のりさん牧師のブログ

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2021年2月14日 白石教会礼拝説教

説教題 「キリストの兄弟姉妹」
聖書箇所 マタイの福音書12章46節~50節
 
 

 私たちは、今、このマタイの福音書をずっと一緒に読んできていますが、このマタイの福音書では、「天の御国」という言葉が度々出て来ていました。それはその天の御国の王がイエス様であること、特に、この12章に入ってからは、安息日の主、真のメシアすなわち、キリストであることを学んで来ました。
 それで前回、イエス様御自身が語られた「見なさい。ここにヨナよりも、ソロモンよりもまさった者がいるのです」という言葉に注目しました。そこであらためてイエス様こそ、真の王様、メシアであるということを受け取って来たと思います。
 それで、今日は12章の最後で、イエス様はお兄ちゃん、私たちは家族だというお話です。天の御国というととても大きな、想像を超えた王国、神の国というイメージを持ちますが、ここで急に家族という身近な社会にチェンジして、このマタイの12章は締められるのです。
 それはどうしてでしょうか。どうして、マタイはここに来て私たちの身近な社会である家族に切り替えて、「イエスこそ真のメシア、安息日の主」であるお話を閉めているのでしょうか。
 
1.イエスを恥ずかしがる家族
 45節までの件の中で、ここでイエス様のお話がこの46節で中断されたことがわかります。46節、47節をお読みします。
エスがまだ群衆に話しておられるときに、イエスの母と兄弟たちが、イエスに何か話そうとして、外に立っていた。すると、だれかが言った。「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、あなたに話そうとして外に立っています。」
 
 イエス様が「まだ群衆と話しておられるときに」とありますから、まさにお話の最中にということです。だれが中断させたのか。それはイエス様の家族でした。そのことを周囲にいただれかが教えてくれました。あなたのおかあさんと兄弟たちが、話そうとして外に立っていますと。
 このおかあさんはマリアです。カトリックでは聖母マリアと呼ばれているくらい、他の人とは別格です。その他、兄弟たちとは誰なのか。これは、イエス様がベツレヘムで生まれた後に、ヨセフとマリアの夫婦の関係の中で生まれた子たちです。その名前は13章55節に書いてあります。
この人は大工の息子ではありませんか。彼の母はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。
 
 そして、56節を見ると「妹たちも」とありますから、妹も2人以上はいたということです。これが妹2人だとすると、イエス様が群衆にお話をしているときにお母さんのマリア、弟ヤコブを初め4人と合わせて、7人くらいの家族が来たということです。
 このとき、イエス様は30歳くらいですので、一歳おきか二歳おきくらいに弟たち妹たちがいたと思われます。ですから、そこそこ、当時の社会ではみんな大人です。この聖書の舞台になっているイスラエルでは、男性は13歳で成人であり、神の律法に対して責任があるとされていましたし、女性もそのくらいで結婚していたのです。マリアも、仮に15歳でイエス様を出産していたとすると、このときは45歳くらいでしょうか。
 
 そんな感じでイエス様の家族がやって来たというのです。きっと、イエス様がお話されていた場所が、家があったナザレから近かったのでしょう。でも、これを書いたマタイは「イエスに何か話そうとして」来たと記録しています。何を話そうとしたのでしょうか。その疑問を解くカギは、他の福音書を見るとわかります。同じ場面のことが書いてあるマルコの福音書を見てみましょう。マルコ3:21にこう書いてあります。
「イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来ていた。「気が狂ったのだ」と言う人たちがいたからである。
 
 なんとイエス様の家族が来ていたのは、イエス様のことを「気が狂っている」と言いふらす人たちの言葉で傷ついていたからだったのです。お母さんのマリアにしてみれば、確かにイエスという息子は、神様によってお告げがあって、聖霊によって妊娠し産んだ子でした。それはわかっている。ヨセフにしても夢でお告げがあって、神様によって与えられた子として認識していたはずです。それでも、自分の息子として育てて来たはずです。
 
