のりさん牧師のブログ

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2020年8月16日 礼拝

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動画配信→https://youtu.be/DJutEhaFhAM

説教題 「ふたりはいっしょに歩き続けた」 
聖書箇所 創世記22章1節~8節
 
序論

 人の痛みを知るということはとても大切なことです。確かにその人の苦しさ、悲しさすべてを知ることは不可能ですが、それを少しでも知って、その心に寄り添い、思いを一つにするということは、逆の立場で考えれば、とても励みになります。それは、寄り添うその心と行動が愛だからです。その愛がわかったときに、それはその人の生きる大きな力になっていきます。
 そのような痛みを互いに分かり合えたら、その間柄こそ、仲間、友と言いあえる関係だと思います。神様とアブラハムも、これまでの出来事を通して、そのような親しい関係になっていました。それは、まず神様がアブラハムを選び祝福した。それにアブラハムは多くの失敗を繰り返しながらも、神様に答えようとしてきた。何かできる自分ではなく、失敗ばかり繰り返す自分に関わり続けてくださる神様の憐みがよくわかった。だから、その憐みをそのまま受け取って来たのです。それが信仰でした。新約聖書ヤコブ書2章23節に、神様とアブラハムの関係がこのように言い表されています。
「『アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた』という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。」
 その神の友として、アブラハムはこの22章で大変な体験をさせられます。それが神の痛みを知るということでした。この22章の出来事はアブラハムに対する神様からの試練であったと1節にあります。だから、私たちが同じことを求められているわけではありません。そうではなく、アブラハムが信仰者の代表としてここを通ってくれたことで、私たちも、アブラハムが学んだ大事なことを学び、その恵みを受け取れるということです。そのことを通して、私たちも神の友としてふさわしいものとされる。神様と益々親しくなる。そのことを今日、みことばを通して受け取りたいと思います。
 
