日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

「人生のどん底から主を仰ぎ見る」

 
ヨナ書1章11節~2章10節
 
序論

 主の預言者でありながら主の御顔を避けて船に乗ったヨナは、嵐に遭い、くじにも当たって、その責任は明白になりました。タルシシュという地の果てまで逃げようとしていました。そのくらい敵にみことばを伝えるのが嫌だった。でも、それはヨナだけの問題ではありませんでした。船に乗っているすべての人のいのちがかかった問題にまで発展していました。
 そこに私たちへの適用がありました。私たちの不従順が、時に一般の人をも巻き込む事態に陥ることがあるということです。この新型コロナウィルスがどうして起きているのか。なぜまだ終わらないのか。それが全て現代の預言者であるクリスチャンのせいだという意味ではありません。しかし、まずは私たち自身の信仰の歩みを振り返ってみる。神様が語っておられるのに、御顔を避けていることはないか。そのようなことを先週は確認しました。
 この世に不幸なことが起こる理由というのは、いくつものことが絡み合っていますから、一方的な見方で全てを語るわけにはまいりません。でも、基本的にはアダムから始まった人間の罪によって、この世界が呪われたことは事実です。だから、そこからの回復のために救い主が必要だ。だから、神様はアブラハムを選び、その子孫から生まれるメシアによって罪とその呪いを断ち切り、神様と私たち人間の和解を成立させた。それがイエス・キリストの十字架と復活です。
 このヨナの話は、その途中の時代ですが、アブラハムの子孫であるイスラエル民族によって神様のみことばを宣べ伝え、イスラエルという神の民を通して神様ご自身が証しされていた。そのことを今、観ているのです。
 でも、ヨナはイスラエルを侵略しようとするアッシリア帝国が嫌いでした。だから救われてほしくないのです。しかも、神様が敵を憐れむことが気に入らなかった。だからニネベに行くのを拒否したのでした。主よ。どうしてですか。あなたはイスラエルの神ではなかったのですか。なのに、どうしてイスラエルを侵略しようとしている人たちの救いのために私がみことばを語らなければならないのですか。そういう気持ちだったでしょう。
 ところが、神様は海の嵐、くじさえも用いて、ヨナを主の働きに戻そうとします。どうやったら戻るのか。それを単に力づくではなく、色々な体験を通して、主への信仰を育てて、信仰者ヨナ自らの判断で戻るように導かれるのです。その過程が、私たちにも重なります。
 私たちの信仰生活でも、こうした方が良いとわかっているが、なかなか、そちらを選んで実行できないとき、神様は、様々な試練を通して造り変えてくださいます。その様子を、今朝もヨナを通して見てまいりましょう。
 
