のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

「笛吹けど踊らず」

マタイの福音書11章7節~19節
 

 前回、バプテスマのヨハネが獄中にいて信仰がぶれ始めていた場面をみました。しかし、イエス様はそのヨハネの弟子たちに、「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい」と仰って、わたしイエスこそ聖書が預言していたキリスト、メシアなのだということをあらためて明らかにしたのでした。
 その言葉を聞いたヨハネがどうしたのかは、聖書に書いてありません。ここは想像するしかないのですが、おそらくヨハネは疑ってしまった自分の不信仰を悔い改め、獄中に置かれていても、そこで自分が果たす使命にあらためて立たされたと思います。それは、イエス様からのみことばをいただいて生かされることが私たち、主の言葉を預かった者の真の姿だからです。
 イエス様も、そのような獄中にいるヨハネをみことばによって励ましつつ、引き続き、預言者として獄中において果たすべき役目に向かわせたのです。
 ですから、主イエスご自身があえて牢獄に置き続けたわけですから、ヨハネも獄中で最善を尽くして預言者としての使命に立って行ったのではないでしょうか。しかし、群衆はどうでしょう。群衆は、このときのヨハネのことをどう捉えていたでしょう。
 
1.来たるべきエリヤ
 7節で、イエス様の視線がヨハネの弟子たちから群衆に向けられました。
 ここに出てくる群衆とは、みんなユダヤ人ですから、聖書を知っている人たちでした。だから、キリスト、メシアなる王が現れて自分たちを救ってくれると期待していました。だから、バプテスマのヨハネが荒野に現れたときに多くの人々がイスラエル中から集まって来たのは、このヨハネのことをキリストではないかと期待したからです。少なくとも400年ぶりの主の預言者として期待していたはずです。
 だから、この群衆、ユダヤ人たちが荒野に行ったのは、間違いなく荒野に生えている葦を見るためでも、柔らかい着物を来た裕福な人に会うためでもなく預言者に会うためでした。ところが、イエスという人が現れヨハネが牢獄に入れられると、これまでと同じ感覚で、今度はイエス様に付いて来る。それは、ヨハネのことを既に過去の人としてしまい、今、目の前にいるイエスというお方のことを預言者。もしくはキリストかも知れないと切り替えていたからです。
 人間の心は、自分の期待から外れたり飽きたりすると、次の新しいスターに憧れ、いとも簡単に切り替えるものです。
 つまり、色々なものを自分のアイドルにする弱さがあります。それは、本当にその人に信頼しているのか、それともアイドルとして、つまり偶像として、ある時は崇め、あるときは自分の掌の上でもてあそぶのです。現代の政治や芸能界を見ると、まさにそのような状況です。
 このイエス様の時代も同じです。人々が自分の幸せを求めることは良いと思いますが、しかし、自分の基準の幸せですから、その基準から外れたり、飽きたりすると、このようにヨハネを捨てイエスを持ち上げるように、手のひらを反すのです。それは、自分の利益のために利用するようなものです。
 だから、イエス様がこの7節から15節で仰りたいことは、今、先に遣わされたヨハネが獄中に置かれ、イエスが目の前にいる意味をよく考えよということではないでしょうか。そして、その答えは、このヨハネこそマラキ書で預言されていた預言者エリヤの再来だということです。14節を読みます。
「あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、来たるべきエリヤなのです。」
 その預言自体は、先ほど聖書交読でご一緒に読んだあの箇所です。つまり、ヨハネという人は、これまで旧約聖書に登場した預言者とは違う、もっと大きな使命、役割りを担った人であるということを言っています。それは、このエリヤの再来があったということは、それが終末の時代が訪れたというしるしであるからです。そして、真のメシアが来る前触れであるということです。それは、神様の大きな救いのご計画における最終段階に入ったということです。言い換えるならば、ヨハネが今、もう遣わされたのだから、ぼーっと生きてるんじゃないという意味が、このヨハネの存在に表わされているのだということです。ヨハネを勝手に過去の人にするな。そこにある神の御心を読み取りなさいということです。
 だからこそ、主イエスは獄中でぶれ始めていたヨハネを励まし、この群衆に対してもヨハネのことを格別に称賛しています。11節。
「まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です」
 この最後のことば、「天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大」だというのは、ヨハネのことを低く言っているのではありません。このヨハネの登場を境に始まる恵みの時代の完成した救いの素晴らしさ。また、その恵みによって救われた者たちの祝福の素晴らしさを表現しているのです。それは、旧約聖書における律法の時代がヨハネ迄であるからです。13節で「ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです」とある「預言者たちと律法」」というのは旧約聖書のことです。そして、そこから恵みによる完成した救いが始まる。
 ところが、その新しい恵みによる救いを激しく奪い取ろうとしている人たちがいる。または、本来の方法ではないやり方で強引に手に入れようとしている力が働いている。12節で繰り返し言われている「激しく攻める」というのは、力づくでも入り込むという意味です。つまり、天の御国に自分の力で、努力で、善行、修行を積んで入ろうとするということです。満員電車にぐいぐいと入り込むように、救いにもそのように入ろうとすることを言っています。
 この生き方は、実は人間が作りだした宗教の中心的原理です。救われるためには、何かをしなければならない。たくさんお布施をしなければならない。高価な壺を買ったり、戒名をつけたり、火の上を歩いたり、滝に打たれたり。でも、クリスチャンも一歩間違うと、救いを自分の手で激しく奪う方法を取っている時があるので注意が必要です。
 かつてキリスト教会も、救いは恵みだと言いながら、救われるためには、やはり一日お祈りする回数が大事だとか、断食をしたり、聖地を巡礼したり、十字軍に入ったり、献金をたくさんしたり、誤った救いを説いていた時代があります。でも、それは、あることを通して間違いであることがわかりました。それは聖書に帰ることです。
 何かやらないと不安なのはわかります。それは、いつも「おまえは役立たずだ」というサタンのささやきがあるからです。だから、業によって、良い行いを積んで評価を求めるのです。でも、イエス様がもたらしてくださった救いは、そうではありません。救いは、私たちの行いでは無理だから、イエス様が罪のないお方として来てくださり、律法をすべて全うしてくださったのです。だから、主イエスを私の救い主として信じるだけで、罪のない完全なイエス様を着るものとされ、神の子どもとして御国に入ることができるのです。その恵みに感謝して生きる時に、聖霊の助けによって正しい生き方ができるようになるのです。
 これが今、私たちに与えられている救いです。そういう私たちのことをイエス様は、このヨハネよりも偉大だと言ってくださっているのです。それは、あの素晴らしいヨハネよりも偉大だという最高の誉め言葉です。
 だから「耳のある者は聞きなさい」と言われるのです。
 
