のりさん牧師のブログ

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出エジプトの旅程記録

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民数記
33章
1,モーセとアロンの指導のもとに、その軍団ごとにエジプトの地から出て来たイスラエルの子らの旅程は次のとおりである。
2,モーセは主の命により、彼らの旅程の出発地点を書き記した。その旅程は、出発地点によると次のとおりである。
3,彼らは第一の月、その月の十五日に、ラメセスを旅立った。すなわち過越のいけにえの翌日、イスラエルの子らは、全エジプトが見ている前を臆することなく出て行った。
4,エジプトは、彼らの間で主が打たれたすべての長子を埋葬していた。主は彼らの神々にもさばきを下された。
5,イスラエルの子らはラメセスを旅立ってスコテに宿営し、
6,スコテを旅立って荒野の端にあるエタムに宿営した。
7,エタムを旅立ってバアル・ツェフォンの手前にあるピ・ハヒロテの方に向きを変え、ミグドルの前で宿営した。
8,ピ・ハヒロテを旅立って海の真ん中を通って荒野に向かい、エタムの荒野を三日路ほど行ってマラに宿営した。
9,マラを旅立ってエリムに行き、そこに宿営した。エリムには十二の泉と、七十本のなつめ椰子の木があった。
10,それから、彼らはエリムを旅立って葦の海のほとりに宿営し、
11,葦の海を旅立ってシンの荒野に宿営した。
12,シンの荒野を旅立ってドフカに宿営し、
13,ドフカを旅立ってアルシュに宿営し、
14,アルシュを旅立ってレフィディムに宿営した。そこには民の飲む水がなかった。
15,それから、彼らはレフィディムを旅立ってシナイの荒野に宿営し、
16,シナイの荒野を旅立ってキブロテ・ハ・タアワに宿営した。
17,キブロテ・ハ・タアワを旅立ってハツェロテに宿営し、
18,ハツェロテを旅立ってリテマに宿営した。
19,リテマを旅立ってリンモン・ペレツに宿営し、
20,リンモン・ペレツを旅立ってリブナに宿営した。
21,リブナを旅立ってリサに宿営し、
22,リサを旅立ってケヘラタに宿営し、
23,ケヘラタを旅立ってシェフェル山に宿営した。
24,シェフェル山を旅立ってハラダに宿営し、
25,ハラダを旅立ってマクヘロテに宿営した。
26,マクヘロテを旅立ってタハテに宿営し、
27,タハテを旅立ってテラフに宿営し、
28,テラフを旅立ってミテカに宿営した。
29,ミテカを旅立ってハシュモナに宿営し、
30,ハシュモナを旅立ってモセロテに宿営した。
31,モセロテを旅立ってベネ・ヤアカンに宿営し、
32,ベネ・ヤアカンを旅立ってホル・ハ・ギデガデに宿営し、
33,ホル・ハ・ギデガデを旅立ってヨテバタに宿営し、
34,ヨテバタを旅立ってアブロナに宿営し、
35,アブロナを旅立ってエツヨン・ゲベルに宿営した。
36,エツヨン・ゲベルを旅立ってツィンの荒野、すなわちカデシュに宿営し、
37,カデシュを旅立ってエドムの国の端にあるホル山に宿営した。
38,祭司アロンは主の命によりホル山に登り、そこで死んだ。それは、イスラエルの子らがエジプトの地を出てから四十年目の第五の月の一日であった。
39,アロンはホル山で死んだとき、百二十三歳であった。
40,カナンの地のネゲブに住んでいたカナン人、アラドの王は、イスラエル人がやって来るのを聞いた。
41,それから、彼らはホル山を旅立ってツァルモナに宿営し、
42,ツァルモナを旅立ってプノンに宿営し、
43,プノンを旅立ってオボテに宿営し、
44,オボテを旅立ってモアブの領土のイエ・ハ・アバリムに宿営した。
45,イイムを旅立ってディボン・ガドに宿営し、
46,ディボン・ガドを旅立ってアルモン・ディブラタイムに宿営した。
47,アルモン・ディブラタイムを旅立って、ネボの手前にあるアバリムの山々に宿営し、
48,アバリムの山々を旅立って、エリコをのぞむヨルダン川のほとりのモアブの草原に宿営した。
49,すなわち、ヨルダン川のほとり、ベテ・ハ・エシモテからアベル・ハ・シティムに至るまでのモアブの草原に、彼らは宿営した。
50,エリコをのぞむヨルダン川のほとりのモアブの草原で、主はモーセに告げられた。
51,「イスラエルの子らに告げよ。あなたがたがヨルダン川を渡ってカナンの地に入るときには、
52,その地の住民をことごとくあなたがたの前から追い払って、彼らの石像をすべて粉砕し、彼らの鋳像をすべて粉砕し、彼らの高き所をすべて打ち壊さなければならない。
53,あなたがたはその地を自分の所有とし、そこに住め。あなたがたが所有するように、わたしがそれを与えたからである。
54,あなたがたは、氏族ごとに、くじを引いて、その地を相続地とせよ。大きい部族には、その相続地を大きくし、小さい部族には、その相続地を小さくしなければならない。くじで当たったその場所が、その部族のものとなる。あなたがたは、自分の父祖の部族ごとに相続地を受けなければならない。
55,もしその地の住民をあなたがたの前から追い払わなければ、あなたがたが残しておく者たちは、あなたがたの目のとげとなり、脇腹の茨となり、彼らはあなたがたが住むその土地であなたがたを苦しめる。
56,そしてわたしは、彼らに対してしようと計画したとおりを、あなたがたに対してすることになる。」

