のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

2020年9月13日 白石教会礼拝

説教題 「約束の地でへりくだるアブラハム」         
聖書箇所 創世記23章1節~20節
 
序論

 人生を旅に譬えるとしたら、皆さんは、今どのあたりにいるでしょうか。詩篇90篇のモーセの祈りという詩篇には「私たちの齢は70年。健やかであっても80年」と言われていることを基準とすると、54歳の私の人生という旅路は、もう少しあるのかなと思います。でも明日死んだら、今日がその旅路のゴール寸前ということになります。私の姉は一つ違いでしたが、もうこの世にはいません。28年前に旅が終わりました。
 ですから、みんなそれぞれ旅の長さが違います。そして、その自分の旅の長さは誰も知りません。でも、最終的には全員が神のもとに帰ります。伝道者の書にはこう書かれています。
「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。」
 私が葬儀説教でよく引用するみことばですが、このみことばは死んだら全員が天国に行けるという話ではありません。みんな神様のもとに帰って、そこで自分の申し開きをしなければなりません。そこで神の子どもとされていなければさばきがあるし、もし神の子どもとされているならば、新しい神の国に入れられ、永遠に神とともに過ごすのです。だから、伝道者の書の記者は言います。
「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に」
 これは人生の旅路のなるべく早くに、神様を認め、神様を信じなさい。そうしないと、旅路が終わってしまうという、人生の先輩からの警告であり、祝福への招きのことばでもあります。
 アブラハムも、人生の旅路の終りに差し掛かりました。しかし、そこで先に愛する妻サラを失います。彼女はこれまでのアブラハムの人生の中で、なくてはならない伴侶でしたが、彼女の旅路の方が先に終わってしまったのです。
 今日のお話は、そのときアブラハムはどうしたか。そして、その行動がこれからのアブラハムの人生、そして、その子孫にとってどんな意味があるのか。ともに聞いてまいりましょう。
 
1.   サラの死と弔い
 サラの一生は127年とあります。アブラハムとは10歳離れていますので、このときアブラハムは137歳。イサクは37歳です。アブラハムが何歳で結婚したのかはわかりませんが、イサクが40歳で結婚したことを参考にアブラハムも40歳で結婚していたと仮定しても、80年以上は一緒にいたことになります。いつも隣にいて当たり前の存在。いつも呼んだら、隣にいて返事をしてくれたサラ。三人の主の使いが来たときは、とっさの来客にもたくさんのパン菓子を作ってもてなしてくれたサラ。そして、90歳のときに念願の一人息子を産んでくれたサラ。こんなおばあさんに子どもなんてと思って最初は冗談に思えて笑ったけど、神様が本当の喜びを味わわせてくださった。その体験をさせられ、信仰者としても整えられたサラ。そんなサラとの日々をアブラハムは、きっと走馬灯のように思い巡らしながら、「サラのために嘆き、泣いた」のです。
 愛する者との別れは悲しいです。苦しいです。心にぽっかり穴が開いてしまったような、不思議な感覚が後から押し寄せてきます。私も26歳のとき姉を亡くしたときは悲しかったですね。私の父と母は、私が5歳、姉が7歳のときに離婚しましたので、そのときは母が家にいないことが多くて、姉と一緒に母方の祖父母の家に預けられたりしていました。でもいつも一つ違いの姉が一緒にいてくれていたので、私は全然不安ではありませんでした。でも、姉が死んだときに、思いました。あのとき、あの二人きりで預けられていたとき、7歳の姉はきっと不安だったに違いない。でも弟の私がいるので緊張しながらも、守ろうとしてくれていたんだ。そんなことを思い巡らして、姉の葬儀のときは今までにないくらい嘆き、泣きました。
 このときのアブラハムもそれと似たような感情だったかも知れません。アブラハムもサラのために嘆き、泣いたのです。
 でも、いつまでも泣いてはいませんでした。なぜでしょうか。3節を読みます。
「それからアブラハムは、その死者のそばから立ち上がり、ヘテ人たちに告げて言った。」
 ここになんて書いてあるでしょう。「アブラハムは死者のそばから立ち上がり」
とあります。これは、アブラハムにとって目の前にいるのは愛するサラのからだではありますが、それはもうサラではなく、死者である。そういう心の切り替え、また事実、生きている妻のサラはこのからだを離れて神のもとへ帰ったのだ。そう確信したので、その希望を持って立ち上がったのではないでしょうか。
 新約聖書へブル書によれば、アブラハムが天幕生活をしたのは、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからだと、このときのアブラハムの思いを代弁しています。そして、その都を設計し建設されたのは神ですと言っています。それは、前回もお話した、天の故郷、神の国のことです。その素晴らしい場所にサラの霊は移された。だから、今、自分はここで泣き崩れ続けてはならない。次のことを行うために、ここから立ち上がる。これが信仰者の姿。神を信じる者の生き方です。アブラハムにとってサラはかけがえのない妻でしたが、肉体の死は誰もが必ず通るものです。でも、それが何なのか解決できていなければ、この悲しみはずっと続くでしょう。でも、神を信ずる者にとって死は、今よりもずっと幸せで、嬉しいところへ行く入口です。一時的な別れの悲しみ、寂しさは経験しますが、それは禍ではなく、もはや悲しみ、苦しみのない場所への移動であり、そして先に逝ってしまった愛する者と再会できるという、至れり尽くせりの恵みの瞬間なのです。
 
