"しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。
イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。
そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」"
使徒の働き 1章8~11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
キリスト教会は古来、使徒信条を告白し続けて来ました。そこにはキリストが死とよみがえりを通られ、天に上り、再び来られることがはっきりと示されています。
「十字架につけられ、死にて葬られ、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に上り、全能の父の右に坐したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者(死にたる者)とをさばきたまわん」
キリストが天に上り父なる神の右におられる間、地上でキリストのわざを行うのが私たちキリストの弟子たちです。しかし、弟子とは言っても師であり主であるイエス様と同じように生きることが、そのままではできません。
それは私たちはイエス様と離れては何もできないからです。
"わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。"ヨハネの福音書 15章5節
とある通りです。
しかしイエス様はそのような私たちのために聖霊を与えてくださったのです。その聖霊なる神によって、私たちはキリストと一つにされ、留まり、キリストのわざを行うように造り変えられます。
それが神の奥義である教会です。教会は聖霊によりキリストのわざを行いつつ、その教えを、救いを宣べ伝えなければなりません。それは、この地上に神の国を建てるためであり、やがて来られるキリストの支配にある新しい天と地が完成することに繋がっていきます。
弟子たちが言っているイスラエルの再興とは、文字通りのイスラエル国家の回復だけのことですが、イエス様のお答えには、それ以上の完成された神の国、新しいエルサレムをも指しておられるのです。
そのためキリストは、天に上げられたように、再びその有り様で天から降りて来られる。それがキリストの再臨です。
この再臨をキリスト教会は2000年間告白しつづけています。それは、カトリックもプロテスタントもない、一致した真のキリスト教会における真実な告白であり、愛する主の約束だからです。
私たちにとって、この世においては患難があります。しかし、この聖霊によってキリストがともにおられることにより、私たちは孤児ではないのです。同時に、顔と顔を合わせてキリストとの交わりを追い求める者でもあるのです。
今日も私たちのために死なれよみがえられたキリストを愛し、とどまり、キリストを宣べ伝えてまいりましょう。そして、同時に再び来てくださり、私たちを完全な者としてくださる、その時がやがて来ることを待ち望もうではありませんか。