1.はい、ここにおります
 1節を見ましょう。「これらの出来事の後」とあります。それは、21章にあるアブラハムが100歳でイサクが与えられた一連の出来事ということでしょう。そのアブラハムに神様は声をかけられます。「アブラハムよ」
するとアブラハムは「はい。ここにおります」と答えました。
この22章でアブラハムが神様に対して発している言葉は、そんなに多くはありません。11節にもありますが、「はい。ここにおります(ヒネーニィ)」だけです。ここには、もう神様とアブラハムの信頼関係が出来上がっていると言っても良いと思います。阿吽の呼吸のように、名を呼ばれたら、はいと答える。どのくらいぶりかはわからないけれども、神様からの呼びかけがわかるというのは、とても大切なことです。それはアブラハムにとって神様は生活のアクセサリーのようなものではなく、その生活の中心にあったということだからです。
 私は、家の中で呼ばれたら妻の声だとわかります。だから「はい。ここにおります」と妻に答えます。それは、私は妻を愛し、妻と一緒に生活をしているからです。皆さんもいつも一緒にいる人から声をかけられたら、誰の声かわかるでしょう。同じように、神様とも親しくなって、いつもみ言葉に聴き、祈りの生活をしていると、聖書のみことばが読書ではなく、神様からの私への言葉だとわかるのです。
 さて、ここでアブラハムが呼ばれたのには理由がありました。それは、「試練」のためであったことが、1節の言葉でわかります。それはどんな試練だったのか。2節を読みます。
「神は仰せられた。『あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。』」
 ここで神様は、アブラハムに驚くべきことを命じます。それは、イサクを全焼のいけにえとしてささげることでした。しかも、神様はあえてアブラハムにとってイサクがどれほど可愛いか、どれほど愛しているかということを強調しています。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサク」とです。「あなたの、あなたの」とアブラハムにとって、それはかけがえのない存在であるということ。それは、たった一人の息子であるからなおさら愛おしい存在。そのことを、神様もよくご存じで、だからこそ、アブラハムの神様への信仰を試みたということです。神様は、ここでアブラハムの「はい。ここにおります」という素直な信仰を見ておられるのです。それは、神様に対して、あなたのすべてをささげなさいという意味です。
 このことは、私たちにも日々求められている信仰です。わかりやすいのは献金です。献金というのは、感謝と献身のしるしです。だから月謝とか会費とか、お賽銭とは全く違うものです。お賽銭というのは、これだけささげたので良いことがありますようにという神様から幸せを買うようなものです。それは取引です。でも、献金というのは、まず神様からの恵みを知って、その恵みに感謝してささげる私たちの心です。そして、それはその恵みに応答して、私自身をおささげしますというしるしです。確かに収入の一部をささげるのですが、それは感謝の一部ではなく、献身の一部でもありません。私のすべてですという意味なのです。だから、献金には必ず痛みがあるはずです。それは自分を犠牲にしているからです。レプタ2枚ささげたやもめは全財産をささげた。それは平気でささげたのでしょうか。そうではありません。当然、痛みがある。それでも神様の憐みにそのように応えたかったのです。痛みがなくてなにが犠牲でしょうか。何が愛でしょうか。イエス様だって、十字架にかかられる前には、血のしたたりのような汗を流しながら、「できますならばこの杯をわたしから過ぎ去らせてください」と苦しみの中でご自分をささげたのです。
 その身を裂くような痛みを神様は、アブラハムに問うているのです。それは言い換えると、わたしを愛しますかという問いでもあります。
 でも、この神様からの試練はアブラハムにとっては、反論する正当な理由があったと思います。
「神様、あなたは「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれる」っておっしゃいましたよね。どうして、ここで私がイサクを殺さなければならないのですか」と言ってもおかしくない場面です。しかし、アブラハムは多くを語らず、先ほど言った「はい。ここにおります」のまま、その神様のみことばどおりにしようとするのです。
 3節にこう書いてあります。「翌朝早く」。おそらくサラには相談していないですね。アブラハムにとっても、これは大変な決断だったでしょう。でも、アブラハムは神様が矛盾することをなさるはずがない。神様は、神様の方法で、今は自分には理解できないことも導いてくださる。そう信じていたと思うのです。
今日、お読みした交読のみことば。ヘブル書11:19によると、アブラハムは、「神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えた」と書いてありました。それは、神様への絶対的な信頼でした。信仰とは信頼のことです。神様の力をどれほど信頼しているか。それが信仰です。
 ここで大切なのは、アブラハムに対する神の一方的な選びと、その憐みに対してのアブラハムの応答としての行動なのです。信じることは心の中だけのことではありません。それが行動に現れて初めて信仰なのです。だから、イエス・キリストを信じるということは、確かに心で信じて神様から義と認められますが、口で公に告白して救われるというのは、信仰と行動はいつもセットだということです。だから、信じた人は洗礼を受けて、公に信仰を証しするのです。
 アブラハムも、その行動の部分を神様によって試みられたのです。しかも、130歳にもなるアブラハムにとっては信仰の父としての最後のテストだったと思います。これにより、アブラハムが神の友であると呼ばれるようになったのです。
 それが、今日の創世記の文脈で教えている神様の私たちへの教えであります。
 
