のりさん牧師のブログ

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2020年9月20日 礼拝

説教題 「アブラハムのしもべ」      
聖書箇所 創世記24章1節~9節
 
序論

 今日から創世記24章に入ります。その主題は「イサクの結婚」です。これはアブラハム契約の中でも大変重要な場面です。それは、アブラハムの子孫が空の星、海辺の砂のように増やされるためには、結婚は欠かせないことだからです。それで、エピソードとしては、一回で取り上げたい箇所ではありますが、その間にも大切な出来事が含まれていますので、今日から、何か所かに区切って、読んでいきたいと思います。
 まずは、今日取り上げるのは1節から9節。「アブラハムのしもべ」のことから学んでいきたいと思うのです。このイサクの結婚という大事な局面で、どうしてしもべが行くのか。そして、そのしもべに嫁探しという働きが与えられるわけですが、その働きに遣わされるにあたり、しもべとして大切なことは何か。そこから今の私たちに語っておられる主のみことばを伺っていきたいと思います。
 
1.イサクに嫁を迎えるため
前回、サラの墓を購入し、サラを葬ったアブラハムも、その人生の旅路の終盤に差し掛かっていました。1節にはアブラハムは年を重ねて、老人になっていた」と書いてあります。先週は妻のサラが死んだ場面を見てきましたが、アブラハムも、もう老人になったと言うのです。
 ここでアブラハムがもっとも気にかかるのがイサクのお嫁さんです。何せ息子イサクは25章20節によれば40歳にもなっています。現代の年の取り方と多少ズレがあるにせよ、もう結婚しても良い年齢でしょう。何よりも、父親である自分が年老いて、このままだと孫の顔も見れずに死ぬかも知れない。そんな心配があったかも知れません。
 そこで、アブラハムはイサクのためのお嫁さんを探すことにします。しかし、140歳という高齢者にとって、この土地を離れて探しに行くのはとても無理な話です。そこで、アブラハム家でもっとも信頼しているしもべに行ってもらうことにしました。このしもべは、アブラハムの家で全財産を任せるほど信頼していた最年長のしもべだったと書かれています。2節の前半。
「そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った」とあります。
この「しもべ」という単語は「奴隷」とも訳せる、(仕える人という意味で)幅の広い意味をもつ言葉です。もしかしたら、アブラハムメソポタミアのウルを出るときから一緒だったのかも知れません。その頃に若い奴隷としてアブラハムに買われて、行く場所もわからずに家族全員で旅に出てしまう、その主人に忠実に長年仕えて来たのかも知れません。あるときはあのシヌアルの王たちにつかまってしまったロトを救うためにいのちをかけて救出部隊に加わった可能性もあります。アブラハムが、妻であるサラのことを妹だと言ったのが二回ありました。でも、その都度、財産が増やされていき、どんどん裕福になっていきました。その様子をずっと、このしもべは見て、聞いて、ともに体験して、このしもべもおそらく老人になっていたと思われます。それでも、アブラハムは、このしもべにお願いしたい。アブラハムは自分自身が嫁探しをするのはとてもできない。しかし、この最年長のしもべならば、必ずや自分の分身のように、その大きな務めを果たしてくれるに違いない。そう期待したと考えられます。そこでアブラハムは、そのしもべにこのように言います。2~4節。
「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。私はあなたに、天の神、地の神である主にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」
 まず、アブラハムはこのしもべに誓うことを命じます。それも「天の神、地の神である主にかけて」誓わせるというのです。それは、この仕事がそれほど大切であるということを物語っています。
 それは、アブラハムが、自分が住んでいるカナン人の娘はだめだと言って、自分の生まれ故郷からイサクの妻を迎えなさいと言っていることです。これは、もうすでに、カナン人たちが偶像崇拝の民であり、不道徳な習慣が起こっていたからだと言えます。だから神の祝福の家を受け継いでいくためには、同じ主を信じる人が最も望ましい。しかも、ここで言っているのは、同じ信仰をもっているならば誰でも良いというのでもありません。7節で、アブラハムがしもべに言ったように、「主は、御使いをあなたの前に遣わされる」と言っているように、そこに神様の導きを求めていくことが大切であるということです。
 結婚はそもそも天地創造のときから神様が定めた制度です。男性と女性が父母を離れ一体となる神聖なものです。それは、信仰の有無に関わらず、すべての人間に与えられた祝福です。だから、結婚するすべての人が神様の前に祝福を受けているのです。ですから、クリスチャンでなくても神様の前に、それぞれの結婚は認められています。ただ、そのような結婚だけでも祝福なのですが、もっと祝福なのは、その結婚を祝福してくださっている神様を二人で信じて、神様の導きの中で結婚することです。それは、新しい二人の生活の中心に一致した神様、一致した信仰が置かれ、その夫婦で築かれる家庭こそ神の教会を表すモデル、神の国の雛型だからです。その結婚が神の栄光を現わすものだからです。
 ですから、これから結婚を考えている人は、結婚のために、神様の導きの中で、同じ信仰、同じ価値観に立てる人と結ばれるようによく祈っていく必要があります。
 
