日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

北海道キリスト教史概論(改訂版)

 
1.キリスト教の伝来
 北海道にキリスト教が伝えられたのは、プロテスタントが1874年、カトリックが1618年である。世界のキリスト教史から見れば大変短い。この短い歩みの中にも豊かな歴史的遺産が残され、今も生き続けている。
 
2.アイヌへの侮辱と支配
 政治的には、16世紀後半に松前藩の封建的支配が確立し、アイヌ民族への苛酷な侮辱政策がとられていた。1620年前後に松前に来た切支丹宣教師は胸を痛めてそれを見ていたという。何度かアイヌの抵抗運動が各地で起こり、その中で最も大きな抵抗運動は1457年のコシャマインの役と、1669年のシャクシャインの役であった。それが皮肉にも、前者が反対に松前藩形成の端緒となり、後者はアイヌ民族への支配権を確立することになってしまったことである。
 
3.徳川幕府から明治維新
 1854年日米和親条約により箱館開港となり、ハリストス正教会の伝道や、カトリック教会の再布教となった。明治維新直後、榎本武揚らによる箱館戦争があり、短期間であったが日本で唯一の共和制がしかれたこともある。しかし、明治政府が勝利したことにより1869年に開拓使がおかれ、蝦夷を北海道と命名し、本格的な開拓が進められるようになった。
 1873年、切支丹禁制の高札が除かれ、この年、函館~青森間の定期航路が開かれ、、また函館~札幌間の道路が開通した。その翌年にプロテスタントの宣教師が渡来した。1881年開拓使官有物払下げ事件が起り、自由民権運動の頂点となった。それが政変に発展したのである。翌年開拓使は廃止され、函館、札幌、根室に県がおかれて、三県一局 の時代となった。しかし、政治力が分散しては思うように開拓が進まないとして、1886年再び札幌に本庁を置き、北海道庁時代となって今日まで至っている。
 
4.急進的発展の光と影
 北海道は、僅か100年の間に原始社会から近代化の途を走り、土地が開かれ、産業を興し、近代工場が立ち並んで昔日の面影はなくなった。アカシヤの並木にロマンの香りを放つ道都札幌を100年前の人々は夢想だにしなかったに違いない。それは勤勉な開拓者の汗と涙の結晶であり、政治力の象徴、文明の謳歌であると言えるだろう。
 しかし、その陰に土地を追われて、生活権を奪われ、差別に泣く先住民族がおり、人生の挫折と権力の集中化の中で弾き出された人々が流刑の地として囚人労役に服し、タコ部屋といわれる土工部屋や、蟹工船に象徴される非人道的な就労、軍国ファシズムの中に中国・朝鮮から強制連行されてきた人々がいた。日本の近代化路線の功罪を凝縮したのが北海道の歴史であったと言えよう。
 
5.北海道の歩みとキリスト教
 以上のような歴史的状況の中でキリスト教の伝道がなされ、教会が生まれ、キリスト者が生きてきた。そのような歴史の中で、キリスト者は、そして教会は、一体、誰を隣人としてきたであろうか。
 キリストに在って生きるとは、イエス・キリストが歴史の本質をご自身に担い給うた方(受肉)と信ずる信仰によって、歴史に深い関わりを持つことである。これは、キリスト論的歴史観ということができる。教会は、活けるキリストを信じ、ただ神の栄光を仰ぎ望むが故にこそ、キリストが受肉し、世を愛してその罪と暗さを身に負い給うた歴史に深い関わりと、責任をもとうとするのである。キリストが指差すその方向を共に視つめるのが歴史的洞察となる。
 
