のりさん牧師のブログ

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2020年8月29日(土)きょうのみことば

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列王記 第二 24章
1,エホヤキムの時代に、バビロンの王ネブカドネツァルが攻め上って来た。エホヤキムは三年間彼のしもべとなったが、その後、再び彼に反逆した。
2,そこで主は、カルデア人の略奪隊、アラムの略奪隊、モアブの略奪隊、アンモン人の略奪隊を遣わしてエホヤキムを攻められた。ユダを攻めて滅ぼすために彼らを遣わされたのである。主がそのしもべである預言者たちによって告げられたことばのとおりであった。
3,実に、このようなことがユダに起こったのは、ユダを主の前から除くという主の命によることであり、それはマナセが犯したすべての罪のゆえ、
4,また、マナセが流した咎のない者の血のためであった。マナセはエルサレムを咎のない者の血で満たした。そのため主は赦そうとはされなかったのである。
5,エホヤキムについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、それは『ユダの王の歴代誌』に確かに記されている。
6,エホヤキムは先祖とともに眠りにつき、その子エホヤキンが代わって王となった。
7,エジプトの王は自分の国から再び出て来ることがなかった。バビロンの王が、エジプト川から大河ユーフラテスに至るまで、かつてエジプトの王に属していた全領土を占領したからである。
8,エホヤキンは十八歳で王となり、エルサレムで三か月間、王であった。彼の母の名はネフシュタといい、エルサレム出身のエルナタンの娘であった。
9,彼は、すべて先祖たちがしたように、主の目に悪であることを行った。
10,そのころ、バビロンの王ネブカドネツァルの家来たちがエルサレムに攻め上り、都は包囲された。
11,バビロンの王ネブカドネツァルが都にやって来たとき、彼の家来たちは都を包囲していた。
12,ユダの王エホヤキンは、その母、家来たち、高官たち、宦官たちと一緒にバビロンの王に降伏したので、バビロンの王は、その治世の第八年に、彼を捕虜にした。
13,バビロンの王は、主の宮の財宝と王宮の財宝をことごとく運び出し、主の神殿の中にあるイスラエルの王ソロモンが作ったすべての金の用具を切り裂いた。主が告げられたとおりであった。
14,彼はエルサレムのすべて、すなわち、すべての高官、すべての有力者一万人、それに職人や鍛冶もみな、捕囚として捕らえ移した。貧しい民衆のほかは残されなかった。
15,彼はさらに、エホヤキンをバビロンへ引いて行き、王の母、王の妻たち、その宦官たち、この国のおもだった人々を、捕囚としてエルサレムからバビロンへ行かせた。
16,バビロンの王は、すべての勇士たち七千人と、職人、鍛冶千人からなる勇敢な戦士たちすべてを、捕囚としてバビロンへ連れて行った。
17,バビロンの王は、エホヤキンのおじマタンヤをエホヤキンの代わりに王とし、その名をゼデキヤと改めさせた。
18,ゼデキヤは二十一歳で王となり、エルサレムで十一年間、王であった。彼の母の名はハムタルといい、リブナ出身のエレミヤの娘であった。
19,彼は、すべてエホヤキムがしたように、主の目に悪であることを行った。
20,実に、エルサレムとユダが主の前から投げ捨てられるに至ったのは、主の怒りによることであったのである。その後、ゼデキヤはバビロンの王に反逆した。

 

 エホヤキム、エホヤキン、ゼデキヤとユダ王国の滅亡を前に3人の王が紹介されています。

 これらの王たちに関わり、またユダ王国を包囲し、滅亡させたのは新バビロニア帝国のネブカドネツァル王でした。

 しかし、ユダ王国がバビロンによって滅ぼされるのは主の御手のうちにあることでした。なぜならば、ユダ王国ダビデ王朝であるにも関わらず、偶像礼拝をやめず、王国内に不道徳を蔓延させ、特に今日の箇所ではマナセ王の罪への指摘が強調されているとおりです。

 

3,実に、このようなことがユダに起こったのは、ユダを主の前から除くという主の命によることであり、それはマナセが犯したすべての罪のゆえ、
4,また、マナセが流した咎のない者の血のためであった。マナセはエルサレムを咎のない者の血で満たした。そのため主は赦そうとはされなかったのである。

 

 咎のない者の血を流したマナセの罪の大きさをここであらためて知らされます。それは、神に選ばれ、ダビデ契約まで与えられた王国であっても、それが主の御心に背き、罪を悔い改めないならば、敵の手に渡されることがあるということです。

 ここにはマナセだけでなく、エホヤキムもその子、エホヤキンも、そして叔父のゼデキヤも、主の目の前に悪を行ったと記されています。

 せっかくヨシヤ王が神殿で発見された律法の書、つまり神のみことばに立って宗教改革しても、それが受け継がれないで悪に染まるならば、その集団は一度苦しみを通して、何が間違っていたのか、どのように主に従うべきか、その群れとして反省し、悔い改めなければならないのです。

 このことは、現代において教会にも適用できます。キリスト教会だからといって、神の守りがあるとあぐらをかいていると、そのマンネリ化し、かたちだけの礼拝、形式的な信仰告白、罪のない者たちの血を流すような愛のない言葉と態度が、その群れを危機に追いやるのです。

 特に、ユダの王たちの罪によってバビロンによる滅亡があるように、教会の牧者は注意しなければなりません。主の前に正しく歩んでいるか、まずは自分の信仰の歩みを点検して、群れの監督としてへりくだって主の群れを見ているか、高いところからさばいていないかチェックしなければなりません。

 また、群れ全体も、自分たちの群れの牧者のためによく祈り、みことばに立って群れを正しく導けるように愛をもって支えなければなりません。

 いずれにしても、主の群れにとって必要なのは、神への愛、そして兄弟姉妹への愛です。なぜならば、キリストが教会を愛してご自身をささげられたように、私たちは主を愛し、互いに愛し合わなければ、キリストの教会として、この地上に置かれている意味がなくなるからです。

 だからこそ、思わされます。ヨシヤ王がみことばに立って行こうとした、その改革を。主の群れとして、主のみことばによってリフォームする。それが私たちに与えられた、神に立ち返る唯一の方法です。

 今日も与えられたみことばを豊かに、まず自分自身の中に住まわせ、リフォームを始めましょう。そこから、群れ全体のリフォームも始まっていきます。大切なのは自分自身の力で人を変えることではなく、主のみことばによって自分がリフォームされ、そのリフォームされていく人々が集まって、主のみことばによって群れ全体も改革されていくということです。

 ユダ王国は滅亡しますが、今日の箇所には希望も見出すことができます。それは、エホヤキンだけが降伏したので殺されず捕虜とされるということです。

12,ユダの王エホヤキンは、その母、家来たち、高官たち、宦官たちと一緒にバビロンの王に降伏したので、バビロンの王は、その治世の第八年に、彼を捕虜にした。

 この捕囚となったエホヤキンの子孫からイエス・キリストがお生まれになるのです。ここに、神の配慮と救いのご計画、イスラエル全体のリフォームへの希望を見ます。神は決して神の民を見捨てられないのです。ですから、尚更私たちは、その主の愛の深さのゆえに、私たちにも注がれているご配慮を受け取っていきたいと思います。

 

"そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。
キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。
キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。"
コロサイ人への手紙 3章14~16節