のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

「おいでになるはずの方は」

聖書箇所 マタイの福音書11章2節~11章6節
 

 教会の暦では、先週の日曜日からアドベント待降節)に入りました。待降節とはクリスマス前の4週間のことを言いますが、その名の通り、主イエス様を待ち望むことを特別に覚える期間ということです。
 それで、このアドベントの時期ですので、イエス様の降誕に関わる箇所から説教を準備しようかとも思ったのですが、白石教会としてずっと読んできて途中になっているマタイの福音書からにしました。それは二つ理由があります。一つは、前回までのヨナ書は、これから学ぶこのマタイの福音書11章のすぐあとでイエス様ご自身が引用しているからです。それは私達のヨナ書の記憶が少しでも残っているうちにということです。そして、もう一つの意味は、バプテスマのヨハネのことが登場するこの11章が、主イエスを待ち望むというアドベントに相応しいと思うからです。主イエスのメシアとしての道備えをするためにバプテスマのヨハネは立たされていた人でした。そのヨハネが何と牢屋に入れらている場面からこの11章は始まるのです。その中でヨハネ自身は何を思って、弟子たちをイエス様に遣わしたのか。ヨハネの心配は何だったのか。そして彼はイエス様からどんな答えをいただいて、主の預言者として再び立たされていったのか。あえてこのアドベントのときに、そのことを問いつつ、聖書に聴いていきたいと思います。
 
1.獄中における預言者の心配
 2節、3節をもう一度読みます。
「さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、イエスにこう言い送った。『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。』」
  「さて、獄中で」とあります。これは、バプテスマのヨハネが捕らえられているということです。その理由を、これを書いたマタイはここでは明らかにしません。このあと14章に行ってからようやくヨハネが獄中にいた理由が語られるのです。そこを先に読みたいと思います。
 マタイ14章3節、4節。
「実は、このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕えて縛り、牢に入れたのであった。それは、ヨハネが彼に、『あなたが彼女をめとるのは不法です。』と言い張ったからである。」
 
