のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

2020年10月4日 白石教会礼拝

説教題 「主のしもべとして生きる」
聖書箇所 創世記24章10節~27節
 
序論

 前回、主人であるアブラハムの「ももの下」に手を入れて誓ったしもべ。このアブラハムに仕えるしもべは、創世記の中でも、また聖書全体の中でも、かなり大きな働きをしていると思います。それは、アブラハムから始まる神の祝福が、イサクの結婚によって更に続き、最終的にはイエス・キリストによる救いと神の国の完成まで繋がっていくからです。
しかし聖書はあくまで彼を無名の人「しもべ」として扱います。前回までのところを振り返ると、アブラハムのしもべの中でも「最年長のしもべ」だったと書いてありました。しかもアブラハムの全財産の管理を任されるほどアブラハムからの信頼が厚かった人でした。ところが名前は出てきません。ずっとしもべのままです。今日の箇所でもせいぜい「その人」とか「この人」としか呼ばれていません。前回に引き続き、今朝も、この無名の人であるしもべの姿から、現代を生きる私たちに対する神の御心を聞いていきたいと思います。
 
1.アブラハムのしもべとして
10~11節。
「しもべは主人のらくだの中から十頭のらくだを取り、そして出かけた。また主人のあらゆる貴重な品々を持って行った。彼は立ってアラム・ナハライムのナホル の町へ行った。」
しもべは、アブラハムとの誓いを行って、カナンからアラム・ナハライムに向かって出かけました。このアラム・ナハライムというのは、メソポタミヤ地方の北部を差す場所で、そこにアブラハムがウルから移り住んだハランという町を含む広い範囲の地域だと言われています。そのハランにアブラハムの兄弟ナホル家族も住んでいたので「ナホルの町」と言われています。しもべは、主人アブラハムが「私の生まれ故郷に」行くように言っていたので、しもべはメソポタミヤ一帯をアブラハムの生まれ故郷と認識していたのだろうと思われます。それでまずはハランへ行くことにしたのでしょう。
 しもべはまずらくだを選びます。らくだはこの当時から人や物を運搬するための役割がある貴重な家畜です。そして当時でも、そのような動物を所有するのはよほどの大金持ちです。それを10頭も。しかも主人であるアブラハムが所有している多くのらくだの中から選ぶわけですから、上等ならくだを10頭も選んだわけです。現代でいうと、ベンツやロールスロイス、ポルシェ、フェラーリなどの高級車を10台準備したのと同じようなことです。そして、アブラハムの持っている貴重な品々も持って行きます。ここはアブラハムの全財産の管理を任されているしもべとしては、慎重に選んだと思います。その中身については22節に一部紹介されてあります。金の飾り輪、金の腕輪などの装飾品でした。つまり、それらのラクダや貴重な品々は、イサクの嫁になる女性の家に納めるための物でした。日本で言うならば結納のようなものでしょう。ですから、ここに、このしもべの本気度が見えてきます。
 それは、主人であるアブラハムのしもべとして、その主人の一人息子イサクのために必ず嫁を探し出すという責任において本気であるということです。もしダメでも8節にあるように、この誓いから解放されるだけですから、しもべにとっては痛くもかゆくもないことかも知れません。しかし、彼はそうは思わずに、必ず嫁を連れて帰って来るという強い意志と使命感をもっていた。それはどうしてでしょうか。それは大きく二通り考えられます。一つは、アブラハムが恐ろしい主人なので、言うとおりにしないと、実は罰を受けるかも知れないという恐怖のゆえに。もう一つは、主人であるアブラハムに若いころ雇われ、今はしもべの中でも重用されるほどにアブラハムから恵みを与えられている。だから、その恵み、アブラハムの愛に応えたいということ。
 答えは、もちろん後者でしょう。このしもべは主人であるアブラハムに対して、愛と感謝に溢れていた。だから、その主人が喜ぶことを行いたい。それがこのしもべの行動の原動力になっていたということです。
 このしもべの行動の原動力は、私たちにおいても大切なことです。私たちも信仰生活が単なる責任感や義務感だけで行動しているならば、それは大変苦しいものでしかありません。でも愛されていること。恵まれていることに日々感謝し、気が付かされているならば、自分から絞り出さなくても、その行動は溢れているので苦しくありません。たとえ自分にとってハードルの高い働きであったとしても、恵みから溢れてくる感謝は、私たちの信仰生活を潤し、積極的な愛の行動として押し出します。
 だから、このしもべにも、準備した持ち物だけでなく、その行動に彼の積極性を見ることができます。11節にその次の行動が記されています。
「彼は夕暮れ時、女たちが水を汲みに出て来るころ、町の外の井戸のところに、らくだを伏させた。」
 しもべは、夕暮れ時の井戸のところにいて、そこで休憩することにしました。それには理由がありました。それは、この夕暮れ時と井戸が当時の女性たちが一斉に集まる時間帯であり、場所であったからです。昼間は日が高くて日差しが強くて暑いので、夕方に行うのです。しかも、水汲みは当時は女性の仕事だったので、この時間に、この場所で休憩したのは、このしもべの作戦だったということです。
 このように、このしもべはアブラハムのしもべとして、その主人の愛に応えるべく自分にできる最善を尽くしたのです。
 
