のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

神の家の門口に立ちたいのです

詩篇
84篇
1,万軍の主よあなたの住まいはなんと慕わしいことでしょう。
2,私のたましいは主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も身も生ける神に喜びの歌を歌います。
3,雀さえも住みかを燕もひなを入れる巣をあなたの祭壇のところに得ます。万軍の主私の王私の神よ。
4,なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らはいつもあなたをほめたたえています。セラ
5,なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり心の中にシオンへの大路のある人は。
6,彼らは涙の谷を過ぎるときもそこを泉の湧く所とします。初めの雨もそこを大いなる祝福でおおいます。
7,彼らは力から力へと進みシオンで神の御前に現れます。
8,万軍の神主よ私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ耳を傾けてください。セラ
9,神よわれらの盾をご覧ください。あなたに油注がれた者の顔に目を留めてください。
10,まことにあなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりは私の神の家の門口に立ちたいのです。
11,まことに神である主は太陽また盾。主は恵みと栄光を与え誠実に歩む者に良いものを拒まれません。
12,万軍の主よなんと幸いなことでしょう。あなたに信頼する人は。

 神の国はどんなに素晴らしいところか、この詩篇の記者も、そのことを思い、心が高揚しているのがわかります。

「万軍の主よあなたの住まいはなんと慕わしいことでしょう」と強調しています。

 その神の国に入れられたら、どんな役目が待っているのでしょう。

 かつて主イエスの弟子であるゼベダイの子ヤコブヨハネの母親が、神の国が到来し、主イエスが王として治るときが来たら自分の二人の息子を要職に就けるように願ったことがありました。

"そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来てひれ伏し、何かを願おうとした。
エスが彼女に「何を願うのですか」と言われると、彼女は言った。「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」
エスは答えられた。「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。
エスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲むことになります。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。わたしの父によって備えられた人たちに与えられるのです。」
ほかの十人はこれを聞いて、この二人の兄弟に腹を立てた。"
マタイの福音書 20章20~24節

 このことで、他の弟子たちが腹を立てたところを見ると、他の弟子たちも、そのように願っていたのかもしれません。

 しかし、本当にそのような考え方で良いのでしょうか。主の治める神の国が到来したときに、高い地位を求めることは、神の国に本当にふさわしいのでしょうか。

 主は子どもに手を置いてこのように言われたことがあります。

"イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。
ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。"
マタイの福音書 18章2~4

 それは自分を偉いと思っている者は神の国に相応しくないということです。子どものように、見下された者、低くされたものこそ相応しいのだと言われたのです。

 では、私たちはどのようにしたら、イエス様が仰るような子どもになれるのでしょうか。それは、具体的にどんなことなのでしょうか。

 それは、ルカの福音書の主イエスの十字架の場面がちょうどそのことを教えています。それは、主イエスと一緒に十字架につけられた二人の強盗のことです。最初は二人ともイエスを罵っていましたが、そのうち一人が十字架の上の主イエスを見ているうちに心が変えられたのです。そして、罵るもう一人の強盗をたしなめて、主イエスにこう言ったのです。

「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」"
ルカの福音書 23章42節


 この回心した強盗は、なんと言ったでしょう。それは、「私を思い出してください」です。イエス様が神の国の王位についた暁には、私を側においてくださいとか、そこに入れてくださいとすら言っていません。ただ、思い出してくださいだけだったのです。

 この彼の言葉を聞いたイエス様はどうしたでしょうか。何と答えたでしょうか。それは、こうです。

"「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」"
ルカの福音書 23章43節


 イエス様は断末魔で心を開いた、この強盗の信仰をご覧になり、「あなたはわたしとともにパラダイスにいます」と喜んで宣言され、その救いが確証されたのでした。

 この強盗の姿はまさに、神の家の門口に立ちたいという詩篇記者の心と重なります。上席はいらない。ただ、思い出してくださればそれで良い。何というへりくだり。何という信仰でしょうか。

 主の前に、本来、自分がどれほど相応しくないものか。そこに立つものこそ、神の国を受け継ぐ者とされる。その真理をここにみることができます。

 私たちも主の十字架の贖いによって救われた者です。だから神の国が約束されています。だからといって思い上がることは相応しくありません。神の国に入れて当たり前ではないのです。それは、放蕩息子のたとえに出てくる弟息子の回心とも重なります。

「雇い人の一人にしてください。」

  救いは、ただ、ただ、神の恵み。一方的な神の愛が注がれてようやく神の国に入ることができるに過ぎないのです。私たちに誇るべきものは一つもないのです。

 そのことを、今日のみことばから教えられました。そした、私もこの強盗のように主に告白したいのです。

「イエス様、あなたが御国に入られるとき、私を思い出してください。神の家の中でなくて良い。その門番で良いのです」と。