のりさん牧師のブログ

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2020年8月9日 礼拝説教

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https://youtu.be/TNKis3ekw4M

 

説教題 「アビメレクとの平和の契約」      
聖書箇所 創世記21章22節~34節
 
序論

 75年前の今日、8月9日午前11時2分に、長崎に原子爆弾が投下されました。8月6日の広島に続いての二発目だったわけですが、そこで約7万4千人の方々が亡くなり、広島の犠牲者と合わせると、死者は20万人以上にのぼります。
 この6日後に日本はポツダム宣言を受け入れ、天皇玉音放送によって降伏することを宣言します。でも8月15日の玉音放送後も終戦を知らない兵士や、死んでも戦う気でいた人たちは戦地で戦い続けていたのです。
 また、75年前の今日は、長崎の被爆だけでなくソ連軍による日本への攻撃が始まった日でもあります。当時まだ日本領だった南樺太にいた電話交換手の女性たちが最後まで仕事を続け、目前に迫るソ連兵を前に10名が郵便局内で青酸カリを飲んで服毒自殺をはかり9名が殉職した真岡郵便局事件は有名な実話です。その事件が起こったのは玉音放送の5日後の20日でした。内地においては玉音放送によって戦争が終わったと思っていた最中でしたが、北海道の北にはソ連軍が迫ってきていたのです。詳しくは赤レンガ道庁の二階にその記録が展示されていますので、ぜひ一度ご覧いただければと思います。その悲惨な様子がよくわかる資料があります。
 このような戦争は二度と起こしてはならないことです。でも人間の歴史を振り返ると戦争がなかった時代はありません。それでも75年間、戦後日本は、戦争を直接的にはしてこなかった。それは、とりあえずは良いことだと思います。でも、最近はミサイル防衛のために敵地を攻撃することの話し合いが進められるような報道がされています。海上自衛隊航空母艦保有するようにもなっています。それは、敵地に近い場所から航空機を飛ばして敵地を直接攻撃しやすいからです。先ほど私が、戦後日本が戦争を直接的にしてこなかったことを「とりあえずよかった」と言ったのは、表面的にでも平和に見えることに対してであって、それは本当の平和ではないからです。その内側は常に戦争する方向へと進んできているからなのです。
 今日の聖書は、そのような戦争をはじめ人間同士のトラブルはどのように克服して、平和を築いていけるのか。そういう問題に光を当てている箇所だと思います。アビメレクという王様がアブラハムにわざわざ会いにきました。それは、何のためだったのか。それが結果どうなったのか。それは今の私たちにどのように関わっているのか。そのことを聖書に聞いていきたいと思います。
 