2.主のしもべとして
 そこでしもべは、井戸のほとりで水を汲みに来る女性たちを待ちます。おそらく、もうこちらへ多くの女性たちが向かってきていることでしょう。でも、そこで、このしもべが取った行動は何でしょうか。
 それは、主に祈るということです。ここが、今日の箇所における大切な場面です。それは、自分にできる最善を尽くしながら、その行動を自分の手の中で握りしめないで神様に委ねているからです。
もし、ここで、このしもべが主人であるアブラハムの単なるしもべであれば、自分の取った行動すべては自分の評価になり、それによってイサクの嫁を見つけたならば、それは当然しもべである自分の手柄です。ご主人様、お喜びください。私がこれこれのことを機転利かせて行ったので、無事に務めを果たすことができましたと報告できるはずです。
しかし、このしもべは、自分の行う最善を自分の業とせず、神の導きを求める祈りをするのです。
こう祈っています。12~14節。
「私の主人アブラハムの神、主よ。」
彼が祈る相手は、もちろん主なる神様でした。カナン人の拝む偶像の神々ではありません。主人アブラハムが信じ仕える主なる神こそ我が神であるとして呼びかけ、そのお方に自分の思いと、その計画をお話しするのです。
「きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。 私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください。』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう。』と 言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」
 その祈りは自分の計画に神様が介入されることを願う祈りであり、主人アブラハムに恵みが注がれることを望む祈りでした。主人アブラハムに恵みがあることを私が知ることができるようにとは、主人への祝福こそ我が喜びであるということです。自分の幸せはあの人の幸せを知ることだとです。何と心豊かなしもべでしょうか。
そこに一人の若い女性がしもべの前に現れます。それがアブラハムの兄弟ナホルの孫娘リベカであることは、今、この箇所を読んでいる私たちは知らされていますが、このしもべはまだ知りません。
 しもべは、主に祈ったとおりに計画を実行します。
「どうか、あなたの水がめから、少し水を飲ませてください。」
 その言葉にどう答えるかが、イサクの嫁としてふさわしいかどうか判別する第一の関門です。この「あなたの水がめから」というのがミソですね。そこにはリベカの労力が入っています。しかも、通りがかりの人に自分の水がめから飲ませることに抵抗を覚えるかも知れません。しかし、リベカはその労力も惜しまず、「だんなさま」と言って、しもべに水を与えるのです。ここで、このしもべは生まれて初めて「だんなさま」と呼ばれたわけです。ここは、この聖書では「だんなさま」と砕けた言い方で翻訳していますが、元の言葉を直訳するならば「わが主よ(アドニー)」です。そうです。この名もなきしもべは、ここに来て生まれて始めて、普段自分がアブラハムに対して使っている「わが主よ」という呼びかけを自分に対して使われているという出来事に遭遇するのです。
 このことは、しもべにとってどれくらい嬉しいことだったか。それは、単に自分を立ててくれたという意味で嬉しかったのではありません。主人アブラハムの家に来る嫁として、この謙虚さ、配慮の行き届く女性であったという喜びであります。そして、今度はこのしもべが連れて来たラクダ10頭にも水を飲ませてくれました。20節。
「 彼女は急いで水がめの水を水ぶねにあけ、水を汲むためにまた井戸のところまで走って行き、その全部のらくだのために水を汲んだ。」
