のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

「耳のある者は聞きなさい」

聖書箇所 マタイの福音書13章1節~23節
 
 

 今日から始まるマタイの福音書13章はイエス様の喩え話が詰まっている章です。そして、今日の箇所は少々長い箇所です。それで先に交通整理します。まず最初に、なぜイエス様は喩えを用いて語られるのかということについて、お話したいと思います。そして、後半で種蒔きのたとえについて考えたいと思います。
でも、その二つのテーマに共通することは、「聴く耳のある者は聞きなさい」ということです。それを抜きにしては次の喩え話に進めないくらい大切なお話です。それは、真のメシアであるイエス様の御国に入る者の資格に関わってくるからです。
 
誰でも天国か地獄かと言われると、天国へ行きたいものです。だから、イエス様は山上の教えで天の御国に相応しい者とは誰なのかについて語られました。そして、山から降りてからは、癒しや悪霊の追い出しなどの様々な奇蹟を通して、ご自分こそ、その天の御国を治めるメシアであることを表してきました。そして、ここに来て、その天の御国とはどういうものか、その奥義を教えてくださるというのです。そのために必要なのが、どのような耳、どのような心構えで聴くか。そして、その聞いたみことばをどのように扱っていくのか、ここに聞く者の姿勢が問われ、天の御国に相応しい生き方が問われているのです。
 
1.たとえを用いるイエス
 では、まずイエス様がたとえを用いる理由について考えてみましょう。そのことを弟子たちも10節で尋ねています。10節。
「すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。『なぜ、彼らにたとえでお話になったのですか』」
 弟子たちは、譬え話が群衆にだけ語られていると思ったようです。それに対してイエス様は、こう答えられます。11節。
「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません」
 ここで「天の御国の奥義」とイエス様は言われています。この奥義とは、秘密中の秘密事項ということです。もとの言葉でミステリオンと言って、英語のミステリーの語源にもなっています。それも天国の秘密。だから誰にでもわかるようには教えられないのだということです。だから、それを知ることができるのは弟子である「あなたがた」であり、それを知ることを許されていないのは群衆である「彼ら」だということです。これは、一見、差別しているように聞こえますが、そうではありません。というのも、弟子と言うのは、前回お話した、キリストの兄弟姉妹です。家族だというくらい愛によって互いに労りあう関係です。しかし、そうでない人は、愛によって労り合うよりも、様々な先入観でイエス様を見て、その教えを聞く耳も不信仰と言うフィルターがかかっています。
 だから、譬え話と言うものは、その聞き方によって、真理を解明するために用いられたり、逆に謎めいたものへと変えてしまうものなのです。それは、見ていても見ず、聞いてはいるが聞かず悟らないところに問題があるからです。
 
 目の前で同じものを見て、同じものを聞いても、それを信じる人と信じない人がいます。特にここで言っているのは、聞いても悟らない人のことを言っています。イエス様は13節で「聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしない」と言い、またイザヤの預言を引用して「聞きはするが悟らない」と仰って、旧約聖書の預言が成就したのだと言われます。
 預言者イザヤの時代も預言者の語る言葉、すなわち神のみことばを聞きはするけれども、御心を悟らない人が大勢いました。それが後にバビロン捕囚として神様の裁きが下されました。そのときと同じように、真剣になって聴く耳をもって聞こうとしなければ、せっかく語られている奥義を受け取れなくるのです。その聞く耳を持っているかどうかで、例え話の役割が大きく変わって来るからです。
 現代の私たちに神様は、預言者ではなく、聖書を完成させて、聖書に御心を啓示しています。ですから、聖書のことばをみことばと言います。その聖書のことばも神様の御心を求めて、へりくだって素直に読まなければ、それは逆に分かりにくい、理解できない言葉になります。
 
 19世紀にキルケゴールいう哲学者が、実存的に聖書の言葉を捉えることを始めました。実存的というのは、私たち自身の個人個人の感じ方や受け取り方を重要視する考え方です。だから、聖書の言葉も神のみことばだと思う人にはそうかも知れないが、そう思わなければ、聖書は神のことばではないとする人間中心の読み方の自由が取り入れられるようになりました。だから、同じ目、同じ耳を持っているようで、実はその聞き方、見方が変わって来たのです。そして、それまで教会の権威であった神のことばである聖書が相対的なものとして扱われるようになったのです。
 