2.主人の責任を負うしもべ
そのくらい、同じ信仰を持つイサクの結婚相手を探すということは、しもべにとって重要な役目となりました。だから誓うように命じられたのです。
 しかし、この誓いがあまり見たことのない誓い方であることに、気づかれた方も多いと思います。
 アブラハムはしもべに、自分のももの下にあなたの手を入れてくれと言います。この「ももの下」とは何でしょうか。ここを聖書の原語であるヘブル語で見ても、「もも」と訳されているとおり、その意味は「腿、太もも、股、台座、基盤」などです。つまり、ここでいう「ももの下」という言葉は、婉曲的に男性の急所のことです。急所という言い方も遠回しですが、ヘブル語でも、直接的な言い方を避けて「ももの下」と言うのです。
 でも、どうしてアブラハムは自分のパンツの中に手を入れるように命じるのか。これはなかなか勇気のいる行為です。誰でも彼でもすることではありません。聖書を見渡しても、アブラハム以外では、孫のヤコブが死ぬ間際に同じことを息子ヨセフにさせます。この方法は、決してこの時代の人が平気だったわけではないと思います。でもそこを乗り越えても、ここに大きな意味があった。だから、あえて、この不思議な方法で誓わせたのだと言えます。
 それは、そのももの下という場所が神様との契約を表す印が刻まれているからだと思われます。それは、創世記17章にありますが、神様はアブラハムに割礼を受けるように命じています。そして、その割礼はアブラハムの家の男性の家族だけでなく、男性のしもべ、奴隷たちにも施されました。それが神様の祝福を受ける者としての印となるからです。それは契約書のサインやハンコのようなものです。
 その神様との祝福の契約を確認させるために、アブラハムはそのしもべに手をももの下に入れて誓うことを求めた。それは、やはり、この仕事はとても大事な意味があるということを表していると言えるでしょう。また信頼しているしもべだからこそ、そのために選ばれているのであって、決して信用していないのではないのです。しかし、しっかりとけじめをつけてその使命に当たらせる。それはアブラハムのしもべに対する信頼と愛情があればこそです。そうでないと、このようなスタイルの誓い、約束はしません。
 私たちも大事な場面では、きちんとしたかたちを用いて、そのことが大切であるということを確認します。例えば、結婚式というのは、まさにその典型です。籍だけ入れても結婚は成立するのに、わざわざ結婚式をするのは何故でしょうか。相手を信用していないから、なるべく大げさに人をいっぱい呼んで、プレッシャーを互いに与え合っているのでしょうか。そうではないと思います。相手を信用していないどころか、愛しているからこそ、この結婚が真剣であり、相手を大切にしているということの証しではないでしょうか。そのことを、体験を通して心に刻み、結婚生活で試練があっても、その体験を思い起こすことで、もう一度愛し合う原点に立ち返るのです。
 洗礼や聖餐式もしかり。イエス様を信じましたという告白で十分ではないですか。でも、かたちにおいて、その信仰を洗礼というかたちを通して公に現わすのです。そこにイエス様とともに罪に死に、そこから新しく生まれ変わり、イエス様に従うこと、信じてついていくことが真剣であり、大切なこととしての意思が表されるのです。そして、聖餐式によって、繰り返し主の愛の契約が今日も注がれている恵みをかたちを通して味わうのです。だから、昨年行った献堂式とか、成人祝福式とか、転入会式とか、かたちを通して、約束を表すことは大事なことです。
 このアブラハムのしもべも、この約束がいのちがけの真剣なもの、大切な働きのためであることを認めて、アブラハムが言う通りに実行したのです。9節
「それでしもべは、その手を主人であるアブラハムのももの下に入れ、このことについて彼に誓った。」
 ここに、「主人であるアブラハム」とあります。しもべは、主人であるアブラハムにそのまま従い、イサクの嫁探しというミッションに立っていく誓いをしました。それは、決して軽いものでなく大変重たい、重要な役割でした。家で財産を預かっている方がどれだけ楽でしょう。しかし、しもべはアブラハムのももの下に手を入れて、神の契約に関わる大切な役目として決断したのです。
 