 きっと、そのあとも神と人とに愛されつつ成長していったと思いますが、ここに来て、お父さんの仕事である大工をやめて、神様のことを教える旅に出てしまった。マリアとしては、もしかしたら、家族がたくさんいますから、できれば家の仕事を手伝ってほしいと思っていたかも知れません。でも、イエス様も神が人の体をもって来ているということと、罪のない完全な人間であるということが一人のイエスとしていっしょになっていますから、その言動には神としての権威と、罪のない人間の模範として歩まれていることが、罪を持つ人間である私たちはすべて理解できるわけではありません。
 でも、これまで見てきたように、聖書に照らして観ると、23節にあるように、「この人はダビデの子なのだろうか」とメシアに結びつけて考えていけるのです。自分の基準、自分の経験や理解の中だけで判断するから「気が狂っている」と蔑むのです。
 
私たちも、この社会で、教会に行っているとか、クリスチャンですと言うと、「気が狂ている」と言われることがあります。特に、現代の日本社会では宗教はアクセサリーのようなもので良いと言われます。キリスト教に限らず宗教に本気で入信することを恐れます。特に、オウム真理教の事件があってから、信仰を持つことに対して、かなり危険視されます。だから、この地域では学校の周辺で教会のチラシを配布することは嫌がられるだけでなく拒否されたり、止められたりします。それは、洗脳されて気が狂っては困るし、その家族も皆不幸になると思われているからです。
マリアたち家族も、肉親である長男イエスがそのように言われるのが家族として堪えられなかったと考えられます。そして、そのような気が狂っている人の家族だということで、家族が嫌がらせを受けていたかも知れません。また、このときヨセフの姿がないので、ヨセフは既に死んでいたかも知れない。そうなると益々、心細くなっていたことは考えられます。
 
 しかし、その姿勢はイエス様の御心ではありませんでした。マリアたちは、イエス様と一緒に暮らしていたはずなのに、まだ真理に対して正しく向き合うことができませんでした。本当にカルト集団であるなら別です。しかし、聖書が示す真の神による真の救い主、メシアが救いを示しているのに、カルト宗教と一色単にして恥ずかしがることは、真のメシアとしては悲しかったと思います。
 
2.キリストの兄弟、母とは
 ここでイエス様は、その肉の家族を棄て去るようにこのように言われます。48節。
しかし、イエスはそう言っている人に答えて言われた。「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」
 
 ある意味、せっかく来ている家族に対して、イエス様は「その人たちは家族ではない」と言い捨てたのでした。ここを読んで、きっと家族に同情する人は多いと思います。家族にしたら、恥ずかしいから家に戻って仕事を続けてほしい。そんな思いがあってもおかしくないし、きっと、そう思っていたと考えられます。
 しかも「わたしの母、兄弟とは、だれですか」ととぼけているように、逆に質問されます。いったい、母とか、兄弟とか、どういう人のことを言えば良いのですかということでしょう。そして、言われます。49節。
それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。
 
ここでイエス様は、ずっと一緒に旅を続けている弟子たちのほうに「手を差し伸べて」言われたとあります。それは、イエス様のことを恥ずかしい、またイエス様のことで非難されたくないと思っている肉親の家族ではなく、イエス様といっしょに、人間をとる漁師にしようと言われて、従ってきた弟子たちでした。
彼らは網を置き、舟と父親を置いて、または何もかも捨てて、立ち上がって従ってきた漁師たち、また取税人です。その彼らのことをイエス様はあえて手を差し伸べて、この人たちがわたしの兄弟なのだ。もっとも親しい、麗しい、一緒にいて嬉しい、かけがえのない家族なのだと言われたのです。
 