1.主の備えがある
 くじによって、嵐の責任がヨナにあるということがわかり、ヨナの口からもそれが明らかにされました。しかし悠長なことをしている場合ではありません。船が難破するかどうかの瀬戸際だからです。「海がますます荒れてきたからである」とある通りです。それで人々はどのようにヨナに責任を取ってもらうのかを、何とヨナ自身に詰め寄って聴こうとしました。11節。
「海が静まるために、私たちはあなたをどうしたらいいのか。」
 切羽詰まった状況で、みんなヨナのことを船から降ろしたいのが伝わってきます。でも、そんなことを言えなかった。そういう葛藤がこの言葉に見えてきますね。それに対してヨナも言い逃れをせず、自分を海に投げ込みなさいと言います。それは「この激しい暴風は、私のためにあなたがたを襲った」ということが分かっていたからでした。でも、船の人々は、そう言われても、何とか陸に船を戻す努力をしているのが素晴らしいですね。きっと、陸地に着けて降ろそうとしたのでしょう。13節でも、さらに「海がますます彼らに向かって荒れた」とあります。彼らにとっては絶体絶命のピンチです。
 そこで彼らは、どうしたのか。それは主に祈るのです。おそらく生まれて初めて主という神を意識して心から祈るのです。14節。
「ああ、主よ。どうか、この男のいのちのために、私たちを滅ぼさないでください。罪のない者の血を私たちに報いないでください。主よ。あなたはみこころにかなったことをなさるからです。」
 祈りの内容はヨナのために自分たちまで滅ぼさないでくださいという素直な内容でした。この祈りは一見、冷たい祈りにも聞こえますが、主が求めているのは、かっこいい祈り、つくられた祈りではありません。率直な、素直な、心の中が見えるような祈りです。
 実は、この素直な祈りこそ、この異邦人の水夫たちばかりでなく、預言者ヨナ自身が知らなければならないことでした。ヨナは、1章2節のみことばを聴いてから、主の前に、その心を明らかにする祈りをしたという箇所が見当たりません。もちろん神様はすべてヨナの心をご存知でした。でも、その不満を、その心の中味を主との交わりの中できちんとお話していなかった。神様との一対一の時間をとって、その思いを飾らないでぶつけることをしていなかった。
 その祈りにとって、もっとも大切なことをすっ飛ばして、船に乗り逃げようとしていた。いや。逃げた。
 でも、嵐に遭い、くじにも見事に当たって、ここでヨナ自身ではなく、異邦人であり、もともと偶像崇拝者である船長をはじめ乗組員たちが心から主に祈ることを体験するのです。その様子をヨナは見ていたでしょう。
 その後、彼らはヨナが言ったとおりにヨナを海に投げ入れる選択をします。でも、そのことによって海は凪いだのです。それは、真の神、主に信頼する者には主は、人を選ばずにきちんと報いてくださることが示された瞬間でした。
 そこで船の乗組員たちはどうしたのか。その出来事を通して、彼らは何を味わったのか。それは、主こそ真の神であるということではないでしょうか。16節を読みましょう。
「人々は非常に恐れ、主にいけにえをささげ、誓願を立てた」
 ここに彼らなりの礼拝があります。ということは、ヨナの失敗があり、ひどい目に会いましたが、今まで自分の神々に祈っていた偶像崇拝者が、この一連の出来事を通して、主を礼拝する者とされたのです。
 これは、私たちの主への信仰の大事な部分を見事に表しています。それは、主は、御心のままに預言者に語らせる説教も用いるし、失敗も用いるということです。この1章では、ヨナは預言者でありながら主の御顔を避けていた人でした。だから、嵐に遭い、海に投げ込まれた。この中にヨナの活躍はありません。でも、この一連のヨナのとったマイナスの行動が主に用いられて、主を信じる人、礼拝する人が起こされたのです。
 私も失敗だらけの伝道者であり、信仰の薄いクリスチャンです。でも、これまでの信仰の歩みの中で、確かに私の失敗や弱さも用いられてきたなと思わされます。確かに、自分の罪によって起きたことの刈り取りはあります。しかし、そのことすら、私の聖化の歩みのための訓練として益とされるのです。みなさんはいかがでしょうか。
 これまでの歩みを振りかえって、主を信じてきて良かったと思えることがないでしょうか。もし、信じていなかったら、失敗だけで終わっていたこと。もし、主を信じていなかったら、不幸でしかなかったことが、あなたが主のお姿に変えられるための業として主に用いられていないでしょうか。
 何よりも、私たち自身が取るに足らないものであるにも関わらず、こうして主の預言者として、今、ここに置いてくださっている。それは、私たちが大活躍すると言うよりも、私達の存在すべてを主が用いてくださって礼拝する民を起こしてくださるということではないでしょうか。
 このように、ヨナが主の御顔を避けている間も、主はヨナの失敗の中に働かれて人々を救っておられたのです。
 