2.主のしるしを見極めて終末に備える
 イエス様はさらに、私たちの時代、人間の姿を市場にすわっている子どもたちに譬えてお話しされます。16節、17節。
「この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』」
 当時、市場には子どもたちがたむろしていて、○○ごっこをして遊んでいました。私も子どもの頃、○○ごっこをしました。イエス様が語られた、このお話の遊びは結婚式ごっこ、葬式ごっこです。
 散々遊んで、疲れたのか、ある子どもが笛を吹いているのに、楽しそうに踊らない。また、人が死んで悲しむ場面を表すのに弔いの歌を歌っても、悲しむ芝居に乗ってくれない。そんな状況を言い表しています。それは、せっかく段取りしているのに、反応しない。または反応が間違っているということを言っているのでしょう。
 でも、それと私たちとどんな関係があるのでしょう。ここで、二通りの立場で考えることができると思います。
 一つは、笛を吹いている側、または弔いの歌を歌う側が私たちで、踊らない側、悲しまなかった側に神様を置いたパターンです。それは、どういうことでしょうか。それは、自分がこれだけのことをやっているのだから救えという意味で考えることができます。私がこんだけ努力しているのだから、天国にいれろ。または、これだけ熱心に礼拝しているのだから、毎週献金しているのだから、もっと良い思いさせろ。それは、つまり天の御国を激しく攻める者の姿です。
 そして、もう一つのパターンは、さっきとは逆で、笛を吹く方、歌を歌う方が神様。踊らない方、悲しまない方が私たちです。
 神様が、せっかくエリヤの再来としてヨハネを遣わしているのに、あなたは何をぼーっとしているのか。メシアがもう目の前に来て、終末が始まっているのだ。しかも、今、現にメシアとしてイエスが目の前にいるにも関わらず、何を誤った判断をしているのか。そのことが18節、19節にあります。
ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」
 ヨハネのことを主の預言者だと期待して集まってきたはずなのに、群衆の理解には、自分たちの基準が先にあって、素直に受け入れられないのです。「ヨハネ先生どうぞと、せっかっくご飯を持って行って、喜んでもらって、あなたには神の祝福があると、救われていると断言してほしいのに受け取りもしない。なんだあいつは主の預言者ではないな。悪魔の手先だ」と言う。そして、今度はキリストご自身が目の前に現れても、「罪人たちや取税人のような社会でのけ者にされている連中とばかり仲良くして、貧しい者こそ幸せだなどと言っている。あいつも同類だな」と言っていたわけです。
 それは、先週のヨハネの中にもあった弱さと重なりますが、そこがさらに、わからないならば主に尋ねれば良いのに、自分の期待と違っていると、主に確認もせずにいとも簡単に切り捨てるのです。それが私たち人間の弱さであり、罪深さなのです。このあと、イエス様さえも十字架につけろと言って死に追いやるのです。ホサナ、ホサナと喜んで迎えた、その同じ口がイエスを十字架につけろと叫ぶのです。
 