6.キリスト教地方史を考える
 キリスト教史は教会の歴史として把握されなければならないと言われているが、その背景となっている政治史、経済史、思想史的研究の成果を無視することはできない。ことにキリスト教地方史を研究しようとするとき、その社会的・風土的影響を考えずに教会の歴史を見ることは困難である。
 キリシタン時代の迫害によって当時蝦夷地と呼ばれた北海道に逃れ、礼拝を守り、小さな教会をつくったのは、切支丹のもつ固い終末論的信仰と、徳川幕府の徹底した迫害政策、そして松前に新しく発見された金山の採掘が可能にしたものと思われる。和親条約による箱館開港が、カトリックやハリストス正教会の宣教師に門を開き、諸外国の強い非難と外交があって高札が撤去され、プロテスタント宣教師の渡来を容易にした。これらの出来事の背後に神の深いご計画があったことは言うまでもない 。
  すなわち、教会と地域を二つの点として描いた楕円として見る視点が重要であることがわかる。ことに北海道では、アイヌ民族や、自由民権者たち、土工部屋で働いた人々等をキリスト教史との関わりで考えようとするとき、その視座を外しては出来ないことであろう。
 地方にはそこにしかない独自な生活や言語、文化を生み出してきたものがある。それは全体史に組み込まれることによって光を受け、同時にその特質を失うことも避けられない。しかし、やや狭く、微視的でも、その独自性を掘り下げることにより、逆に全体史に新たな光を与えるものとなることであろう。
 北海道キリスト教史においても、それを掘り下げることにより、日本キリスト教史を新たに理解し、チャレンジをもたらすと思われる。

 

7.時期区分
第一期 前 史  〔1617(元和3)年~1857(安政4)年〕
津軽に流されてきた切支丹が迫害を恐れて松前に渡ってきた。アンジェリス 神父渡来。千軒岳、大沢金山等での大殉教。ハリストス正教会イヲサブ司祭の千島伝道。
第二期 開始期  〔1858(安政5)年~1886(明治19)年〕
・ハリストス正教会のマアホフが領事館司祭として箱館に来た年、カトリックジラール神父が箱館に宣教師派遣を決めた年を北海道伝道開始期とみる。プロテスタント史としては、1874(明治7)年のM.C.ハリス(メソジスト)、W.デニング(聖公会)の来道から開始期とすべきであるが、キリスト教史としては、ハリストス正教会の宣教開始まで遡る。
第三期 教会形成期〔1886(明治19)年~1911(明治44)年〕
・開拓伝道の困難期から前進期。教会組織の整備、日本における教会形成。1886年・日本組合基督教会、1887年・日本聖公会、1890年・日本基督教会などが組織される。カトリック教会では函館司教区(1891年)が設置されている。
第四期 協力伝道期〔1901(明治34)年~1932(昭和7)年〕
・1901年に展開された20世紀大挙伝道、1914年からの全国協同伝道、1929年から32年までなされた神の国運動など、北海道でも各派協力伝道が盛んになされた時期である。
第五期 苦難期  〔1931(昭和6)年~1945(昭和20)年〕
・苦難期は、ファシズム化していく国情の中で教会は嵐の中に巻き込まれていく。満州事変、支那事変、太平洋戦争と非常時体制下に協力を強いられ、宗教団体法下の苦悶の歴史が続いた。1941年の宣教師強制退日、42年聖公会やホーリネスへの弾圧、43年の非戦論のため浅見一仙作の拘留、44年反戦主義容疑で小野村牧師逮捕など暗い日々であった。
第六期 戦後発展期〔1946(昭和21)年~〕
・焦土の中から天皇人間宣言、民主主義国家の誕生、平和憲法の制定、信教の自由が保証され、50有余派の教会が北海道伝道するに至った。
 