この弟子たちのことを、わたしの家族だと、わざわざ手を差し伸べて言ってくださった。これは、弟子たちにとって、どれほど嬉しかったことでしょうか。尊敬し、愛し、従ってきた先生から、あなたたちはわたしの兄弟だよ、家族だよと言ってもらえる幸せ。何よりも、前回まで、ずっとイエス様が証しされてきたことは、ご自分こそ聖書が指し示していた真のメシア、キリストである、安息日の主である、天の御国の王であるということです。
その偉大なお方、王の王、主の主、万軍の神である神の国の支配者であるキリストご自身に、わたしの家来だよではない、わたしのしもべだよでもない、わたしの兄弟、母、すなわち家族なのだという告白は、きっと彼らを生かしたに違いありません。
手を差し伸べてて言われたとは、口先だけではなく、きちんと彼らを見て言われたということです。だから、周囲にいた群衆にも「見なさい」と彼らを見るように命じているのです。それは、パリサイ人ならば、イエス様のことを悪霊に憑かれていると言い、マリアなどイエス様の家族の回りにいた人たちは気が狂っていると言って蔑みます。そして、肉親であるはずの家族すら、恥ずかしいと言って連れ戻しに来た。
 
 そんな中で、この弟子たちは、そうは思わず先生と慕ってついて来ているのです。イエス様は、そこで彼らのことを見なさいと言った上で、どういう人がご自分の家族なのかを仰います。50節。
天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」
 
 天のお父様である神様の御心を行う者が、イエス様の家族なのだ。それは、つまり、かけがえのない兄弟なのだと言われる。これはまさに弟子たちに対するラブコールです。愛の告白です。このようにイエス様は、主を信じる者を益々愛し、その存在を尊く扱ってくださるお方、真の神なのです。
 では御心を行う者というのは、どういう人のことなのでしょうか。これまで、見てきた中で、何が父の御心だったのでしょうか。それは、この文脈で見るならば、主イエスを恥じないということです。そして、主イエスを信じるときに起こって来る迫害や誹謗中傷にもひるまず、ついて行くということではないでしょうか。特に、赤の他人よりも身近にいる人に言われる方が辛いです。私たちが信仰を持つことを、家族が恥ずかしがったり、馬鹿にしてきたり、警戒することがあります。それが一番つらいです。しかし今日のみことばからわかるように、まずイエス様が、その辛さを味わってくださっているのです。だからイエス様御自身が、このような体験を通ってくださり、同じような境遇にある人の模範ともなっておられたのです。というのも、このイエス様の家族たちは、このときはイエス様のことを恥ずかしいと思ったかも知れませんが、最終的には、皆、イエス様を真のメシアであると信じて殉教をも恐れない信仰者となりました。
 マリアはキリストの母として、主イエスの十字架、復活、昇天後も弟子たちとともに歩み、カトリックでは聖母マリアと言われるほど尊敬されています。またヤコブは、初代教会の指導者として活躍し、エルサレム教会の責任を持ち、伝説では彼は祈りの人で、彼の膝はらくだのこぶのようになっていたと言われています。またヤコブの手紙の著者であり、最後は殉教したと言われています。また、ユダという人もユダの手紙の著者であると言われていて、おそらく名が出ていない兄弟姉妹たちも、それぞれ最終的には兄であるイエス、真の救い主であるイエスを信じて、御心を行う者。つまり、真にキリストの家族とされていったのです。それは、なぜか。それは主イエスご自身がその家族を一度捨てたからです。
 「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか」と。
 
結び
 それは単に冷たくしたわけではありませんでした。あえて取り戻すために一度手離したのでした。それは御自分のみことばのとおりです。マタイ19:29
「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」
 
 私たちも主イエスのゆえに、握りしめているものを手放す時が必要です。握りしめている以上、せっかく用意されている祝福、永遠のいのちは遠くなり、その家族にすら届きません。しかし、主を信じて、主の辱めをも、ともに受けることを喜んでささげるならば、手放したものは必ず、幾倍の祝福となって戻って来るのです。あなたの肉の兄弟姉妹、母も父も、主イエスにある兄弟姉妹とされ、天の御国を受け継ぐ者とされるのです。
 
 私たちは、今日もこの幸いなキリストの兄弟姉妹として招かれています。ですから今日、主はあなたにも手を差し伸べて言われます。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです」