のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

主は贖い出すお方

 

エレミヤ書 31章1~21節

"「そのとき──主のことば──わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。」
主はこう言われる。「剣を免れて生き残った民は荒野で恵みを見出す。イスラエルよ、出て行って休みを得よ。」
主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。
おとめイスラエルよ。再びわたしはあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び踊る者たちの輪に入る。
再びあなたはサマリアの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植え、その初物を味わう。
エフライムの山で、見張る者たちが『さあ、シオンに、私たちの神、主のもとに行こう』と呼びかける日が来るからだ。」
まことに、主はこう言われる。「ヤコブのために喜び歌え。国々のかしらに向かって叫べ。告げ知らせよ、賛美して言え。『主よ、あなたの民を救ってください。イスラエルの残りの者を。』
見よ。わたしは彼らを北の国から連れ出し、地の果てから彼らを集める。その中には、目の見えない者も足の萎えた者も、身ごもった女も臨月を迎えた女も、ともにいる。彼らは大集団をなして、ここに帰る。
彼らは泣きながらやって来る。わたしは彼らを、慰めながら連れ戻る。わたしは彼らを、水の流れのほとりに、つまずくことのない平らな道に導く。まことに、わたしはイスラエルには父であり、エフライムはわたしの長子である。」
諸国の民よ、主のことばを聞け。遠くの島々に告げ知らせよ。「イスラエルを散らした方がこれを集め、牧者が群れを飼うように、これを守られる」と。
主はヤコブを贖い出し、ヤコブより強い者の手から、これを買い戻されたからだ。
彼らは来て、シオンの丘で喜び歌い、主が与える良きものに、穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油、羊の子、牛の子に喜び輝く。彼らのたましいは潤った園のようになり、もう再び、しぼむことはない。
そのとき、若い女は踊って楽しみ、若い男も年寄りも、ともに楽しむ。「わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。
祭司のたましいを髄で潤す。わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる。──主のことば。」
主はこう言われる。「ラマで声が聞こえる。嘆きとむせび泣きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。その子らのゆえに。子らがもういないからだ。」
主はこう言われる。「あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。──主のことば──彼らは敵の地から帰って来る。
あなたの将来には望みがある。──主のことば──あなたの子らは自分の土地に帰って来る。
わたしは、エフライムが悲しみ嘆くのを確かに聞いた。『あなたが私を懲らしめて、私は、くびきに慣れない子牛のように懲らしめを受けました。私を帰らせてください。そうすれば、帰ります。主よ、あなたは私の神だからです。
私は立ち去った後で悔い、悟った後で、ももを打ちました。恥を見て、辱めさえ受けました。若いころの恥辱を私は負っているのです』と。
エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。──主のことば──
あなたは自分のために標識を立てて道しるべを置き、あなたが歩んだ道の大路に心を留めよ。おとめイスラエルよ、帰れ。これらの、あなたの町に帰れ。"

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イスラエルとユダの民らは、それぞれアッシリア、バビロンへと捕われて行きました。それは、主のみことばに聞き従わずに偶像崇拝をやめなかったからです。その罪意識は麻痺して、悔い改めることを忘れてしまったのです。

 主は預言者たちを遣わしてみことばを告げられましたが、聞く耳持たずで、その不品行をやめることはありませんでした。

 なぜ主はイスラエルとユダの民を、ここまでして関わり、彼らに目を留めておられるのか。それは、主はアブラハムに誓われたように、彼らを通して世界中の民が主を愛して主を礼拝するようになるためだからです。

 主は誠実なお方。主はご自身の誓いを必ず果たされる方。だから、みことばで語られたとおりにあくまでアブラハムの子孫である彼らによって地に主の回復と祝福をもたらすのです。

 その回復のことばが、今朝読んだ箇所です。

 特に主が民を愛しているからこそ回復を望んでおられることが語られています。

 

「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。
おとめイスラエルよ。再びわたしはあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び踊る者たちの輪に入る。」

 

  何という慰めに満ちた主のみことばでしょう。あんなに偶像を拝み、主に対して姦淫の罪を犯し続けたイスラエルの民を、主は「乙女イスラエルよ」と呼び、その罪を思い出さずに乙女として受け入れてくださるのです。そこには、ただ罪を思い出さないからそう呼ぶというだけにとどまらずに、罪あるものが赦されたあとに新しく義なる者として造り変えられるという新しい創造があるということです。それはそこに罪の贖いがあるからです。主はこう言われています。

主はヤコブを贖い出し、ヤコブより強い者の手から、これを買い戻されたからだ。

 主はヤコブ、つまりイスラエルを贖い出すのです。どのようにか。それは、第一義的にはバビロン捕囚からの帰還があります。70年の捕囚を味わったイスラエルの民は、主のみことばのとおりに約束の地に帰って来た。それが第一の贖いとなりました。しかし、それだけではありません。それは本当の贖いの影に過ぎませんでした。それは出エジプトとならんで、主によるイスラエルを通して示された贖いのモデルにすぎませんでした。

 その贖いのモデル、型を繰り返されたその先には、御子キリストの十字架の贖いがあったのです。その十字架の贖いこそ、神が全人類に計画された真の罪の贖い。真の救いだからです。

 本来ならば全イスラエル自身がキリストを喜んで迎えてメシアとして受け入れなければなりませんでしたが、またも彼が主に背を向けたため、主は彼らに妬まれ殺されるわけですが、その彼らの罪の業をも用いてご自身の贖いの業とされた。ここに神の知恵があるとパウロが言ったとおりです。

 今日、私たちもこの主の贖いに与っている恵みを受け取りましょう。主の贖いの深さを味わいましょう。今、私が、またあなたが主の目の前にふさわしくないものであったとしても、主は私たちを「乙女イスラエルよ」と読んでくださるのです。私たちは、その主の回復途上にある。そして、かの日には主と同じ姿に変えられて愛する主と会い、目の涙を拭っていただくのです。

 その喜びを今日も先に頂きつつ、主のこの約束を口ずさむ一日とさせていただきたいと思います。

「わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。」