 

 聖書の記述に対して、近代の聖書批評家たちは、その記述を疑い、歴史性すら否定する場合があります。それは人間が記したがゆえに、必ず誤りがあるという前提に立っているからです。

 しかし聖書は、確かに人間によって記されましたが、神の霊感によって書かれたものであると聖書はいいます。それは、神の霊が働いて、神の霊によって人が動かされ、導かれ、特別に神の主権に守られて書いたものであると言うことです。

 ですから、聖書は神が書いたものである。だから、誤りがないのだと保守的な立場の人たちは言うのです。この場合、保守的というのは、古来信じられて来たことを守る人ということです。私もその一人でありますが、このことはイエスが神か人かということと相通ずるものがあります。

 ヨハネ福音書1章によれば、キリストは神のことばとして来られたとありますから、キリスト=神のことば=聖書というふうにも考えることができます。

 イエスは人間マリアから生まれた人間です。それは歴史的にも事実です。しかし、聖書によればイエスは、通常の人間の夫婦の営みによってではなく聖霊によって、処女であるマリアに宿り、そして生まれたとあります。

 それはすなわち聖書が神の霊感によって書かれたことと同じことです。しかも、神のことばは神から発せられますから、このイエスは、マリアから生まれたことを発端として発生したお方ではなく、マリアから生まれる前から、マリアが生まれる前からおられ、この天地が生まれる前から神のことばであり、すなわちそれは神ご自身である。神と一つであるお方なのです。

 ですから、人間から生まれたということにおいて、また人間の肉体をとって来られたことにおいては弱さがあります。キリストは、人間の肉体を持つことで、人間の弱さも体験することも意味があるからです。

 そこには、神としての完全さに比べれば弱さを持ち、当然、風邪をひいたり怪我をしたり、そのような弱さはあったのです。しかし、罪は犯さなかった。そこに人間としては完全であったと言えるのです。

 聖書も人間が書いたということにおいては、弱さがあります。それは人間が書いた故に、人間の言語を用いているが故にある表現の限界はあるでしょう。しかし、そこに間違いはないのです。

 

 ここがぶれると、聖書全体の記述に不安を持ち、書いてあることを正しく受け取れなくなります。ここに批評家の聖書に対する見方があるのです。

 

 前置きは長くなりましたが、民数記33章には、事細かに出エジプトにおける旅程が記録されています。これは、当時のモーセの時代における最善を尽くして誤りなきよう記したものです。このような内容のことを、あえて聖書に組み入れたのは、聖書の正確さ、歴史的にも地理的にも信用に値するものとして主張しているからです。

 モーセが率いて四十年間も旅をしたイスラエルの民は、このように長きに渡り荒野を旅し続け、様々なところで宿営し、そこに神の臨在があったのです。

 この記録は、まさに記録だけあって、葦の海を渡ったことやアロンの死なども、かなり簡略して事実だけを伝えています。それは、野球で言えばスコアブックのようなものです。淡々と試合の流れが記されるだけで、どんな選手がどんなファインプレーをしたとか、どんな選手がどんな思いでホームランを打ったのかまでは記録しません。ただ淡々と試合の流れと結果がわかるように書かれるのです。

 今日の箇所もそのスコアブックに徹しています。

 そこでわかることは、その淡々とした記録を読み返しながら、今、私たちですら、その出エジプトの歩みを走馬灯のように思い起こしながら読めるということです。実は、一見淡々と記し、面白くないように見える単なる記録ですが、この記録の中には、これまでイスラエルとともに歩まれた主の恵みが溢れているのです。そのところを読者である私たちは見過ごしてはなりません。

 神は確かにイスラエルの民と共にいて、多くの奇蹟をなし、200百万人とも言われる人たちを脱出させるという業を成功させたのです。

 それは、私、そしてあなたという罪人を罪の中から贖ってくださったことと通じます。

 これまでのあなたの歩みはどんな歩みだったでしょうか。そのことを記録するとしたら、この民数記のように出発地点を記録するだけのような簡単なものになるかも知れません。しかし、その一つひとつの歩みの中には、書ききれないほどの主の恵みが溢れていることを、今日もう一度覚えたいと思います。

 神はあなたを愛して、あなたをここまで導いてくださいました。そこには、海の真ん中を通るような奇跡的な体験もあったでしょう。またときにはアロンが死んだと記されているように、あなたの愛する方との別れもあったかも知れません。しかし、その歩みは決して不幸ではなかった。なぜならば、その全行程に主なる神がともにおられたからです。

 今日もあなたの人生の歴史は記録されます。あとでその歩みを思い起こすときに、今はわからなくても、やっぱり生きてて良かった。なぜなら、主がともにいてくださったからだと感謝に溢れるものとなる恵みを先取りして、今日も歩ませていただきましょう。

 

"苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。
あなたの御口のみおしえは私にとって幾千もの金銀にまさります。
あなたの御手が私を造り私を整えてくださいました。どうか私に悟らせ私があなたの仰せを学ぶようにしてください。"
詩篇 119篇71~73節