2.   約束の地への第一歩
 では、アブラハムは何のために立ち上がったのでしょうか。サラは死んで、もう天国にいるから、からだは抜け殻。それはもうサラではないので、ゴミと一緒に捨てましょう。となるでしょうか。いいえ、そうはならないのです。これまで愛する妻が使っていたからだはからだとして、丁重に葬る。これがサラを失って悲しんだあとにとった最初の行動です。
 霊が神様のもとに行ったのだから、もうからだはどうでも良いのではありません。きちんと弔い、葬るのです。日本では遺体に手を合わせて拝む習慣がありますが、聖書が言う様に、もうこのからだはサラではなく死者です。拝む対象でもなければ、語り掛ける対象でもありません。しかし、丁重に扱い、葬る。これが聖書からわかる遺体に対する考え方です。
 それは、人間のからだは、創世記によれば神のかたちにつくられたものであり、神がその人の母の胎内でかたちづくってくださった神の作品ですから、朽ちていくものではありますが、大切に葬るのです。だから葬儀をして、故人を生まれさせ、命とからだを与えて、ここまで生かしてくださった神を礼拝するのです。そして、まだ生きている私たちが、その葬儀という礼拝を通して、益々、神を信じ、神のみことばに従って、天国を憧れながら、また明日から歩み続けるのです。それが葬儀の意味です。
 だからアブラハムも、サラを葬るための場所を求めたのです。そこで、4節のことを告げます。
「私はあなたがたの中に居留している異国人ですが、あなたがたのところで私有の墓地を私に譲っていただきたい。そうすれば私のところから移して、死んだ者を葬ることができるのです。」
 アブラハムは、サラを葬る場所。お墓を設けたい。それで、現地のヘテ人に相談して、その土地を譲ってほしい。そう願い出ます。譲ってほしいというのはタダでくれということではなく、お金がかかっても自分の妻の墓として手に入れたいということです。するとヘテ人たちも、どうぞどうぞと言ってくれました。
 それでアブラハムも、どの場所が欲しいのか、さらに突っ込んだ話をします。9節を見ると、「十分な値をつけて」と言っています。これは、値切って買ったとしても、後々、土地のトラブルがあったときに、不利にならないためかも知れません。かえって相手の言うとおりに支払った方がお互いの立場が守られると言えます。
 結局、銀400シェケルという価値を支払って、サラの墓を購入しました。この金額がどのくらいの価値なのか。詳しくはわかりません。でも、あとで文句の出しようもないくらい、かなりの出費だったと考えられます。
 それで、「こうして」という言葉を三回も使って、この翻訳では、このお話しの結びとしています。17節から20節をお読みします。
「こうして、マムレに面するマクペラにあるエフロンの畑地、すなわちその畑地とその畑地にあるほら穴、それと、畑地の回りの境界線の中にあるどの木も、その町の門にはいって来たすべてのヘテ人たちの目の前で、アブラハムの所有となった。こうして後、アブラハムは自分の妻サラを、カナンの地にある、マムレすなわち今日のヘブロンに面するマクペラの畑地のほら穴に葬った。こうして、この畑地と、その中にあるほら穴は、ヘテ人たちから離れてアブラハムの私有の墓地として彼の所有となった。」
 ここの結びとして言いたいことは、このヘテ人の土地が正式にアブラハムの私有の土地になったということです。これは何を言っているのでしょう。このサラの死から始まった葬るということを通して、この23章は何を私たちに教えているのでしょうか。
 それは、この三つの「こうして」が言っている通りに、このサラのための墓の購入が何とアブラハムが、約束の地の一部ではありますが、初めて自分のものとした瞬間であるということです。
 神様はかつて、創世記12章7節で、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と言われました。また、13章15節でも「わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう」と言われ、子孫を空の星、海辺の砂のように増やすだけでなく、土地も与えると約束していました。その約束が、このように土地を購入して始まることに、私は、この箇所から説教を準備していて、感動しました。
 それは、もしアブラハムが、この土地は神様が与えてくださっているということを「錦の御旗」のように大義名分として、力づくでもぎ取ることもできたと思うのです。でも、神様の与え方はそうではなく、代価を払って買い取って手に入れるのです。
 確かに、この800年後くらいに聖戦と言って、武力でこの場所を勝ち取っていきます。でも、それはこのあとに、ここの住人の宗教が性的に乱れ、また本当に子供を生贄にするという悪習慣がは極まってしまったので、神様がイスラエル人を用いて一時的にそうしたということであって、神様本来の獲得方法は、やはり話し合いであり、また、ただでもらうのでもなく、高いお金を払っても買うこと。それは贖うということでもあります。そのくらい、自分でお金を払っても価値ある愛するサラの墓であり、約束の地だからです。今のイスラエル共和国も、最初はユダヤ人たちがパレスチナ人から土地を買って増やしていったのです。それは、おそらく、このアブラハムに倣ったものと思われます。
 これによって、このサラの墓は、このあとアブラハム、そしてイサクが葬られ、この墓所を中心にこの町が、ヘブロンと呼ばれることになります。もともとはキルヤテ・アルバでしたが、アブラハムが購入したところから広がって、ダビデの時代にはダビデがこの場所を拠点とするなど、イスラエル王国の要所として用いられることになります。
 サラの遺体を葬るために高いお金を払って購入した約束の地の一部ではありますが、このときはわからなくても、高いお金を払ったかいがあった。犠牲を惜しまず、手に入れて良かった。そういう場所になったということです。
 
