のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

受難節 第24日 火曜日

マルコの福音書 14章53~65節

"人々がイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長たち、長老たち、律法学者たちがみな集まって来た。
ペテロは、遠くからイエスの後について、大祭司の家の庭の中にまで入って行った。そして、下役たちと一緒に座って、火に当たっていた。
さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするため、彼に不利な証言を得ようとしたが、何も見つからなかった。
多くの者たちがイエスに不利な偽証をしたが、それらの証言が一致しなかったのである。
すると、何人かが立ち上がり、こう言って、イエスに不利な偽証をした。
「『わたしは人の手で造られたこの神殿を壊し、人の手で造られたのではない別の神殿を三日で建てる』とこの人が言うのを、私たちは聞きました。」
しかし、この点でも、証言は一致しなかった。
そこで、大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているが、どういうことか。」
しかし、イエスは黙ったまま、何もお答えにならなかった。大祭司は再びイエスに尋ねた。「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか。」
そこでイエスは言われた。「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」
すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。「なぜこれ以上、証人が必要か。
あなたがたは、神を冒瀆することばを聞いたのだ。どう考えるか。」すると彼らは全員で、イエスは死に値すると決めた。
そして、ある者たちはイエスに唾をかけ、顔に目隠しをして拳で殴り、「当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちはイエスを平手で打った。"


ヨブ記 9章11~24節

"神がそばを通り過ぎても、私には見えない。進んで行っても、気づかない。
ああ、神が奪い取ろうとされるとき、だれがそれを引き止められるだろうか。だれが神に向かって、「何をするのか」と言えるだろうか。
神は御怒りを翻されない。ラハブの仲間も、神のみもとに身をかがめる。
まして、この私が神に答えられるだろうか。神と交わすべきことばを私が選べるだろうか。
たとえ私が正しくても、答えることはできない。私をさばく方に対して、あわれみを乞うだけだ。
私が呼び、私に答えてくださったとしても、神が私の声に耳を傾けられるとは、信じられない。
神は嵐をもって私を傷つけ、理由もなく傷を増し加え、
私に息もつかせず、私を苦しみで満たされる。
もし、力のことなら、見よ、神は強い。もし、さばきのことなら、だれが私を呼び出すのか。
たとえ私が正しくても、私自身の口が私を不義に定める。たとえ私が誠実でも、神は私を曲がった者とされる。
私は誠実だ。しかし私には自分が分からない。私は自分のいのちを憎む。
みな同じことだ。だから私は言う。神は誠実な者も悪い者も、ともに絶ち滅ぼされると。
突然、にわか水が出て人を死なせると、神は潔白な者の受ける試練を嘲られる。
地は悪しき者の手に委ねられ、神は地のさばき人らの顔をおおわれる。神がなさるのでなければ、だれがそうするのか。"

ヨブ記 9章32~35節
"神は、私のように人間ではありません。その方に、私が応じることができるでしょうか。「さあ、さばきの座に一緒に行きましょう」と。
私たち二人の上に手を置く仲裁者が、私たちの間にはいません。
神がその杖を私から取り去り、その恐ろしさが私をおびえさせませんように。
そうなれば、私は恐れず神に語りかけます。しかし今、私はそうではありません。"

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 主イエスは逮捕され、ユダヤの最高法院で、さらに総督ピラトのもとで裁判にかけられ、死刑の判決を受けました。神を裁判にかけ、神に死刑の判決を下す。大変恐ろしいことです。しかし、神の言葉の前に身をかがめることをやめ、耳に心地よい言葉だけを聞こうとするとき、私たちは神のことばを裁判にかけ、神の語りかけを拒んで、死刑の判決を下しています。

 ヨブは反対に、苦しみを通して神の言葉の前に膝をかがませられながらも、神と自分との間に立つ仲裁する者がおらず、対話が成り立っていないと嘆きます。しかし、私たちには弁護者イエス・キリストがおられるのです。

 

●ニコラウス・ルートヴィヒ・ツィンツェンドルフ(1700〜1760)の祈り

 

 愛する救い主よ

あなたのからだは私のために痛めつけられ

刺し貫かれました。

あなたはご自分のからだを隅々まで苦しみに引き渡され

また、辱めと唾に顔を隠すことはなさいませんでした。

茨の冠をかぶせられたままでおられました。

足のつま先から頭のてっぺんまで病んでいる者を救い清めるために

あなたは朝から頭まで傷ついた者、病む者となってくださいました。

今、私はあなたのもとにいます。

罪人の私をあなたの御傷による義の中に引き入れてください。

 

【参考文献】

小泉健『十字架への道』(日本キリスト教団、2019年)