 もう来週はクリスマスです。これは2000年まえから始まりました。今、私たちはこのときをどのように見て、どうすごしているでしょうか。いつものように、当たり前に来て、当たり前に終わるクリスマスでしょうか。でも、実はクリスマスは当たり前ではありません。それは、バプテスマのヨハネがエリヤの再来として来たのと同じように、ここには悲しみの意味と喜びの意味の両方が宣言されているからです。
 しかし、ヨハネが来てもイエス様が目の前に現れても、人々が当たり前になっていったように、私たちも、このクリスマス、またアドベントの時を、またやってきた忙しい季節。とりあえず過ぎて行く、当たり前のことになっていないでしょうか。ここは喜んで踊るべき場面なのに、踊らず、悲しむ場面なのに悲しまない。そんなことはないでしょうか。
 主の救いが到来したというクリスマス。これは踊って喜ぶべきところです。なぜならば、滅びに向かっていた私が主によって命拾いしたからです。役に立たない者が主によって役に立つ者にされたからです。また、このクリスマス。これは同時に悲しむべきものです。なぜならば、今から2000年前のクリスマスにベツレヘムで生まれた赤ちゃんは、生まれる前から、殺されることが定められていたからです。生まれても喜んで出迎える人はほとんどいませんでした。もちろん病院ではなく家畜小屋。聖書には「いる場所がなかった」とあります。そのことを思う時、私は遊びの芝居ではなく、心から泣けてきます。悲しいです。
 
結び
 今日、イエス様は市場で遊んでいる子どもたちの遊びを引き合いにして、大切なことを教えてくださいました。それは、主が備えているしるしを見過ごさないで、当たり前だと思わないで、もうすぐ主が来るのだと、喜びをもって待つ。そして、その意味を深く思い巡らし、私のためだったことに悲しみを覚えることではないでしょうか。
 だから、今私たちが経験している、疫病が蔓延しているこの状況も、その中で、いつものように来るクリスマスも、そこに主が吹き鳴らす笛の音があることを、主が歌う弔いの歌声があることを覚えたいのです。だから、このときを無関心や自分の勝手な期待ではなく、心を裸にして主を迎えたいのです。主はくいしんぼうの大酒飲みではなければ、単なる立派な教師でもありません。主イエスこそ、呪いでこの地が打ち滅ぼされないために来られたキリストであることを正しく覚えたいのです。そして、同時にもう一度来られて新しい天と地をもたらすお方であることを楽しみに待つ者とされてたいのです。
 ぜひ今週も目を覚まして、この世界に響き渡っている主の吹き鳴らす笛の音、主が歌っておられる弔いの歌に応答していく者でありたいと思います。