バプテスマのヨハネは、国主ヘロデが自分の兄弟であるピリポという人の妻と不倫関係にあることを指摘したために捕らえられたとあります。つまり権力者のスキャンダルを指摘した。それは神の律法に照らしてふさわしくないことだからです。それが預言者の役割です。自分が置かれた世界で、神のみことばに従って為政者たちがきちんと政治を行っているか。そのことをみことばに照らして考え、ふさわしくない時には、きちんと物申す。これが預言者としての役割の一つです。ですから、ヨハネは自分に与えられた使命に生きていたわけです。しかし、当時は権力者の横暴がある程度まかり通る時代ですから、権力者の悪さを指摘すると、ヨハネのように逆に捕らえられて処刑されることもよくあることです。
 このような背景が、この「さて獄中で」ということばにあるわけです。では、その禍ともいうべき獄中でヨハネはどう過ごし、何に関心をもっていたのか。それが、この2節で知ることができます。
 それは、「キリストのみわざについて聞いた」ということです。みわざを見たのではなく聞いたというのは、獄中にいるという事情から理解できます。おそらくヨハネは自分の弟子たちを通して、イエス様が何を語り、どんな業をなさっておられたのかを調べてさせて報告してもらっていたのでしょう。今、自分は牢屋の中にいるが、救い主として来られたイエスというお方は今何をなさっているのか。
 このように、主の預言者の関心はイエス様が何を語り、どんなことをなさったのか。その事実の確認です。
 私たちも、この世に置かれた主の預言者です。私たちも主に選ばれた預言者として、主の御業にいつも目を留め、耳を傾けなければなりません。それは信仰というアンテナをいつも張っているということです。
 預言者とは言葉を預かると書きます。それは神様の言葉を預かって人々に伝える役目を、現代の私たちクリスチャンも負っているということです。だからこそ、いつもキリストのみわざについて思い巡らし、このような疫病が蔓延している中にあっても、どこに主のみわざがあるのか。何が主の業なのかを関心を持って見て行く必要があるのです。ヨハネも牢獄にいて、そのようにイエス様のみわざを知って思い巡らしていたのです。
 しかし、もう一つ、ヨハネが関心をもっていたというか、心配だったことがあります。それはは何でしょうか。それが3節でヨハネが弟子たちを通して主イエスに言い送った言葉です。今日の説教題にもなっています。
「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」
 「おいでになるはずの方」という表現は、ユダヤ人にとって王であるメシア、キリストという意味で、当時の人たちはダビデのような政治的支配者というイメージで捉えていて、そういうメシアを待ち望んでいました。このときにイエス様の弟子たちでさえ、そう思ってイエス様に従っていました。でもヨハネは、イエスこそ罪を取り除く神の小羊であることを知っていました。イエス様のことを政治的メシア以上のお方。神の御子であり、神と人間の間にある罪という緊張関係から解放するお方。そのために神様の前に生贄になるお方。そして、このマタイの福音書3章11節によれば、ヨハネはイエス様の事を「聖霊と火とのバプテスマをお授けになる方」として紹介しています。それはイエス様の公生涯の初めにイエス様にヨハネが洗礼を授けた場面で語った言葉です。
 だからこそ、自分が洗礼を授けたイエスというお方がキリストとして出発せれた以上、この罪の世界がすぐにでも改められると期待していたと思うのです。早く、ローマ帝国の支配が終わり、そして、今、置かれている自分の獄中生活も終わって、新しいキリストの王国が始まるのだと、そう思っていたとしても不思議ではありません。
 しかし、自分はまだ獄中にいるし、弟子たちからの情報を聞いていても、病気を治したとか、神の国の教えを語れたとか、それだけで、何だか、本当にこのままで良いのかと心配になった。これが、ヨハネの心にあったもう一つのことでした。「キリストのみわざを聞いてはいるが、自分はまだ獄中。イエス様がメシアならば、預言者である自分が不当に捕らえられているのをそのままにしておくはずがない。でも、まったくそういうふうには見えない。本当にあなたがメシアなのですか。」と、そういう思いになっていたのです。
 ある意味、びっくりです。あのバプテスマのヨハネがぶれ始めている。信じきれないで、戸惑っている。そんな心配をこの3節のことばから知ることができます。
 しかし、こういう心配する姿って、ヨハネだけではありません。現代の預言者であるクリスチャンとしての私たちも、クリスチャンだから交通事故に遭わないとか、殺人事件に巻き込まれないとか、コロナに感染しないわけでもありません。もちろん、今このように、これまで生かされ、日々神様の祝福と守りがあることの方が恵みで喜ばしいことです。本当はここに目を留めるべきです。でも、みんな禍に遭う時は遭うし、死ぬときは死ぬのです。そういうときに、私たちもイエス様に「本当に救い主はあなたですか。あなたは本当に神ですか。本当にあなたを信じていて大丈夫なんですか」と心配になるのではないでしょうか。イエス様は暗闇に光をもたらすお方だと言うけれども、私の人生はいまだ真っ暗だという人がおられるかも知れません。そして、クリスチャンになっても、教会に来ても良いことなんか全然ありませんという人がおられるかも知れません。 
 しかし、そういう人に主は語られるのです。それがバプテスマのヨハネの疑問に答えられた主イエス様の言葉です。
 