8.北海道に教会が形成されるパターン
①宣教師の伝道によって生まれた教会:日本伝道の熱意と祈りをもって本国のミッション本部から派遣された宣教師たちによってなされた。長い鎖国と切支丹禁止令の中で邪教観が身にしみている日本での伝道は、開拓者である宣教師の人物にかかっていたという一面がある 。
②開拓者たちによって生まれた教会:北辺の守りと殖産興国の施策によってたくさんの移住者たちが北海道開拓に応じてきた。その中には、キリスト教の信仰によって新理想郷土をつくろうとして入植してきた群れもいくつかあった。彼らは米国のピューリタンにならい、村の中心に教会堂を建て、学校を起こし、聖日厳守、禁酒、賭博禁止など高い倫理的生活を目標とした 。
③移住者たちによって生まれた教会:開拓者のように初めから同じ目的をもって来道した者ではなく、町の発展に伴い、それぞれに移住してきた者がやがて同信の友を見い出し、各家庭を回って集会を持ち励まし合っているうちに生まれた教会である 。
④邦人の伝道者が移住し、あるいは伝道旅行にきて生まれた教会:これは必ずしもそれぞれの教派が伝道計画をもって伝道者を送ったというよりも、他の理由で移住することになったか、個人の熱意によって伝道されたかによる 。
⑤各派の教団や教区(部会・中会)の伝道計画によって生まれた教会:後期にできる教会はほとんどがこの型に属する。教会の発展に伴い、道内にも中会や部会などの組織ができ、まだ教会が設立していない地域での伝道計画も立てられる。多くの場合はこの中会や部会の決議が全国の大会や年会に提案され、しばらくはミッションよりの補助を得て伝道者が送られる 。
 
