「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働いているのです。「私は信じています。それゆえに語ります」と書かれているとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語ります。主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。 すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。 私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」コリント人への手紙4章11節~18節
私たちは、地上のいのちは地上のいのちとしてあって、誕生で始まって死で終わるのであり、終わりの日に復活して新しいいのちに生きることになると考えます。しかし使徒パウロの言葉はそうではありません。確かに私たちは病み、傷つき、老い衰え、ついには朽ちていきます。でも「私たちの…内なる人は日々新たにされています。」
私たちはバプテスマによって主イエスと結ばれ、すでに主イエスのいのちを生き初めています。私たちはこの世からのものを一つひとつ捨てていきます。絶えず死に渡されています。そのただ中で、主イエスのいのちは私たちの死ぬべき肉体に既に現れているというのです。
新しいいのちは、死後に与えられるものではなく、罪を悔い改め、イエス・キリストを信じバプテスマを受けた時から既に始まり、今、このときも私たちをキリストにあって生かし続けているのです。
●エドワード・ブーヴェリー・ピュージー(1800~1882)の祈り
※イングランド教会司祭「オックスフォード運動」指導者で後にカトリックへ改宗し枢機卿にまでなった。
主イエスよ
あなたの十字架の愛のゆえに
どのような十字架のもとにあっても
喜びに溢れた者とならせてください。
あなたがお嫌いになるものや
あなたの愛を妨げるものをすべて
私から取り除いてください。
あなたをもっと深く愛することができますように。
あなたの愛で私を溶かしてください。
私のすべてが愛になり
私の存在のすべてをもってあなたを愛せますように。