2.つまずかない者は幸い
 4節~6節までを読みましょう。
「イエスは答えて、彼らに言われた。『あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。』」
 イエス様はヨハネの弟子たちに何と言われたか。どんなことをヨハネに報告しなさいと言われたか。それは、自分たちの聞いたり見たりしていること。それはつまり、何を見て、何を聞いたのか。それは主イエスご自身を見、主イエスのことばを聴くということです。その主イエスご自身を見るならば、そこには主イエスのわざが見えてきます。主イエスの教えが聞こえてきます。それをそのまま報告すること。ヨハネもまた、その報告をそのまま聞いて信じることが求められています。
 イエス様が言われたこのみことばこそ、まわりに惑わされないで、自分の主観的な思いに支配されないで、ただ主イエスご自身に目を留め続けなさいということです。しかも、それは聖書に記されている通りのお方であるイエス・キリストです。
 この5節のイエス様のことばは、旧約聖書に書いてある救い主の姿であり、メシアがメシアであるしるしとしての姿を現すものでした。聖書を良く知っているユダヤ人であれば、特に預言者であるならば、そのイエス様からの報告を聞いて、聖書の言っている通りのお方だとわかるはずです。
 でも、2節をもう一度読むと、実はヨハネは既に「キリストのみわざ」を聞いていたとある。つまり、このようなことは、聞いていたのです。そこをダメ押しで、イエス様は語られるのです。イエスのみわざではなく「キリストのみわざ」とは、言い換えるとメシアのみわざ、救い主のみわざということですから、実はイエス様が5節で言われたことは、ヨハネが既に聞いていたことと同じだったのです。
 これはどういうことでしょうか。もともとヨハネは、キリストのみわざを聞いていたのに、「おいでになるはずの方は、あなたですか」と心配になったのでしょうか。
 そこには、やはりヨハネのイエス様に対する期待が、ヨハネのイメージで出来上がっていたことが考えられます。イエス様のことを獄中で思い巡らすのは良いけれども、ヨハネは自分のイメージが先行して、真理を曇らせていたのです。だから、そこでイエス様が言われたのは、聖書が言うイエス・キリスト。みことばが教えているイエス・キリストが現実に来臨したのだという現実を、そのまま報告しなさいということだったのです。
 私たちも、イエス様のことをいつも考えていると思います。そして、思い巡らしながら、イエス様ならこうしてくださるはずだとイメージしていることがあるかも知れません。しかし、そのみわざについて期待するあまり、本来そこで見なければならない、また学ばなければならない真理を見失っていることがあるのです。
 それは、私たち自身が、主に期待するあまり、その自分で思い描いたイメージが大きくなり、主が目の前に立ち、何時ものように多くの祝福の御手をもって触れてくださっているのに、全くその恵みに気づかない。見えないということがあると言うことです。
 それは、だれか他の人の意見とか、他の人の教えでつまづいているのではない。私たちは、イエス様ご自身に躓いているのです。それは「わたしに躓いている」のだと言われるイエス様のことばからわかります。
 いや、そんなことはない。勝手なイメージを持っていないと言う方もおられるかも知れません。しかし、大切なことは、主イエスが救い主として、どんなみわざをあなたにしてくださっているか。まさに聖書が言う通りの主イエスがあなたにどんな素晴らしいみわざを成し続けておられるか。その事実を見、また聴いているかです。
 この5節のことばは、確かに救い主が救い主であるしるしとなる御業の数々が記されています。
 この目が開かれたことは、どうですか。神なんかいないとする人生だったのに、主イエスが救い主だとわかり神を信じられたのはどうしてですか。それは、主によって目が開かれたからではありませんか。
 ツァラアトに冒された者がきよめられたのは私たちのことではないのでしょうか。私たちは、私たちの体も心をも蝕み、人生を暗闇にする罪に支配されていましたが、それが赦されきよめられました。それはどうしてですか。それは御子キリストが血を流して私たちをきよめたからです。
 耳の聞こえない人と私とは無関係でしょうか。そんなことはありません。私は、かつて神のことばがわからないものでした。だから色々な宗教をかじり、どれが良い宗教なのか迷っていた時に、主が私の耳を開いてくださって、宗教ではない、真理の主のみことばを聴く者に変えられたのです。あなたはいかがですか。
 そして、そこから死人が生き返るように私たちは今、新しい主のいのちに生かされ、心を貧しくされて福音によって益々、主と同じ姿に日々変えられています。神を知らず、救い主を知らず、自分勝手なことをして罪に死に、滅びに向かっていた私を、主イエスは、その罪を負って古い私とともに十字架で死に、墓に葬られ三日目によみがえって、信じる私も、そしてあなたも新しく造られたものとしてくださったのです。そして、今も尚、このような心の貧しい者に福音を語り続けてくださっています。
 預言者ヨハネも、獄中で少なからず、やはりダメージを負っていた。主のことを思う心は間違っていなかった。でも、目に見えるものの力は侮れません。肉体で味わう痛みは、心の中さえも支配します。そうなるとイエス様のなさる業を聴きながら、自分とは遠い存在。自分のイメージ通りにならない現実の中で主を見失っていったのではないでしょうか。だから、イエス様は5節、6節の言葉をもって励ましたのです。「ヨハネよ。このようにいつもわたしはあなた自身にも、光を与え、いのちを与え、使命を与え働いているのだ。そこに目を留めよ。だからわたしにつまずくな。信じろ。そこに本当の祝福があるのだ。」そう語られたのでした。
 
結び
 私たちも、今年、このコロナという獄中にいるような中で今年を終えようとしています。だからこそ、このヨハネのようにアンテナを張り巡らし、主の御業は何か、御心は何か、私たちもキリストのみわざを聞き続けていると思います。しかし、獄中にいてヨハネがそうだったように、私たちも注意をしなければ、目の前の見えることに支配されて、イエス様からの大きな恵みが見えなくなることはないか吟味する必要があるのではないでしょうか。大切なことは、このコロナという獄中にいるようでも、しっかりと主イエスご自身を見上げ、しっかりと聖書をとおしてキリストご自身に注目することではないでしょうか。なぜなら、今日も主は、私たちの目を開き、罪からきよめ、霊の耳を開き、日々、主イエスの新しいいのちに生かし、喜びのみことばを与え続けてくださっているからです。
 このクリスマスを前に、もう一度このアドベントが単に教会の一行事で終わることなく、聖書で預言されているとおりに再び来られる主イエス・キリストをも待つ時であることを覚えながら、今週も主から目を離さず、その御声に耳を傾けつつ歩んでまいりましょう。