9.明治期の北海道キリスト教史の特徴
 明治期における北海道キリスト教史の特徴を見る前に、その時期の日本キリスト教史の特徴をまず押さえておきたい。
 明治期における日本キリスト教史は、その初期は超教派を旗印とする公会主義。十年代は自由民権運動キリスト教主義学校の設立、聖書翻訳など。二十年代は天皇制を中心とした国家主義との衝突、新神学による影響、各派形成。三十年代には無教会主義及びキリスト教社会主義の誕生、協力伝道の推進。四十年代には世界教会との交わり、三教会合同などを特徴としてあげることができる。
①北海道では、初期の公会主義はほとんどなかった。公会主義は1876年までで、その後は公会という名で設立される教会はなくなった。その時期に北海道に入っていたプロテスタントは、メソジスト教会聖公会だけであった。道内では1886年に設立された赤心社の浦河教会とバチェラーによるアイヌ公会がある。しかし、アイヌ公会は聖公会に属するという意味での公会であり、公会主義の公会ではない。赤心社においても積極的な意味で公会という名称を用いたわけではなく、指導者たちの出身に由来していただけであった。内容的には札幌独立キリスト教会にみることができる。
②十年代の自由民権運動も北海道ではみられず、同時期に札幌農学校に生まれた俊英な学生キリスト者たちの中にも、その動きはみられない。官立校であったことや民権を支持する社会的基盤がなかったことが考えられるがキリスト教史研究の課題の一つである。
③二十年代になって、土佐民権で挫折した指導者たちが、新しい理想を北海道開拓にたくしてきたときに自由民権運動と関わりを持つようになった。浦臼の武市安哉、北見北光社の坂本直寛、前田駒次、浦臼から移った遠軽の学田農場などの開拓者たちである。加波山事件事件などで集治監に送られた自由民権運動者たちの中には教誨師を通じてキリスト教に触れていく者たちが空知集治監などでかなりみられる 。この時期に同志社で信仰的働きの視野を社会改良にと目を向けさせられた卒業生十余名が、集治監の教誨師として来道し、彼らは激しい情熱をもって教誨の働きと共に伝道にあたっているが、その当時本州では伝道の衰退期であった 。新神学の影響も道内ではあまり見られず、その影響を最も受けていた同志社を中心とする組合教会も、北海道には本格的な伝道はしていなかった。
キリスト教主義学校としてはメソジストの遺愛女学校(1882年)、ハリストスの正教女学校(1884年)、カトリックの聖せい保ほ禄ろ女学校(1886年)、長老教会のスミス女学校(1887年)、聖公会の釧路英和女学校(1889年)、靖和女学校(1889年)、長老教会の静修女学校(1896年)などが建てられ、女子教育の先駆的働きをしている。
⑤北海道には5つの集治監が出来、重罪を犯したものとともに多数の政治犯も送られて来た。その中には自由民権運動で捕らえられた者も多く、集治監の中でキリスト教に触れ、獄中で信仰をもち、筆墨がないために血で聖書に懺悔を書いたものが残されている。
国家主義との衝突は、その偏狭性の故か、1891年の内村鑑三不敬事件を頂点として本州でみられた官憲の迫害や教勢の沈滞はあまり見受けない。もちろん、天皇制を中心としたナショナリズムキリスト教のもつコスモポリタニズムとの緊張関係は続いていくが、北海道は拓殖に急務であったため、思想・宗教を問題視する余裕がなかったと思われる。しかし全くなかったわけではない。1889年の帝国憲法発布記念祝賀行列を拒否した日本基督教会室蘭教会員の小学校教師が学校を追われるという事件があった。また1892年10月に「空知集治監の不敬事件」として東京の絵入自由新聞に報じられたことがある。これは当時集治監典獄となった大井上輝前の教化主義に反対する者たちによる全くの捏造であった。
⑦三十年代には、札幌バンドの内村鑑三による無教会主義の誕生がある。しかし、道内に無教会主義の聖書研究グループができたのは大正時代に入ってからであった。
キリスト教社会主義との関りは片山潜の北海道訪問が1899年にあり、札幌で協働店の設立に尽力している。彼は翌1900年にも来道し、各地で演説し、教会でも礼拝の説教をしている。「日本基督教団旭川六条教会65年史」をみると、1900年7月29日に六条教会で説教をしていることが出ている。彼は1906年頃の社会新聞に「自分は信徒の一人として、日本の教会の牧師・信徒諸君に忠告する。どうか社会主義を研究してもらいたい。もし諸君が注意して社会主義を研究したら、必ず自分の主張に賛成してくれるだろう。それは結局、キリストのために働くことになるのだから」と記しているので、おそらく、この北海道遊説の際の教会での話しでも社会主義について触れていたと思われる。片山の影響を受けた永岡鶴蔵は1897年に院内鉱山(秋田)から同志80名と共に夕張炭鉱に移住し、南助松と知り合って労働者のために力を合わせて働こうと誓い、1902年の春、大日本労働運動がやや衰微した時であったと言われている。彼らはキリスト教精神による社会運動として大日本労働至誠会憲法に次の4つをあげている。
 
1)労働者の品位を高めること
2)独立自営の精神を養うこと
3)勤倹貯蓄を実行すること
4)会員互いに相親しみ相助けること
 
 彼らは夕張だけではなく、道内各地の炭鉱をまわって呼びかけたり、さらには全国に遊説して日本炭坑夫組合をつくろうとしたり、有名な足尾銅山に大日本労働至誠会の支部をつくったりしている。永岡は一方で夕張に講義所を設け伝道にも励んでいる。後に夕張に派遣された小山恒次郎伝道師は社会主義研究会などをつくったりしている。
 協力伝道も北海道の各地で盛んになされた。1900年から20世紀を迎え、各派協力して20世紀大挙伝道が全国的に展開された。北海道でも中央からキリスト教界の名士が多数来道して、聖公会、メソジスト、日本基督教会、組合教会など各地で協力して伝道集会をもった。札幌では1週間連続集会をもち2570人が集まったと報じられている。
⑨四十年代では、三教会同が内務次官の呼びかけで神・仏・基の代表者が一同に会した。「北日本カトリック教会史」には時の内務大臣原敬は青年時代カトリックの信仰をもっていたので陰の力となったことであろうと書いている。これはキリスト教がはじめて公認された事件であるとも言われたが、他方国家主義との対決を避けて妥協した象徴であるとも批判された。しかし、北海道ではほとんど注目された形跡はみられない。
 
