のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

見よ、その時代が来る

 

エレミヤ書 31章22~40節

"背信の娘よ、いつまで迷い歩くのか。主はこの地に、一つの新しいことを創造される。女の優しさが一人の勇士を包む。」
イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。「わたしが彼らを元どおりにするとき、彼らは再び次のことばを、ユダの地とその町々で語る。『義の住まい、聖なる山よ、主があなたを祝福されるように。』
ユダとそのすべての町の者はそこに住み、農夫たちも、群れを連れて回る者たちも一緒に住む。
わたしが疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満ち足らせるからだ。」
ここで、私は目覚めて、見回した。私の眠りは心地よかった。
「見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家とユダの家に、人の種と家畜の種を蒔く。
かつてわたしが、引き抜き、打ち倒し、打ち壊し、滅ぼし、わざわいを下そうと彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見張る──主のことば──。
その日には、彼らはもはや、『父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』とは言わない。
人はそれぞれ自分の咎のゆえに死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。
見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。
その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──主のことば──。
これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──主のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」
主はこう言われる。太陽を与えて昼間の光とし、月と星を定めて夜の光とし、海をかき立てて波を騒がせる方、その名が万軍の主である方が。
「もしも、これらの掟がわたしの前から去ることがあるなら──主のことば──イスラエルの子孫は絶えて、わたしの前にいつまでも一つの民であることはできない。」
主はこう言われる。「もしも、上の天が測られ、下の地の基が探り出されることがあるなら、わたしも、イスラエルのすべての子孫を、彼らの行ったすべてのことのゆえに退ける。──主のことば。」
「見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、この都はハナンエルのやぐらから隅の門まで、主のために建て直される。
測り縄は、さらにそれからガレブの丘に伸び、ゴアの方に向かう。
死体と灰の谷の全体と、東の方ではキデロンの谷と馬の門の隅までの畑は、みな主の聖なるものとされ、もはやとこしえに、根こそぎにされず、壊されることはない。」"
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 預言者エレミヤを通して主は繰り返します。

「見よ、その時代が来る」と。

 第一のその時代。それは主がイスラエルを回復されるとき。

そのとき、わたしはイスラエルの家とユダの家に、人の種と家畜の種を蒔く。
かつてわたしが、引き抜き、打ち倒し、打ち壊し、滅ぼし、わざわいを下そうと彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見張る──主のことば──。
その日には、彼らはもはや、『父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』とは言わない。
人はそれぞれ自分の咎のゆえに死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。

第二のその時代。それは、新しい契約がもたらされる。

そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。
その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──主のことば──。
これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──主のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」
主はこう言われる。太陽を与えて昼間の光とし、月と星を定めて夜の光とし、海をかき立てて波を騒がせる方、その名が万軍の主である方が。
「もしも、これらの掟がわたしの前から去ることがあるなら──主のことば──イスラエルの子孫は絶えて、わたしの前にいつまでも一つの民であることはできない。」
主はこう言われる。「もしも、上の天が測られ、下の地の基が探り出されることがあるなら、わたしも、イスラエルのすべての子孫を、彼らの行ったすべてのことのゆえに退ける。──主のことば。」

 主の新しい契約による祝福は、神の律法がもはや外から与えられ、外から縛られる掟ではなく、人々の心の板に刻まれる、人の心の内側から湧き起こる祝福の泉となるのです。それは、嫌々ながらではなく、むしろ自ら行わずにはいられない積極的な義の業として行うのです。なぜなら、そこには新しい創造があるからです。

 単なる回復ではない新たな創造なのです。しかも、この新しい契約では、主は人の罪を思い出さないからと言われます。それはただ無罪とされただけでなく、初めからなかったこととして扱われると言うのです。

 そして、主の目的が果たされるのです。

わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

 このみことばは、主が繰り返し仰せになるイスラエルの民に対する祝福の宣言であります。そして、イエス・キリストによって成就されたのです。

"しかし今、この大祭司は、よりすぐれた契約の仲介者であるだけに、その分、はるかにすぐれた奉仕を得ておられます。その契約は、よりすぐれた約束に基づいて制定されたものです。
もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、第二の契約が必要になる余地はなかったはずです。
神は人々の欠けを責めて、こう言われました。「見よ、その時代が来る。──主のことば──そのとき、わたしはイスラエルの家、ユダの家との新しい契約を実現させる。
その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握ってエジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。彼らはわたしの契約にとどまらなかったので、わたしも彼らを顧みなかった。──主のことば──
これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである。──主のことば──わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
彼らはもはや、それぞれ仲間に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、小さい者から大きい者まで、わたしを知るようになるからだ。
わたしが彼らの不義にあわれみをかけ、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」
神は、「新しい契約」と呼ぶことで、初めの契約を古いものとされました。年を経て古びたものは、すぐに消えて行くのです。"
ヘブル人への手紙 8章6~13節
 

 そして、最後に三つ目のその時代。それは、建て直される都です。

「見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、この都はハナンエルのやぐらから隅の門まで、主のために建て直される。
測り縄は、さらにそれからガレブの丘に伸び、ゴアの方に向かう。
死体と灰の谷の全体と、東の方ではキデロンの谷と馬の門の隅までの畑は、みな主の聖なるものとされ、もはやとこしえに、根こそぎにされず、壊されることはない。」"

 その時代、神の都エルサレムは新しく建て直されると主は約束されます。その新しい都もキリストの訪れにより成し遂げられます。それは第一にキリストの処女マリアを通しての降誕によって。第二には栄光を帯びて再び来られる時、その時に神の都は建て直されるのです。

 そのため、キリストは通らねばならない道がありました。それが古いエルサレムへ入城し、そこで神へのなだめの小羊として全人類の罪の贖いとなることでした。それにより、罪の赦しのための神の小羊としての芳しい香りが神の前に献げられ、死んでよみがえることで、新しいエルサレムに相応しいものとしての新しいからだを信じる私たちもいただける望みとなられたのです。

 そのキリストは、今度は赤ちゃんではなく、栄光の王として来られます。そのときイスラエルはかつての肉によるイスラエルだけではなく、全て神を愛しキリストを愛する人々の群れ、神の教会としてです。

 その私たち教会は、その新しい都において真にキリストと一つとされます。それが神が求め、望み、成し遂げられる新しい救いの完成した姿です。

 今日も主はその偉大な救いの完成に向けて私、そしてあなたにこの約束のみことばをくださいました。今、この世の罪の呪いの中で、あなたがどんな苦痛を味わっていたとしても、あなたが日々祈っているように、御国が来ますように、御心が天で行われるように、地でも行われますようにというみことばが実現するのをその目でしっかりと見ることになるのです。その主がともにある今も既に、その時代に入っていることも同時に覚えたいものです。それはまだ先の話ではなく、主キリストが初臨されてから、もう始まっているからです。

"また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」"
ヨハネの黙示録 21章1~4節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会