2.ふたりはいっしょに
でも、今日は、さらに新約聖書も含めた文脈で学びたいと思います。それは、先週も少し触れましたが、この22章の出来事は、アブラハムにとって神様の立場で味わうこと、神様のその思いを神の友として体験することなのだということです。それこそ、神の友としての役目だからです。神様は親しい間柄だからこそ、神様の苦しい立場、その痛みを共有したかったのです。
 今日の箇所は、今、イエス・キリストを信じている者にとっては、信仰の父アブラハムの信仰を学ぶ以上の意味を持っている箇所であることは、冒頭から感じていたはずです。「あなたの愛するひとり子…をささげなさい」という言葉に感じるものがあったはずです。それだけではありません。
 「モリヤの地で」という言葉も、その場所は後のエルサレムのことであり、そこにソロモンによって神殿が建てられたことは歴代誌に書かれています。そして、「わたしがあなたに示す一つの山」というフレーズからは、私は、イエス様が十字架に架けられたゴルゴタの丘が浮かんできます。特に6節をご覧ください。
アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。」
 アブラハムは、たきぎを取ってどうしたと書いてありますか。それを、「その子イサクに負わせ」とあります。私は、今ままで、この箇所はそんなにしっかり読んでいませんでしたので、てっきりアブラハムもいっしょに薪を背負って行ったかのように漠然と理解していましたが、そうではないのです。薪を背負ったのはイサクだけです。背負わせたのはアブラハムです。ここにアブラハムの苦悩を覚えるのです。父親として、愛する一人息子が生贄となり焼き尽くされるための薪すべてを、その息子本人に負わせるアブラハムの苦悩はどんなものか。しかも、アブラハムが持ったものは、火と刀です。それは、息子イサクに下すとどめとなるものでした。ここに、この二人の役割が明確にされています。
 今回、私がこの説教を準備する中で、心が本当に揺さぶられたのは、そのようにイサクを殺すと決め、薪をイサクに負わせつつも、アブラハムとイサクは「いっしょに進んで行った」というところです。イサクは父によって生贄となるために、そしてアブラハムは一人息子を殺すために。しかし、ふたりはいっしょに同じ道を進んで行った。8節では、「いっしょに歩き続けた」と繰り返して強調しています。
 このアブラハムの姿こそ、御子イエス様を十字架にかけて処刑するためにイエス様といっしょにおられた天のお父様の姿であったということです。イエス様が、約1キロのあのヴィアドロローサの道を、十字架を背負って上っていかれる姿を、実は天のお父様もいっしょに上られていたということです。でも、その手には御子のとどめをさす火と刀があった。この苦痛。この痛み。だれが知るでしょう。
 多くの人は言います。神様なんだから、どうせ三日目に復活させるってわかってるんだから、十字架刑で殺すなんて平気だったんじゃないか。また、イエス様の苦しみに対してもそうです。よみがえるって知っているんだから、どうってことなかったんじゃないか。
 でも、そうではなかった。むしろそう誤解され、この救いのための自己犠牲の御業が、神なのだから平気だったと誤解されることをご存じで、だからこそ、親しい友であるアブラハムに知ってほしかった。経験してほしかった。それが天のお父様のお気持ちではないかと推察します。
 イエス様は、かつて中風の男の人を癒すときに、「あなたの罪は赦された」というのと「起きて歩け」というのとどちらが易しい(簡単)かと問われたことがありました。その答えは何だと思いますか。それは「人の罪が赦される」ことがはるかに困難を極めるということではないでしょうか。それは神の御子が自ら十字架を背負い、磔にされ殺される。そして天のお父様も、その御子にさばきを下し、とどめを刺さなければならないという、大きな痛みを通らなければならないからです。
 口先だけならば、何とでも言えます。しかし、それを本当に実行することは、簡単ではないのです。そのことを天のお父様は、友であるアブラハムにも知ってほしかった。ひとり子を手にかけ失う、この痛みを。悲しみを。
 
結び
 今日のアブラハムの試練を見て、こんな信仰バカげているとか、神様のために子どもを犠牲にするなんて非常識だと思う方がおられるかも知れません。でも、その非常識に見えるほどのアブラハムの神への愛と同様に、神様も私たちを愛して、非常識にも愛する御子を犠牲にしてくださったのです。御子キリストを殺すまでしてあなたを愛している神様は馬鹿げているでしょうか。愚かなのでしょうか。神は、そこまでして、あなたを愛し、あなたが滅びることを望まず、なりふり構わず愛しておられるお方なのです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
 アブラハムはまず、その神様の愛に触れていた。その大きな憐みに生きていた。
だからみことばのとおりにイサクをささげようとした。それがアブラハムの神様への信仰の表れであると同時に神様への愛のしるしでもあったわけです。
人の痛みを知るということはとても大切なことです。同じように神様の痛みを知ることはそれ以上に大切です。確かにその苦しさ、悲しさすべてを知ることは不可能ですが、それを少しでも知って、その心に寄り添い、思いを一つにしようということを神様はお喜びになります。それは、神の友として、神に寄り添うその心と行動が愛だからです。
 今日、神様はアブラハムの姿を通して、イエス様を愛しながらも捨てなければならなかった、その御心を教えてくださいました。今週もその天のお父様のそこまでして私たちを救おうとされる、ご愛を覚えながら、私たちもすべてをおささげして、与えられた道を神様といっしょに歩み続けてまいりましょう。
 
祈り