10.札幌とキリスト教
 札幌は、日本の多くの都市の中でもキリスト教色の強い町であった。繁華街の近く、大通や北一条通のあまり騒がしくないところに、主要な教会が点在していた。教会のある風景は、市民が見慣れた風景であった。信徒数は住民人口の2~3%というところだったが、信徒でなくても教会の幼稚園に通ったり、日曜学校に出席したことのある市民は多い。音楽会や講演会を聴きに行って、キリスト教会の雰囲気に触れたことのある市民は多かった。キリスト教が市民生活の中によく溶け込んでいたのである。
 クリスチャンだからと言って、爪弾きにされたり変人扱いされるおそれはなかった。しかし、ある時期から、こうした印象は徐々に薄れていく。ある時期というのは、高度成長の初期である1960年頃のことである。札幌の人口は1920年に10万人、1940年に20万人、1960年に52万人、1980年に140万人へと増加している。札幌に市制施行されたのが1922年であるが、戦前においては10万~20万都市、戦後高度成長以前は30万~40万都市であった。札幌という都市の特徴がつかみやすいのは、大体この時期までであって、それ以後の人口の急増と流動化、都市の巨大化は町の特質をわかりにくくしてしまった。現在、200万都市札幌の中では、いったいどこがキリスト教的なのか判断に苦しむところである。
 札幌で最初の教会は、札幌基督教会である。札幌農学校の関係者によって創立された。彼等はクラークによって信仰に導かれた農学校1、2期生が中心であり、札幌バンドと呼ばれる。内村鑑三新渡戸稲造、佐藤昌介、宮部金吾、町村金弥など、これらの名があまりにも著名であり、その印象が強烈なために、札幌のキリスト教は札幌バンドや札幌基督教会の後身である札幌独立基督教会と結びつけて考えられやすい。札幌農学校出身の有島武郎も、農学校の後身である農科大学の教師であり、キリスト教から離れるまでは独立教会の熱心な働き人であった。このことからも、札幌のキリスト教のイメージは、札幌農学校北海道大学+独立基督教会と結びつくことになったと考えられる。
 草創期の問題としては、クラークの伝道だけに目を向けるのではなく、英国教会海外伝道協会(CMS)の伝道活動や、アメリカン・ボード(米国海外伝道会社)の活動や、早くから函館に拠点をもったハリストス正教会カトリック教会にも目を向けなければならない。
 これらの様々な教会教派の影響のもとに、札幌のキリスト教会も展開したのであり、その結果として戦前の札幌にはプロテスタントとしては、札幌日本基督教会(現・日本基督教会札幌北一条教会)、日本メソヂスト札幌教会(現・日本基督教団札幌教会)、札幌組合基督教会(現・日本基督教団札幌北光教会)、札幌聖公会(現・日本聖公会札幌キリスト教会)などの教会が、さらに札幌天主公教会(現・カトリック北一条教会)と、札幌顕栄会堂(現・日本ハリストス正教会教団札幌ハリストス正教会)が併立したのである。これらの教会はそれぞれの個性と立場を守り、ときに協力し合いながら発展してきた。
 札幌が近代的な都市として形態を整えた第一次世界大戦後、札幌の諸教会も、それぞれ市民の記憶に残るような大会堂を持ち、市民生活に溶け込んで、揺るがすことのない地位を確立した。しかし、その後、太平洋戦争の数年前より思想統制が始まり、教会は理不尽な攻撃にさらされ、苦悶の時代となった。
 今日もなお、この受難に教会はどのように対処し、復興を迎えたか、それは、札幌キリスト教会史だけの問題ではなく、北海道のキリスト教会史、また日本のキリスト教会史としても捉え、更に検証し、次代に継承していく責任を私たち現代のキリスト教会は担っているのである。