをみすみす断っている人たちと、そのあとで、招かれて食卓についた体の不自由な人、また貧しい人たち。

 それでもまだ席が空いていたので、更に招いて、席がいっぱいになるように望む主人の姿がそこにあります。

 この主人とは神様のことです。そして、最初に選ばれた人たちはイスラエル民族かも知れません。それは、アブラハムの子孫として、他の民族に先立って選ばれていながら、神が遣わしたイエスがメシアであるとは受け入れず、十字架にかけて殺すからです。

 だから、そのあとで招かれた人たちとは、異邦人なのに、イエス様を受け入れた人たちということができます。

 では神様は、初めに招いた人たちが断らなかったならば、その他の人たちのことは招かなかったのでしょうか。そうではありません。主人である神様の御心は、23節の言葉に表されています。

23 すると主人はしもべに言った。『街道や垣根のところに出て行き、無理にでも人々を連れて来て、私の家をいっぱいにしなさい。

 神様は神の国がいっぱいになることを願っておられます。だから、みんなを選び招いているということがわかります。その中にあなたも入っているのです。でも、自分の都合で、その招きを断ってはいないでしょうか。その祝福、恵みを自分から棒に振ってはいないでしょうか。

 神の御心はすべての人が救われることです。しかし、神様は人間をロボットのように、プログラミングで思い通りになるようにはお造りにならなかったので、人間は自由意志で、その招きを受け入れることも断ることもできるのです。

 でも、その招きを断り続けるならば、それは永遠のいのちを自分から捨てることになるのだとイエス様は警告しています。

 ときどき、自分はイエス様を信じているけど、まだ自由にしていたいので、まだ洗礼は受けたくない。死ぬ寸前に洗礼を受けたいという人がいますが、その人は、大事な点を見落としています。

 それは、神の国とは死んでから行く場所ではなく、信じた時から始まる、主イエスとの交わりであり、それは信じて洗礼を受け、聖霊をいただいた時から起こるものだということです。今すぐに得られる幸いを自分の都合で断り続けるならば、それは、神の招きを軽んじているということです。死ぬ寸前に信じるというのは、きょうのみことばの初めに招かれた人たちと同じ態度だということです。そういう人は神の国がわかっておらず、神の招き、神の選びの尊さを軽んじているのです。

 それは、同時に神を愛していないということですから、それは神様にとって最も悲しい出来事なのです。神様を悲しませてはなりません。

 今という時間があるうちに、今から始まる神の国をぜひ受け入れましょう。そのためにイエス様が来てくださいました。神なのに、私たちに見える姿で来てくださって、一人でも多くの人を神の国に招いています。

 きょうも主イエスは、15節で叫んだ人のように、私たちが今から始まる喜びの人生を味わうことを願っています。神の祝福の招きが続いているうちに、ぜひその招きに応えていこうではありませんか。

 

"主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。"
ペテロの手紙 第二 3章9節