1.話し合いによって
 今日、登場するアビメレクのことを覚えているでしょうか。創世記20章に出てきた人です。アブラハムが妻のサラのことを妹だと言った2回目の事件で、サラが召し入れられたゲラルの王様です。アビメレクはアブラハムの言ったことを信じて、サラを召し入れました。しかし、その夜に神様が夢に現れて「サラをアブラハムに返して、いのちを得なさい」というみことばを与えてアビメレクを励まします。アビメレクもまた、欺かれた怒りに燃えることなくアブラハムのもとにサラを返し、たくさんの祝福をもってアブラハムを優遇するのです。アブラハムもそのアビメレクに働いてくださった主の恵みによって信仰が与えられて、神の預言者としてアビメレクのために祈るのです。
 そのようにアビメレクとアブラハムの関係は主の介入によって、良好なものとなり、異邦人であったアビメレクも主の恵みに動かされてアブラハムを祝福していたのです。ところが、アブラハムがどんどん祝福されて裕福になり、単に一族の長というだけでなく一国の王様に匹敵するほどの力を持つようになると、穏やかではなくなってきたのです。おそらくアビメレクの耳には、このまま放っておいたら逆に襲われてしまうかも知れない。そういう危機感を持ったと考えられます。それで、わざわざアビメレク自身でアブラハムのところへやって来るのです。しかもアビメレク軍の将軍も連れて来て、かなり大掛かりな訪問となりました。22節、23節の会話の部分を読みます。
「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる。それで今、ここで神によって私に誓ってください。私も、私の親類縁者たちをも裏切らないと。そして私があなたに尽くした真実にふさわしく、あなたは私にも、またあなたが滞在しているこの土地にも真実を尽くしてください。」
 この危機感はわかりますね。日本も北方領土問題を解決してロシアと平和条約を早く締結したいというのは、敵対関係ではなく共存共栄するもの同士として安心できるからです。
 それで、アブラハムの側で攻撃も侵略しないことを誓ってほしいと訴えます。それも、その平和条約は絶対に破られないものとするために、神によって誓ってほしいと言います。この神様は、アビメレク自身も体験済みのアブラハムが信じている神様のことでしょう。そこでアブラハムはあっさりと「私は誓います」とアビメレクの申し出を受け入れたのです。
 このアビメレクの姿勢は素晴らしいと思います。アブラハムとは以前に関わっていたから大丈夫だろうと楽観視せず、きちんと話し合いに来ているということです。しかも異邦人ではあっても一国の王様が直々に来るというのは、その行為自体で、アビメレクにはアブラハムのことを攻撃する気はありませんと言っているようなものです。しかも将軍を連れています。これは味方によっては、将軍を初めとする軍隊を引き連れて脅しているとも見えなくもないですが、そうではないことが22節のアビメレクのことばからわかります。
「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる」
 これは社交辞令ではなく、ただ真実を尽くしてほしいと願いだけであるということを言っているのです。アビメレクは、本当に生きて働かれる神様がともにおられるアブラハムにはかなわない。だから将軍ピコルまで連れて来て正式に申し入れているのです。
 私たちもこのアビメレクの姿勢に学ぶことができます。神様のご支配を認めた上で、話し合いで解決にあたるということです。そこに神様の介入があるからこそ、礼儀を尽くして自らやってくる。今だと電子メールがあって便利ですが、大事なことには自筆で手紙を書いたり、実際に会いに行ったりして、相手への尊敬を表します。それはとても大切なことです。大事なことは、互いに神を間において話し合うことなのです。
 だからアブラハム「私は誓います」と素直に受け入れたのです。
 
2.契約によって平和をつくるアブラハム
 しかし、ここからのアブラハムの姿勢は、アビメレクの姿勢の更に上をいく素晴らしいものでした。というのも、アブラハムはここでアビメレク側のしもべから酷いことをされたことを持ち出すのです。ここをサッと読むと、アブラハムは一方的に誓わされてイラっとしたのかなとも思えます。アブラハムにしたら自分がそんなことするはずがない。気にもとめていないことを指摘され誓ってくれなどと言われて腹を立てても良い場面かも知れません。
 でも、そうではなく、あえて七つの井戸の事件を持ち出して、このアビメレクとの契約をきちんとしたものにしようとしたのです。
 アビメレクはアブラハムに、23節で「私に誓ってください」と言いました。それに対して、アブラハム「私は誓います」と答えて終わりではなく、それが口約束だけでない、正規な契約、いのちがかかった真剣な誓いであることをアビメレクに示した。そう言えるのです。そのために井戸を用いて七頭の雌の子羊を与えて、それを契約のしるしとしたのでした。
 誓うという言葉はヘブル語でシャバと言いますが、「7」という数は「シェバ」と言って、もともとの語源が同じなのです。だからアビメレクに「シャバ」(誓ってくれ)と言われたときに、「シェバ」(七つ)を思い出して、奪われた井戸の問題解決だけでなく、アビメレクとの平和をつくりあげるために利用したのです。
 アビメレク自身は、自分のしもべたちが、アブラハムが掘った井戸を横取りしたことは知らなかったようです。それで、アブラハムは互いに忘れないように契約を交わします。27節。
「そこでアブラハムは羊と牛を取って、アビメレクに与え、ふたりは契約を結んだ。」
 アブラハムにとって、井戸は決してどうでもよい問題ではありません。なぜなら、今も当時も水は貴重だからです。特に周囲が砂漠や荒野のこのパレスチナ地方では死活問題です。現代で言うなら、自分の家の水道管を勝手に他人の家に引き込まれるようなことをアブラハムは経験していました。でも、アビメレクが来るまではそっとしておいたようです。でも、お互いのためにはそれは良くなかった。その緊張関係を持ったままでは本当の平和にはならない。それで、アビメレクからの平和の誓いを求められたこと逆に用いて、七つの井戸を取り戻し、もう二度とアビメレク側の人たちに奪われないための契約も結んだのです。
 それが七頭の雌の子羊という、将来性と生産性のある羊をアビメレクに与えることで、アビメレクにとって、その羊はアブラハムとの契約のしるしとなったのです。人間は口約束だけでは忘れやすく、そこのところをなあなあにしていると、あとで心変わりされた時に、契約を破棄されかねません。それで契約の誓いをそれぞれにしるしを持ち、記憶に残る方法を用いたのでした。31節。
「それゆえ、その場所はベエル・シェバと呼ばれた。その所で彼らふたりが誓ったからである。」
 それで、その場所は「ベエル・シェバ」と呼ばれました。その意味は、この31節の説明によれば「誓いの井戸」または「契約の井戸」と言えると思います。でも同時に「七つの井戸」という意味でもあるのです。そして、その七つに合わせて羊も七頭与えたのは、七つの井戸はアブラハムのものですよという意味であると同時に、アビメレクとアブラハムとの間で交わされた契約の誓いは完全であるという意味でもあるのです。聖書では7という数字は完全を意味しています。だから、この契約は正式なものとなって、互いに平和を保つことと、七つの井戸がアブラハムのものだということが確認されたのでした。
 