 これは大変恐ろしいことです。神様が望むようにみことばに聴かないということは、私たちを救おう、御心を教えよう、天の御国の奥義を理解させようと働く聖霊の働きを拒むことだからです。そのことを、「聖霊を冒瀆する」とも言います。それは赦されない罪であると、前々回学びました。かつて出エジプトのとき、エジプトの王様パロは、モーセとアロンを通して語られた主のみことばを故意的に拒んだために、そのあと益々強情になって、悔い改める機会を失いました。同じように、現代でも神様は聖書を通して御心を語ってくださっています。しかし、そのみことばに対して、悪意や自分の先入観、自分の読み方をやめないならば、聖霊を冒瀆することになるので注意が必要です。 だからこそ、聖書を読むときは、愛するお方からのラブレターとして、主への愛を持って素直に聞いていくことが求められているのです。
 
 だからこそ、あらためて私たちは天の御国を受け継ぐべく主イエスを信じたのですから、みことばに聞くとき、先入観や不信仰ではなく、愛する主のことばとして素直に読まなければなりません。そのときに、摩周湖の霧が晴れて、真に透明感のある美しい湖が見えていくように、これから語られる例え話が、神様の奥義を明らかにしてくれる大切な方法として用いられるのです。
 
2.種蒔きのたとえ
 ここでようやく「種蒔きのたとえ」のお話となります。イエス様も、18節で、譬えで話をする意味を説いた上で、「ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい」と言われました。
 この「種蒔きの譬え話」自体は、3節から8節までにあり、その解説が19節以降となります。イエス様は船に乗って腰を下ろし、ユダヤ教の教師が教えるスタイルを取りながら、浜辺に立って聞いている群衆にお話されました。
 「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道端に落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった」
 
 この時代のイスラエルの種蒔きは、種を蒔いてから耕したそうです。だから、当然、道端や岩地や、いばらの中に落ちる種があったのです。ですから、ここで言われている光景は当時の人々は誰でも経験上知っていることで、その誰もが知っていることの中に、イエス様は天の御国の秘密を織り交ぜて語られたということです。
 それで道端に落ちた種、岩地に落ちた種、いばらの中に落ちた種、そして良い地に落ちた種と大きく4種類の地での種の生育具合を用いました。そして、この4種類の土地が何を表しているのか。
それが19節を見ると「御国のことばを聞いても悟らないと」とありますので、先ほどのイエス様が言われた「聞いてはいるが聞かず、悟ることもしない」人と重なっています。同じように、そのほかの土地も、みことばを聴くけれども、そのあとのステップに問題があることは同じです。みんな神様のみことばを聞くけれども、そのあとの態度、状況に問題があります。
 
その中に、道端のような、そもそも不可抗力的に落ちてしまったように、興味もないけれどもたまたま聖書のことばを耳にしたような状況の人がいます。19節の後半で「道端に蒔かれるとは、このような人のことです」とありますから、この例え話での状況が私たちを表しているということです。
だから一つ目のパターンは道端に落とされているような状況の人です。ですから、その種である神のことばは雀かカラスのような鳥に食べられて終りです。それが、悪い者が来て、そのみことばの祝福を奪っていくという意味だとイエス様は解説しておられます。悪い者とは「悪魔」とも訳せる言葉ですので、悪魔や、悪魔が背後にいる人によって故意的に祝福を持って行かれるということです。それは、奪っていく悪魔は当然悪いですが、神のことばを人が踏みつけてしまうような場所に置いても平気だという、みことばに対する価値観も、そこに表されています。それは、種も石ころも同じと考えている人です。聖書の言葉も、人間の書いた他の本の言葉と同列に置いている状況です。そんな価値観だと、自分にとって、もっと気持ちの良い言葉に出会ったら、いとも簡単にみことばを捨てられるというふうにも言えるでしょう。これは日ごろから、神のみことばに対する価値が低い人です。今でいうと聖書を軽く見ていると言えるでしょう。
岩地に蒔かれるとは、みことばを聴くと、とりあえずは喜んで受け入れるが根っこが生えないので、枯れてしまう。それは、信仰を持ちたいと言いながら、困難があるとすぐにあきらめてしまう人のことです。岩地では、種が根を下ろすことができない状況を見過ごしているということですから、みことばを聴いていい話だと思いながら、それを自分に適用しようとしないということでもあります。自分の中に福音が広がることまでは受け入れないことです。「イエス様のお話はいい話」で終わってしまっている人のことです。
いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聴いても、この世の中の風潮や価値観に支配されてしまって、みことばの素晴らしさが表に現れることを隠す人です。種も成長するには日光が必要であるように、邪魔をするいばらを切るとか、取り除くことをしなければなりません。同じように、自分の信仰を妨げるものに対して、戦おうとしないことはそれと同じでしょう。信仰の戦いを避けていては、信仰の成長は望めません。
 
