のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

いつも目を覚まして祈っていなさい

 

ルカの福音書 21章20~38節

"しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。
そのとき、ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。都の中にいる人たちはそこから出て行きなさい。田舎にいる人たちは都に入ってはいけません。
書かれていることがすべて成就する、報復の日々だからです。
それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れです。この地に大きな苦難があり、この民に御怒りが臨むからです。
人々は剣の刃に倒れ、捕虜となって、あらゆる国の人々のところに連れて行かれ、異邦人の時が満ちるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。
それから、太陽と月と星にしるしが現れ、地上では海と波が荒れどよめいて、諸国の民が不安に陥って苦悩します。
人々は、この世界に起ころうとしていることを予測して、恐ろしさのあまり気を失います。天のもろもろの力が揺り動かされるからです。
そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。
これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの贖いが近づいているからです。」
それからイエスは、人々にたとえを話された。「いちじくの木や、すべての木を見なさい。
木の芽が出ると、それを見て、すでに夏が近いことが、おのずから分かります。
同じように、これらのことが起こるのを見たら、あなたがたは神の国が近いことを知りなさい。
まことに、あなたがたに言います。すべてのことが起こるまで、この時代が過ぎ去ることは決してありません。
天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。
あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。
その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨むのです。
しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」
こうしてイエスは、昼は宮で教え、夜は外に出てオリーブという山で過ごされた。
人々はみな朝早く、教えを聞こうとして、宮におられるイエスのもとにやって来た。"

  聖書における、未来に起こる出来事を予告する預言は、特定の時代のことを指している場合と幾つかの出来事を重ねている場合があります。

 主イエスが語られたようにエルサレムが軍隊に囲まれる状況というのは、紀元70年に実際に起きた出来事です。それはローマ帝国によってエルサレムが陥落させられたときでした。しかし、その後、シオニズム運動によって1948年に建国されたイスラエル共和国も今後、そのような状況になる可能性も示唆しています。

 それはメシアであるイエスがもう一度来られることにも言えることです。旧約時代にメシア預言があって、多くのユダヤ人たちはメシアの到来を待ち望んでいました。そのメシアがどのように来られるのかも聖書に記されていましたので、人々はその様子もそれぞれにイメージして待っていたのかも知れません。しかも、当時の人々の生活背景からして、そのメシアへの期待は、きわめて政治的なものでした。だから、支配国であったバビロンからの解放、捕囚後も新しいイスラエルの復興のためのメシアを待望していたのです。

 でも、まさか赤ちゃんで来るとは。そのことを待っていたのは、エルサレムにいたシメオンとアンナ、そして東方の博士たちであったと聖書は記しています。

 しかし、メシアはオリーブ山に降りて来ることも言われていますので、それが再臨のキリストであると考えることができます。

 このように、聖書の預言は重複的に、また斬新的に実現していくのです。

 ですから、初代教会のクリスチャンたちも自分たちに起こる迫害が、このイエス様が預言されたことと一致して、世の終わりが近いと悟ったのです。でも、イエス様の再臨はありませんでした。その後も教会は、同じような迫害や災害、患難を経験するたびに世の終わりが来たのかも知れないと考えました。

 では、実は世の終わりなんて、本当はないのに、イエス様は恐怖を煽って緊張感を持って過ごしなさいと言っているのでしょうか。

 そうではありません。世の終わりは、もう目の前に来ているのは確かなのです。それが遅れているように見えるのは神の憐みです。

"主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。"
ペテロの手紙 第二 3章9節


 大切なことは、いつも信仰の目を覚まして神に祈り続ける生活です。それは、いつも緊張してい続けなさいということではありません。

 いつも神様を思い、神様の愛の中にある現実に感謝していなさいということです。神への感謝がある生活は自ずと信仰の目が開かれ、生活の至る所で神の恵みがわかり受け取ることができます。その生き方こそ、もう一度来られるキリストを待ち望む姿です。それは、聖霊に満たされているとも言うことができます。

 きょうも、信仰の目、霊の目を開かせていただき、キリストが今日来てくださっても良いように、神への感謝をささげてまいりましょう。