結び
 人間同士の平和は話し合いが大切です。しかし、決裂すればやはり戦争になる可能性があります。それは人間の約束には限界があるからです。日本とソ連も日ソ不可侵条約を締結していましたが、75年前の今日、それが破られ多くの民間人が犠牲になりました。
 そのような人間が行う約束の欠点は何か。それは、お互いに利害関係でしか考えていない現実があります。その契約にあるのは愛と信頼ではなく、互いの利益と疑いです。
 だからこそ、聖書は与える愛によって、主の平和の中に取り込むことが大切であることを教えます。今日の箇所で、誓いを願ってきたのはアビメレクですが、最後まで契約のしるしとしての動物を与えたのはアブラハムだけであり、七匹の子羊の契約の方法もアブラハムの提案でした。それは、まさに神様と私たちの契約に似ています。神様との契約はいつも神様から一方的です。その方法も神様のアイデアです。その神様の契約をアブラハムは気付かないうちに行っていたのかも知れません。神様がお考えになっていることや、神様の立場で味わうことを、アブラハムはこのようなことを通して味わったのです。それが、いよいよ22章以降にある一人子イサクを生贄にする父親の気持ちに繋がっていきます。
 いずれにしても、アブラハムは主との完全な平和があり、一方的な主の恵みを味わっていました。それでアビメレクに対してもアブラハム側から羊を与えて、それを契約のしるしとしたのです。だからアビメレクはその七匹の羊を見るたびに、アブラハムとの平和の約束を繰り返し味わうのです。それはまさに現代を生きる私たちが神の小羊イエス・キリストを仰ぎ見て神様との救いの契約を思い起こすのと同じです。
 私たちには、その主の契約のしるしとしてイエス様の十字架と復活があります。その印を通して、私たちは神との平和を日々味わう。その神との平和の中から、隣人との平和が生まれていきます。もうすぐで終戦の日を迎えますが、世の為政者たちは、より戦争をするように動いてきています。その不毛な殺し合いを止められるのは、神との真の平和を日々味わっているクリスチャンです。
 そのためにも、いつも神が与えてくださった御子の犠牲を思い起こし、神がどれほどの一方的な愛で私たちを愛しておられるか。そこに気づいていきたいと思います。その愛を知るときに、私たちの中から、何をもってその愛に答えていけるか。その思いが湧いてきます。それが、隣人との平和の入口です。
 今週も神がくださった完全な契約、完全な小羊であるキリストを見上げていきたいと思います。
 
祈り