結び
 このしもべの決断は、現代を生きるクリスチャンの姿でもあります。主なる神様に選ばれ、それぞれ様々な役割が与えられています。特にしもべがアブラハムのひとり息子の嫁を探す旅に遣わされることは、今の私たちにとって、どういうことに適用できるでしょう。それは、神のひとり子イエス・キリストの花嫁なる教会のためにいのちをささげることであり、また、その教会に加えられる人々を探して見つけ出すことではないかと思います。
 それはまさに宣教のために、主人である神様、またイエス様に従い、立って行くことです。私たちも、この働きに召されています。そのために、イエス様は最も惨くて、恥ずかしい方法を通して、それを約束のしるしとされました。それが十字架刑です。ローマの十字架刑は、受刑者の人権は全く考えていない、悲惨と恥辱の刑です。最も残酷な死刑方法と言われています。何故ならは、受刑者が死ぬまで十字架の上でさらし者になるからです。イエス・キリストの十字架というと、たいていは腰には布を巻いているか、ふんどしのようなもので覆われている像や絵画が多いですが、十字架は基本的に、群衆に笑われ、嘲られ、唾をかけられ見世物となりながら死んでいくところに意味が置かれている刑です。本当は素っ裸だったと言われています。その恥ずかしいところを、主はあえて通ってくださった。それは、その十字架によって私たちの罪の身代わりになるだけでなく、それによって救われた私たちが、その恥ずかしい出来事を通して、そのキリストの業を受け継ぐためでもあるからです。 
 本来ならば、そんな恥ずかしいことはしたくないです。でも、どうして、そこまでして、この新しい契約を完成し、それを受け継がせたかったのか。それは、私を、そして、あなたを心から愛し、信頼しているからではないでしょうか。このしもべにアブラハムが全権をゆだねてイサクの嫁探しに遣わしたように、主はその辱めをものともせずに、十字架によって、私たちを宣教へと遣わしているのです。
 その求めに応えるのはだれですか。その十字架に示された福音宣教を主から受け継ぐ人はだれですか。それはあなたです。それは、主イエスがあなたを愛しているからこそ、あなたというしもべを信頼しているからこそ、あなたを選び、ここに招いているからです。
 特に、アブラハムが最年長者であるしもべを遣わしたように、年齢は関係ありません。年長者であればあるほど、神様との付き合いも長いはずです。そうであるならばなおさら、主の働きに招かれています。そして、このしもべが素直にアブラハムのももの下に手を入れたように、私たちも、主の十字架をしっかりと見上げていかなければなりません。それが、この新しい契約を忘れず、伝えていくための秘訣です。
 最後に新約聖書へブル人への手紙12章2節のみことばを一緒に読んで終わりたいと思います。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」
 イエス「はずかしめをものともせずに十字架を忍び」とあります。この主がここまでして与えてくださった十字架の恵みを、私たちも主のしもべとして、しっかりと見上げて、今週もみことばを宣べ伝えて行きたいと思います。