のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

受難節 第30日 火曜日

マタイの福音書
1章
1,アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリスト系図
2,アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み、ヤコブがユダとその兄弟たちを生み、
3,ユダがタマルによってペレツとゼラフを生み、ペレツがヘツロンを生み、ヘツロンがアラムを生み、
4,アラムがアミナダブを生み、アミナダブがナフションを生み、ナフションがサルマを生み、
5,サルマがラハブによってボアズを生み、ボアズがルツによってオベデを生み、オベデがエッサイを生み、
6,エッサイがダビデ王を生んだ。ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み、
7,ソロモンがレハブアムを生み、レハブアムがアビヤを生み、アビヤがアサを生み、
8,アサがヨシャファテを生み、ヨシャファテがヨラムを生み、ヨラムがウジヤを生み、
9,ウジヤがヨタムを生み、ヨタムがアハズを生み、アハズがヒゼキヤを生み、
10,ヒゼキヤがマナセを生み、マナセがアモンを生み、アモンがヨシヤを生み、
11,バビロン捕囚のころ、ヨシヤがエコンヤとその兄弟たちを生んだ。
12,バビロン捕囚の後、エコンヤがシェアルティエルを生み、シェアルティエルがゼルバベルを生み、
13,ゼルバベルがアビウデを生み、アビウデがエルヤキムを生み、エルヤキムがアゾルを生み、
14,アゾルがツァドクを生み、ツァドクがアキムを生み、アキムがエリウデを生み、
15,エリウデがエレアザルを生み、エレアザルがマタンを生み、マタンがヤコブを生み、
16,ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。
17,それで、アブラハムからダビデまでが全部で十四代ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる。
18,イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
19,夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。
20,彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。
21,マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
22,このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。
23,「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
24,ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、
25,子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。

 

 マタイの福音書にある主イエス系図は、創世記で使われている「〇〇の系図(または歴史)」という書き方を意識していると思われます。それは創世記からの連続性の中に主イエスがお生まれになったことを意味しているからです。

 特に、アダムではなくアブラハムから始まり、イサク、ヤコブと続き、ユダ族のダビデ王の系図であり、その歴史の中に主イエスが来られたことがわかります。それは、主イエスこそダビデ契約で約束された、ダビデの家を永遠に堅く立てるメシアであることを指差しています。

 ところが、この系図ダビデ王家にとって負の部分を多く含み、あえて、その負の部分を強調して記しています。

 それは「〇〇が△△によって□□が生まれ」とあるところです。そこには不倫があり、異邦人との婚姻があり、多くの恥ずかしい、隠しておきたいダビデ王家の歴史があるということです。

 このように、主イエスは、まさに人間の悲しみ、罪と弱さと悩みの歴史の中に来られたのです。それはメシアとして、人間の全ての悲しみ、罪、弱さ、悩みを負うためです。

 メシアについて預言者イザヤはこう言います。

"彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。"イザヤ書 53章3節

 

 主イエスは「悲しみの人で、病を知っていた」のです。私たちの主イエスは、私たちの悲しみを、その病を知ってくださるお方。高いところから降りて来られて、低くなられ、貧しくなられて、その歩みはまさに、私たちの悲しみを負う歩みであり、私たちに染み付いている罪と言う病を担う歩みだったのです。事実、主イエスが生まれるために選ばれた場所は、寒く、汚い家畜小屋でした。もうここから十字架の道は始まっていたのです。

 その悲しみ、弱さ、病を全て背負ったまま十字架にかかり、私たちが受けるべき刑罰をも負って死なれました。その刑罰は、人間が神から離れた結果もたらされた罪の呪いです。

 だからこそ、その呪いを私たちに負わせるのではなく、全てご自分に引き受けることで、神との関係を修復されたのです。

 今日も私たちの歴史に来てくださった、この主イエス・キリストを覚えたいと思います。あなたのこれまでの人生がどんなにあれ荒んでいたとしても、キリストはその問題を解決するために、あなたのその悲しみ、悩み、罪も負われたのです。

 そこまでして、苦しみの道を通ってくださった主の御心は、あなたが天の父に立ち返ることです。それは、あなたを愛しておられるからです。

 その愛を今日覚えましょう。神の愛に触れるとき、私たちは生まれ変わります。それは、神との関係が修復されるからです。それは、隣人との関係修復にも及び、そこに真の平和が訪れるからです。

 

祈り

 恵み深い主よ

私の歴史の中にもあなたが来てくださり感謝します。

誰にも言えないような恥ずかしいことを繰り返し、

悲しみに満ち、罪という病に侵され、

もはや死に向かうしかなかった者に

あなたは祝福をもたらしてくださいました。

それは天の父との平和です。

豊かな愛の交わりの中に私を立ち返らせてくださり、今、途上ではありますが

多くの人たちとの平和ももたらされつつあることを感謝します。

どうか新しい御国が完成される、そのときまで、この私をつくりかえてください。自分の罪の歴史の中で埋没する者ではなく、多くの悲しみ、悩みの中にある方々にキリストをもたらす器へと私をつくりかえ、私の人生をつくりかえてください。

主の御名によって祈ります。

アーメン。