要約
序)
現代の神学界の状況は、聖書に神の権威を与えず、私たちに影響を与える超自然的霊感は認められていない。それは教会が培ってきた歴史的信仰からの離反があるからである。その思想は、人間の経験と啓蒙の権威をもって聖書の権威に代えるという、神が私たちにせっかく与えてくださった神ご自身の霊感による啓示を、真っ向から拒否する態度である。
1. 霊感の意味
現代の神学は、霊感を定義することを避けている。伝統的な霊感の教理に反対する立場の人々は多くを誤解している。
啓示とは、神がご自身について、また御心についての知識を人々に伝達される行為のことであり、霊感とは聖霊が選ばれた人々の心に働いてその人々を、啓示を誤りなく伝達するための聖霊の力のことである。また、照明とは、そのように啓示され、伝達された真理を理解できるようにさせる、人間の心に及ぼされる神的な力である。
霊感は聖霊の生ける息吹であり、神のことばを「両刃の剣よりも鋭く」する。そして聖霊は、霊感されたことばに永続な関わりを保つので、そのいのちを与える臨在が、そのことばを霊といのちとする。
この生ける臨在が翻訳されたみことばにも原文と同じように真実に満ちる。
だから、翻訳された聖書のことばも神の権威を持つものとして引用することができる。
2. 現代に見られる幾つかの対立
A.現代神学の霊感についての中心的考え
新自由神学と新正統神学の両方の対立関係に基礎を置いている。対立関係の一つは、真理への証言としての聖書と神の啓示との対立。聖書の不可謬性を信じる者は信仰の機能を損なわせるという非難がある。
B.啓示―出会いか伝達か
出会いとしての啓示と伝達としての啓示の対立である。現代神学者たちは、聖書と権威の断絶を必要とし、神秘主義に押し込むことになった。
福音的立場では、神の霊感によって、その伝達は私たちにとって完全に信頼できるものであり、私たちを、生きている真の神のもとに導くのである。
C.神のことばと聖書本文
神のことばと聖書本文の間の対立である。書かれたことばはイエス・キリストを証言している。それは、聖書の信用が失われるなら、事実上イエス・キリストが人間の知識から消し去られることになるほどに近い証言である。
聖書の霊感に対する攻撃は、歴史的キリスト教とイエス・キリストへの攻撃である。私たち福音主義に立つ教会の使命は、これからも益々、聖書が歴史的キリスト教信仰の最上の防波堤であると認められている事実を強く承認することである。
感想
フィンレイソンが言っているように、現代神学が、いまだ歴史的信仰から離
れていることは、非常に残念なことである。これは、19世紀初頭に始まったシ
ュライエルマッハーらによって方向づけられてしまった結果だと言える。
なぜ彼らは、それまでの歴史的信仰を捨て、新たな解釈を始めてしまったの
だろうか。それは恐らく、それまでの教会と国家が結びつき、聖書が教えてい
る本来の教会ではなく、誤った教会という体制派が社会を牛耳っていたことに
対する反作用があったように思う。1517年にルターがビッテンブルク城の扉に
95カ条の及ぶ教会刷新を求める提題を張り付けた後も、いわゆる自由教会に至る道は険しく、聖書にある信仰の自由を求めたクリスチャンたちは迫害を受け
た。そのストレスは、宗教改革以前からあった体制派への不満と相まって、神
中心の視点が危険視され、人間的な解釈へと傾いていったと考えられる。特に
科学の発展は、本来、神の創造の業の裏付けとなるべきところが、人間賛美の
証明に用いられて、益々、聖書を神のことばとしての権威から引き離してしま
った。そのときから、聖書は、神のことばが記されている書物ではなく、数多
く出版されている書物の中の一つに過ぎない扱いを受けるようになり、書いて
ある内容も、受け入れがたい記事は特に、合理的に実存主義的に解釈されるよ
うになった。本来、聖霊の導きによって、読みながらも神に聴くという意味が
あった聖書が、読書レベルに引き下げられた。
この一連の歴史には、教会は謙虚に反省しなければならないし、歴史的信仰
への回帰を目指す者にとっても、しっかりした認識が必要と思われる。しかし、
真実が曲げられたまま、現代の福音的、聖書主義教会は黙っていてはならない。
それは、主流派の中に新自由神学が入り込んでから、キリスト教会は骨抜きに
され、世の光、地の塩としての効き目が失われているからである。
神は、聖霊によって、数千年のも年月の中でおよそ40名聖書執筆者を起こし、聖霊の導きの中で、霊感されたそれぞれの書物を書かせ、聖書として纏めら
れ、それを通してご自身を具体的に啓示された。だから、聖霊によって導かれ、
聖霊によって霊感されて記されたその文書は、やはり聖霊によって読み、そこ
から、真の執筆者である神ご自身を知っていかなければならない。
現代における霊感とは何か。それは、神が聖書によってご自身を現した本来
の特別啓示としての役割を取り戻すことではないだろうか。このことは、神秘
主義とも切り離して、教会は考えなければならない。聖書に書かれている聖霊
のバプテスマ、癒し、奇蹟等々、それは事実であり、何ら色メガネを必要とす
るものではないし、また、それを現象として強調し過ぎることにも注意が必要
である。それは、聖書に記されていることを、神に霊感された神のことばとし
て受け取ることに意味があるからである。
それによって、日々そこから得るみことばがまさに生きた神のことばとして、
聖霊によって私たちの中に取り込まれるのである。
今日、教会は、政治へのアプローチ、他宗教との関係、社会的倫理、教会協
力等、様々な選択が迫られてきているように思う。その時、私たちは何をもっ
て、どう判断すべきだろうか。それは、聖書から神が語っていることを聞くこ
とから逸れずに、聖霊の導きを求めて、神の霊感によって啓示されたことを受
取、伝達していくのが、現代に生かされている私たちの務めであると思う。