2.救いは主のもの
 一方、ヨナはどうしたか。17節。
「主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。」
 海に投げ込まれたヨナは、おそらく死を覚悟していたでしょう。ヨナ自身も図らずも自分のせいとはいえ、彼の死への覚悟が多くの人の命を救っていたのです。そのヨナを主は捨ておかず、もう一度預言者として立たせるために特別な方法で救います。
 それが大きな魚です。この場面は、教会学校の紙芝居でもよく知られているところです。でも、おそらく多くの紙芝居ではクジラが描かれているかも知れません。皆さんは、この出来事をどのように考えているでしょうか。19世紀以降、聖書の奇蹟や不思議な出来事を批判的に読んで、それは神話だとか、寓話だと言って信じないで、信じやすいものに置き換えて理解しようとすることが起きてきました。それは、人間の誇る科学を前提にした聖書理解のことです。
 これは魚かクジラかの話をしているのではありません。ここで大切なことは、具体的にどんな生き物だったというよりも、人間が生き物に丸呑みにされて三日間も生きていられるのかということです。
 大きな魚だろうがクジラだろうが、その腹の中で人間は生きていられるか。そこがこの出来事の中心です。それで、私もそういうことが世界で本当にあるのかを調べてみました。すると、動物写真家のライナー・シンフさんという人が南アフリカイワシの群れを食べようとするニタリクジラという体調15mのヒゲクジラに誤って呑まれてしまったといいます。でも、さすがにクジラも違和感を感じたらしく、海面に出て吐き出したとのことです。その時間はわずか数秒ということでした。クジラもイルカと同じで高い知能を持っていますので、基本、人を襲わないし、このように間違って口に入ってしまっても吐き出すのです。しかも、このようなヒゲクジラプランクトンや、小さな魚を食べるくらいなので、喉や食道がバスケットボールくらいの太さのため、人間を飲み込めないそうです。
 このようなことで、ここに適用させようとすると誤った方向に行ってしまいますので要注意です。なぜならば、この箇所はイエス様が指摘するほどに、神様によるしるし(奇蹟)だからです。イエス様はユダヤ人指導者たちに「しるしを見せてほしい」と言われたときに、「預言者ヨナのしるしのほかにはしるしは与えられていません」とお答えになりました。そして、そこにご自身の三日間死んでよみがえることを重ねられたのです。
 ですから、ここの場面は、イエス様お墨付きの奇蹟の箇所ですので、これを神話だとか寓話だと言って侮辱するのはよろしくありません。
 しかも、ここにもはっきりと書いてあります。
「主は大きな魚を備えて」
 みことばがみことばの確かさを証言しています。これ以上の証言はありません。預言者ヨナは、主が備えられた特別大きな魚に呑まれてしまいました。おそらく、その中は暗く空気もなく、ヨナは仮死状態のように三日間その中に置かれました。ヨナが2節でよみの腹の中と言っているほど、主の御顔を避けて死んだと思ったその場所はよみ(地獄)だったのです。
 この2章は、礼拝の最初の方でみなさんと一緒に交読しました。それは、このヨナの祈りが私たちの祈りでもあるからです。しかも、人生のどん底を味わった人の祈りです。地獄ですから、そこには神すらいないはず。もう望みもなく、その地獄の苦しみが永遠に続く。しかし、そこでヨナに残された望みは何か。やはりそれはそのときこそ主に祈るのです。船の上では必死になって困っている船長たちを横目に船底で眠っていたヨナでしたが、ここでうようやく、主との時間を持つのです。
 苦しい時の神頼みとよく言いますが、苦しい時こそ祈らないでいつ祈るのでしょうか。もちろん一番良いのは、いつも呼吸するように主とお話しするように祈ること。その生き方です。でも、そういう人だって、苦しい時は、いつも以上に主とお話するものです。そうであるなら、なおさら、普段主から遠のいているならば、主に祈らなければなりません。いや、必ず祈らされるはずです。
 でも、この時間こそ、実は希望のはじまりなのです。