結び
 このことは、現代を生きる私たちにも大切なことを教えています。それは、今はわからなくても、神の国のために払う犠牲は必ず用いられるということです。アブラハムはサラの墓のためにと思って大金を払って土地を手に入れました。でも、それが約束の地を得る第一歩となったのです。
 私たちも、今はまだ天の御国、イエス様の再臨も含めて、どんなことなのかイメージできないかも知れません。でも、ただ今できること。つまり神様を愛し、隣人を愛する目的の中でささげていく犠牲は決して無駄にならないということです。この会堂のためにささげ、積み立てていたお金も、途中で計画が頓挫すると無駄になるのではないかと不安にもなるものです。しかし、アブラハムがサラの遺体を葬るために立ち上がったときに、それが約束の地を得るために用いられたように、その積立は昨年、この礼拝室新築と旧会堂をリフォームしたように、神の栄光のために用いられたのです。
 そして、もう一つ大切なことがあります。結果的にサラのための墓所購入が約束の地の入手に用いられた背景には、アブラハム自身の信仰者としての具体的な行動があったということです。
 アブラハムはこのヘテ人の土地でどのように行動していましたか。その生き方が、この23章をずっと貫いているのです。
 まずは、ヘテ人への最初のことばです。それは「私はあなたがたの中に居留している異国人です」と言っています。もし、「ここは神が約束した俺の土地だ」とアブラハムが言ってしまったら、この交渉はうまくいったでしょうか。そして、先ほども触れましたが9節「十分な値をつけて」と相手を立てて値段をつけさせることも大切でした。そして、12節「アブラハムは、その土地の人々におじぎをし」とあります。お辞儀をするのは日本人だけではありません。ヘブル人もするのです。いや、アブラハムもするのです。相手を立てて、このへりくだったアブラハムの姿勢に、ヘテ人たちはどうしたでしょう。それは、6節「亡くなられた方を葬ってください。だれひとり拒む者はおりません」11節「亡くなられた方を葬ってください」15節「どうぞ、亡くなられた方を葬ってください」
 ヘテ人たちは、アブラハムのとことんへりくだって、極めて平和的に話し合いをもって交渉してくる姿に、どうぞ亡くなられた愛する方を葬ってくださいと何度も言うしかなかった。その謙遜な信仰者の生き方に感動するしかなかった。結果的に、この一連のやりとりを通して、主を信じる人の素晴らしさが証しされ、神に栄光が帰されました。そうです。この23章全体がサラの葬儀になったのではないでしょうか。それは、サラを葬ることに向かいながら、すべて神様に栄光が帰されているからです。実は3節のアブラハムが「立ち上がり」という行動を表す言葉は、7節でも表されていますが、17節と20節でも使われているのです。(ヴァヤーコム)それは、アブラハムが信仰の人として、積極的に信仰を実践していたことを表しています。その実践とは、へりくだって平和をつくっていくことだったのです。
 私たちも、このアブラハムのように、へりくだって、主イエスが山上の教えで言われたように、いつも平和をつくる者でありたいと思います。その人は神の子どもと呼ばれる。まさに、それがキリストの姿に変えられることだからです。平和は立ち上がってつくるものです。へりくだることも消極的に見えますが、立ち上がって実践するものなのです。
 ですから、自分のクリスチャンとしていただいている神の子どもとしての権利や優位な立場を誇り、相手を見下すのではなく、その立場、権利すら、ただ神様からいただいた恵みであることを、今週も日々みことばから教えられながら、出会う人たちに喜んで仕える者でありたいと思います。