しかし、良い地に落ちた種は百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶと、約束されています。その良い地とは何か。それは「みことばを聞いて悟る人のこと」とイエス様ははっきりと仰いました。ですから、それ以外の道端に落ちた状況や岩地、いばらの地、すべてに共通する根本的な問題がやはり「みことばを聞いても悟らない」ことであるということです。
 
この「悟る」と訳されている言葉は、理解するとか、判別する、洞察する、わきまえるという意味があります。ですから、みことばに対して何も考えない。洞察しない。通り過ぎるだけならば、天の御国にはふさわしくないと言うことなのです。
この13章のイエス様の例え話の中心テーマは「天の御国は」ということで7つの例え話があります。すべて天の御国について述べられている例え話ですが、その最初にこの種蒔きのたとえがあります。それは、すなわちみことばに対する私たちの態度がどうあるべきか、そのことを問う例え話であるからです。
 
どうしてイエス様は、御言葉に対する態度についての例え話を最初にお語りになって、大事なことだ、天の御国の入口にある問題としてお話されたのでしょうか。それは、私たち人間の祖先アダムとエバが、天の御国のモデルであるエデンの園で堕落した原因があるからではないでしょうか。アダムとエバは、園の木の中で善悪の知識の木からは食べてはならないというみことばを軽んじて、悪魔の言うことを優先したからです。でも、もしアダムとエバが、その神様のみことばを思い巡らし、理解し、洞察し、わきまえていたら、悪魔が語っていた偽りに気が付いたでしょう。しかし、彼らは自分に蒔かれたみことばの種をわきまえず、その蒔かれた道端の状態から耕すことをしていなかったのです。
 
結び
私たちも、主のみことばに対する態度がいつも問われています。毎日、みことばは農夫である神様によって蒔かれています。しかし、そのみことばに絶対的な価値を認めつつ、求めながら、悟ろうとしているでしょうか。理解しようとしているでしょうか。
もしあなたの心が道端でも、岩地でも、いばらの地でも良いのです。最初はそれでも良いのです。なぜならば大切なことは、耕して良い地にすることだからです。耕すことは、御言葉が私たちのうちに広がる様に、願い祈り、聖霊の力に頼みながら、みことばを悟ろうとすることです。それはみことばを唯一の宝として理解すること、判別すること、洞察することです。天の御国とは、私たちが神のことばをどう考え、どう扱うかによって、その国民としての資格が問われているのです。これが天の御国の奥義です。
それはつまり、神のことばを愛しているかです。神を愛する者はそのみことばをも愛します。みことばに仕えるとはその文字に仕えているのではありません。それを語られた愛する神に仕えているのです。神に仕えるとは神を愛することです。
 
そのみことばを愛し、みことばに仕え、みことばを日々思い巡らしていく人生こそ、天の御国がそこに来ている歩みです。それは、最初のアダムの失敗を第二のアダムである主イエスが回復してくださったからです。このキリストが十字架で死んでくださり、私たちの罪を贖い、天の御国に招いてくださっています。ぜひ、この主のみことばに立って、聞く耳のある者として、今週もみことばを聞き、心の畑を耕してまいりましょう。最後に、みことばを一緒に読んで祈りましょう。
「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」
ヤコブ1:21