のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

主が大きなあわれみをかけてくださった

"さて、月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。
近所の人たちや親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをかけてくださったことを聞いて、彼女とともに喜んだ。
八日目になり、人々は幼子に割礼を施すためにやって来た。彼らは幼子を父の名にちなんでザカリヤと名づけようとしたが、
母親は「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。
彼らは彼女に「あなたの親族には、そのような名の人は一人もいません」と言った。
そして、幼子にどういう名をつけるつもりか、身振りで父親に尋ねた。
すると彼は書き板を持って来させて、「その子の名はヨハネ」と書いたので、人々はみな驚いた。
すると、ただちにザカリヤの口が開かれ、舌が解かれ、ものが言えるようになって神をほめたたえた。
近所に住む人たちはみな恐れを抱いた。そして、これらのことの一部始終が、ユダヤの山地全体に語り伝えられていった。
聞いた人たちはみな、これらのことを心にとどめ、「いったいこの子は何になるのでしょうか」と言った。主の御手がその子とともにあったからである。"
ルカの福音書 1章57~66節

 祭司ザカリヤとその妻エリサベツに子どもが与えられました。それが後のバプテスマのヨハネです。

 しかし、このヨハネを身籠るということは簡単なことではありませんでした。聖書を見る限り、高齢者夫婦アブラハムとサラに与えられたイサクのときからたった二度目の奇蹟です。

 その奇蹟の理由を聖書は「主がエリサベツに大きなあわれみをかけてくださった」と言っているのです。

 今はクリスマスシーズンですが、クリスマスを一言で言うとするならば、どんな言葉がふさわしいか、皆さんはお考えになったことがあるでしょうか。

 各々、色々と言葉が浮かんでくると思いますが、私は「あわれみ」がふさわしいと思います。しかも、単なるあわれみではなく、大きなあわれみです。もっと言うと「主の大いなるあわれみ」です。

 そうです。エリサベツに対して主がなさったヨハネの妊娠。これがエリサベツに対する主の大いなるあわれみだったように、この世のという暗闇。もはや神の祝福は来ないと諦めても仕方のないようなところに救い主イエスが来てくださった。それは、まさに、この世、すなわち私たちに対する主の大いなるあわれみなのです。

 このあわれみを今日あらためて覚えたいのです。そのあわれみの大きさを知るためには、まず私自身がどれほど、祝福を受けるにふさわしくないかに気づく必要があります。それは、エリサベツが高齢で不妊の女性であり、絶対に妊娠なんか有り得ない、祝福としての子どもができるなんてあり得ないことを認めていたのと同じです。

 しかし、そのような現実の中に奇蹟が起きた。そのようなものだからこそ、神のあわれみが必要だということ。そのよな希望の持てない状況だからこそ、神の一方的な憐れみによらなければ救われないということ。

 ここに、クリスマスの大きな意味があるのです。主が来てくださった。不妊の女性エリサベツの上に。主が来てくださった。罪深い私の上に、そしてあなたの上に。主が来てくださった。この暗闇の世界に。世の光として。私の光として。あなたの光として。この世を贖うために。私を贖うために。そして、あなたを贖うために。

"私の苦しみとさすらいの思い出は、苦よもぎと苦味だけ。
私のたましいは、ただこれを思い出しては沈む。
私はこれを心に思い返す。それゆえ、私は言う。「私は待ち望む。
主の恵みを。」実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。"
哀歌 3章19~22節