 このリベカの行動にしもべはただ見つめるしかありませんでした。それは、彼女こそ、自分が考えていた以上に、主が目的を達成させてくださっている、その人であるということを確信したからでしょう。こんなにも早く、こんなにも祈りの通りに神様が聞いてくださった恵みに感動したことでしょう。しかも、彼女の素晴らしいところは、一貫してその行動に優しさ、また愛があったということです。なぜならば、このしもべが水を求めたときに、彼女は水を飲ませたのですが、「すばやく」18とあります。またラクダに水を飲ませるときも、だらだらしないで「急いで」20前半水がめの水を水ぶねにあけ、グズグズしないで井戸のところまで「走って行き」20後半とあるからです。
 彼女は、旅人であるしもべのことを最優先にして、早く喉が潤されるように。10頭のラクダも元気になるように、自分の労力、手間、時間を惜しまずにしもべに与えたのでした。
 だから、その様子をしもべは、ただ黙って見つめているしかありませんでした。彼の心にはきっと大きな喜びが溢れてきたのでしょう。確信しました。この娘こそ、主人アブラハムの息子イサクに相応しい妻であると。しもべは、もう、持ってきた金の飾りや腕輪を取り出し、あなたはどこの娘さんですか。ぜひお父さんに会って挨拶したい。
 するとリベカが答えます。
「私はナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘です。」
 ここでしもべはきっと鳥肌が立ったでしょう。この娘さんだと確信して、喜んでいたら、何と、自分の主人の兄弟であるナホルの孫娘。つまりアブラハムの甥っ子の娘、イサクにとっては従兄弟の娘という血縁であったということです。それは、つまり、アブラハムと同じ主なる神を信じる人たちであるということです。
 ここで、しもべは居ても立ってもいられなくなり、何をしたか。それは、何とここで、この場所ですぐに主を礼拝したのです。これが今日のクライマックスです。神への祈りで始まり、礼拝で終える。それは、何を意味しているのでしょうか。それは、このしもべの一連の行動が、アブラハムを愛するしもべの話で終わらずに、真の神を主とする神のしもべの姿がここにあるということです。
 彼は名もなきしもべですが、主人アブラハムへの忠実なしもべから、アブラハムと同じ神を信じ、そのお方を礼拝する者として、ここで用いられたのです。彼は、その主の深い摂理と導きの中で、これまで以上に感動を覚え、すぐに、その井戸端で跪き、崩れるように礼拝をささげるしかありませんでした。26~27節。
「そこでその人は、ひざまずき、主を礼拝して、言った。『私の主人アブラハムの神、主がほめたたえられますように。主は私の主人に対する恵みとまこととをお捨てにならなかった。主はこの私をも途中つつがなく、私の主人の兄弟の家に導かれた。』」
 しもべは、ここで形式ではない、心から神を賛美します。それは、自分が祈った以上に驚くべき主のご計画と摂理を見たからです。祈りとはこういうものです。主に求めた通りになったというよりも、自分の小ささが浮き彫りになり、ただ神様のご計画が実現し、そこに主の御心がなることを知らされるからです。
 
結び
 私たちも、名もなきしもべです。それぞれ、色々な場所、その社会で仕えています。しかし、それだけでなく主を礼拝するしもべであることを今日覚えたいと思います。その生き方は、今日のみことばから学んだように、神の前に最善を尽くし、祈る歩みです。祈りだけでもない。行動だけでもない。信じて最善を尽くし祈るのです。そこから与えられた神の業を見て、また感謝に満たされ、主の愛に応えていくのです。このアブラハムのしもべが主の取り計らいによって、リベカに出会わされ、主のしもべとして、その場で礼拝をささげたように、私たちも、それぞれ遣わされた場所で、人々に仕えつつ、どこにおいても、どんなときも主を礼拝するしもべとして生かされたいと思います。