 今、NHKの朝ドラでエールというドラマが放映されています。私も妻も毎朝観ています。作曲家の古関裕而さんがモデルの古山裕一が主人公ですが、そのお話の中で、名曲「長崎の鐘」をつくるエピソードの回がありました。古山裕一はその曲をつくるために原爆で被爆した長崎を訪れます。そこで永田武という医師と出会いますが、彼は被爆した人たちを必死で助け、自らも衰弱して病床にありました。
 その病床から永田医師がこのように言う場面がありました。
「堕ちろ。どん底に堕ちろ」それは、若者から「神は本当にいるのか」と問われて答えたときのことばだということでした。それは、どんな意味か。そのことを主人公の古山裕一に尋ねるのです。
 その答えは永田医師が書き残した言葉に込められていました。
 それは「どん底に大地あり」
 それは、どんな意味か。それは、すべてはどん底からようやく始まり、幸せはそこから生まれてくる希望によって育まれるということです。この永田医師は実在の永井隆という医者がモデルになっており、彼はカトリックのクリスチャンでした。ですから、その言葉には重みがあります。落ちるならばずっと下まで堕ちた方が良い。なぜならば、そこに大地があるからだ。
 私もそのドラマを見て感動しました。そして、イエス様の「心の貧しい者は幸いです」というみことばを思い出しました。自分で立っていると思っているうちは、本当の幸せは見えてこない。しかし、自分の貧しさ、心の飢え渇きを知り、どん底を味わっている人こそ、そこに神の国の大地があるのです。
 ヨナも、海に投げ込まれ、大きな魚の腹の中で、ようやく、そこで主に祈ります。この2章のヨナの祈りは2節の「私が苦しみの中から主にお願いすると、主は答えてくださいました」という祈りの言い換え、説明となっています。
 「苦しみの中」というのは、次に言う「よみの中」であり、そのよみの状態が3節、5節、6節前半で言われ、4節にはヨナのお願い、叫びの意味が表わされています。「もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たい」と。そして、主の答え、「私の声を聞いてくださった」ことが6節後半にあります。
 その祈りはヨナにとって最悪の場所にいながら、最高の空間と変わったのです。主が祈りを聞いてくださっている。その確信は、今の状況はどうであれ、既に主がともにおられるという天の御国であったのです。 
 そのことをヨナは、最後に告白します。7節~9節
「私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。」
 ヨナはどん底の中から、何を見出したのか。それは「主を思い出した」のです。あの放蕩息子の話で、弟息子が豚の餌を食べたいと思うほどに落ちぶれたときに、お父さんを思い出したように、ヨナは主を思い出し、主に立ち返ったのでした。その祈りが「あなたの聖なる宮に届きました」それは、このどん底から抱いた「もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです」という希望へ向かわせる大きな一歩でした。そこから生まれてくるものは何か。それは主への感謝です。喜びです。ヨナは、この最悪の出来事を通して、「救いは主のものです」と確信します。救いをお決めになるのは主であり、主の恵みなのだとヨナは知らされたのでした。そのとき、再び奇蹟が起こりました。10節。
「主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。」
 
結び
 私たちの信仰の歩みでも、どん底を経験することがあります。でも、それは永田医師の言葉を借りるならば「どん底に大地あり」を経験し、神様と一つになるチャンスであることを受け取るためであるということです。
 私たちの主は、あなたが主に頼り祈るならば、必ずどんなに弱く小さな、頼りないように見える私の祈りをも聞いてくださり、主の栄光のために用いるのです。今、あなたはいかがでしょうか。恐れ、おびえて海の中でもがいている状態でしょうか。それとも、魚の中で仮死状態でいるでしょうか。でも、大切なのは、あなたが苦しみの中から主を思い出して祈ること。つまり「感謝の声をあげて」主に立ちかえり、主の民、主のしもべとして、主が備えたどん底にある大地に立つことです。
 今週も、どんなときも見捨てない主に祈り、どん底の中から感謝をささげてまいりましょう。
 
祈り