「ユダ王国の滅亡と神の計画」
"21 バビロンの王はハマテの地のリブラで、彼らを打ち殺した。こうして、ユダはその国から捕らえ移された。"
列王記 第二 25章21節
"27 ユダの王エホヤキンが捕らえ移されて三十七年目の第十二の月の二十七日、バビロンの王エビル・メロダクは、王となったその年のうちにユダの王エホヤキンを牢獄から呼び戻し、
28 優しいことばをかけ、バビロンで彼とともにいた王たちの位よりも、彼の位を高くした。
29 彼は囚人の服を脱ぎ、その一生の間、いつも王の前で食事をした。
30 彼の生活費はその日々の分を、一生の間、いつも王から支給されていた。"
列王記 第二 25章27~30節
バビロンの王ネブカドネツァルによって、とうとうユダ王国も滅ぼされてしまいました。これでイスラエルすべてが、この約束の地から消えてしまったのです。
正確には、バビロン捕囚として捕らえ移されたのは、ユダ王国の知識階級の人を中心にしたユダヤ人たちでしたので、そのまま残された人たちもいました。
当時の捕囚は、知識階級の人たちを国から取り除くことで、反乱を企てる心を削ぎ、また、そこに他国人たちを住まわせて、残された者たちと交わらせ、血筋を断つ手段がとられていました。それでも小さな反乱は起きますがネブカドネツァル王の前には、その反乱も悪あがきに過ぎませんでした。
そもそも主がバビロンを通してあえてユダを滅ぼさせた意味があります。それは、神に選ばれた民族だからこそ味わう屈辱、真の神を信じているはずの民だからこそ、経験しなければならない神のさばきがあるからです。ですから、このバビロンによるさばきは結果的に教育的さばきであって、終末的なさばきとは異なります。
何よりも、最後の記事はバビロンに滅ぼされたとしてもダビデ王朝の血筋は守られて、このあとも続いていくことを示唆しています。
エホヤキンは、マタイの福音書のイエス・キリストの系図にエコンヤという名前できちんと載っている、バビロン捕囚のさ中にあってメシア誕生のための鍵となる人物です。これは、エホヤキンが正しい人だったから選ばれているのではありません。ただ主の憐みです。
"バビロン捕囚のころ、ヨシヤがエコンヤとその兄弟たちを生んだ。
バビロン捕囚の後、エコンヤがシェアルティエルを生み、シェアルティエルがゼルバベルを生み、
ゼルバベルがアビウデを生み、アビウデがエルヤキムを生み、エルヤキムがアゾルを生み、
アゾルがツァドクを生み、ツァドクがアキムを生み、アキムがエリウデを生み、
エリウデがエレアザルを生み、エレアザルがマタンを生み、マタンがヤコブを生み、
ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。"
マタイの福音書 1章11~16節
そしてここに、私たち人間のための救いを成し遂げるために歴史に働かれる神の御手を見ます。イスラエルの滅びが単なる滅びではなく、神の愛の御心による救いを予定したさばきであったということです。
一見、絶望的に見える中にある一筋の希望の光、これこそ、聖書が指し示す救いであり、旧約聖書におけるキリストの影です。
また、最後の記事で描かれているエホヤキンの姿は、イエス・キリストを信じて罪を赦された私たちの姿にも重なります。
29 彼は囚人の服を脱ぎ、その一生の間、いつも王の前で食事をした。
30 彼の生活費はその日々の分を、一生の間、いつも王から支給されていた。
囚人だったエホヤキンは囚人服を脱ぎ、いつも王の前で食事をしたというのは、まさに私たちが神と和解し、神との親しい交わりに入れられた状態と重なります。そして、一生の間(クリスチャンは永遠に)、神の国の国民として保証されているのです。
"キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。
バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです。"
コロサイ人への手紙 2章11~12節
"互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。"
コロサイ人への手紙 3章9~10節
キリストを通して古い人を脱ぎ捨て救いを得た私たちの歩みは、今日も聖霊によって新しくされ続けるという確かな神との親しい交わりの中にあります。その神の憐みを今日も味わう一日とさせていただきましょう。