日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

このイエスを、あなたが十字架につけた

"ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々に語りかけた。「ユダヤの皆さん、ならびにエルサレムに住むすべての皆さん、あなたがたにこのことを知っていただきたい。私のことばに耳を傾けていただきたい。
今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが思っているように酔っているのではありません。
これは、預言者ヨエルによって語られたことです。
『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。
また、わたしは上は天に不思議を、下は地にしるしを現れさせる。それは血と火と立ち上る煙。
主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。
しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる。』
イスラエルの皆さん、これらのことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって、あなたがたにこの方を証しされました。それは、あなたがた自身がご承知のことです。
神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。
しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。
ダビデは、この方について次のように言っています。『私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることはありません。
それゆえ、私の心は喜び、私の舌は喜びにあふれます。私の身も、望みの中に住まいます。
あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。
あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前で、私を喜びで満たしてくださいます。』
兄弟たち。父祖ダビデについては、あなたがたに確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日に至るまで私たちの間にあります。
彼は預言者でしたから、自分の子孫の一人を自分の王座に就かせると、神が誓われたことを知っていました。
それで、後のことを予見し、キリストの復活について、『彼はよみに捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない』と語ったのです。
このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。
ダビデが天に上ったのではありません。彼自身こう言っています。『主は、私の主に言われた。あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。
わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。』
ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」"
使徒の働き 2章14~36節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 どの口が言ったの?と突っ込みたくなるのが、このペテロの説教の最後の部分です。だれがイエスを十字架につけたのか。それはパリサイ派ユダヤ人たちであり、その他のユダヤ人たちもそうであり、ローマ総督ピラトもそうであり、イスカリオテ・ユダの裏切りであり、そして三度もイエスを知らないと否定したペテロをはじめとする弟子集団でもあります。

 それから50日しか経っていないにも関わらず、ここでペテロは、説教を聞いているエルサレム中の人たちに、「このイエスを、あなたがたが十字架につけたのです」と言えたのはどうしてでしょうか。

 自分のことを棚に上げて、人のせいにしているのでしょうか。

 いいえ。そうではありません。ペテロは復活のイエス様に会って、今度は三度も「わたしを愛するか」と問われた人物でもあります。その質問に対してペテロは悲しみを覚えるほどに、「それはあなたがご存知です」と答える他ありませんでした。

 ですから自分の至らなさで主イエスを否定して、十字架に追いやったという自覚は人一倍あったはずです。でも、このペンテコステの時に、ペテロは大胆にも、このような罪の指摘をすることができたのは、主の前に悔い改めて、そして、このときに聖霊を受けたからではないでしょうか。

 御霊が、最も罪の意識のあるペテロを用いて、この大切なメッセージを語らせたのです。御霊によらなければ、このようには語れないでしょう。

 

 私たちも、主の前に悔い改めて、主を受け入れるならば聖霊が与えられます。そして、これまでの古い自分にとどまっているのではなく、むしろ聖霊によって新しくされて、新しい言葉を語る者へと造り替えられるのです。それは、新しい人へと生まれ変わったからです。

 私たちも古い自分、古い言葉ではなく、新しい自分、新しい神のことばを語る者へと招かれています。あらためて、その大いなる恵みを味わい、まだ救いを知らない方々に、大胆に福音を告げ悔い改めを迫り、救いへ導いていこうではありませんか。