のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

聖霊を欺く罪

"ところが、アナニアという人は、妻のサッピラとともに土地を売り、
妻も承知のうえで、代金の一部を自分のために取っておき、一部だけを持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
すると、ペテロは言った。「アナニア。なぜあなたはサタンに心を奪われて聖霊を欺き、地所の代金の一部を自分のために取っておいたのか。
売らないでおけば、あなたのものであり、売った後でも、あなたの自由になったではないか。どうして、このようなことを企んだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
このことばを聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。これを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。
若者たちは立ち上がって彼のからだを包み、運び出して葬った。
さて、三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。
ペテロは彼女に言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのか。私に言いなさい。」彼女は「はい、その値段です」と言った。
そこでペテロは彼女に言った。「なぜあなたがたは、心を合わせて主の御霊を試みたのか。見なさい。あなたの夫を葬った人たちの足が戸口まで来ている。彼らがあなたを運び出すことになる。」
すると、即座に彼女はペテロの足もとに倒れて、息絶えた。入って来た若者たちは、彼女が死んでいるのを見て運び出し、夫のそばに葬った。
そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。"
使徒の働き 5章1~11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 エルサレムにおける聖霊降臨後、ペテロの説教によっていきなり三千人もの人々が罪を悔い改め、イエスを信じ弟子とされました。

 そのあとも、その弟子たちが集まって神を礼拝していることで、多くの人たちが救われ、群れに加えられていきました。

 それは全て聖霊なる神のみわざでした。使徒たちも益々、日々聖霊に満たされて、イエスの復活を大胆に、力強く証ししました。

 そのような目覚ましい聖霊の働きが顕著な初代教会にあって、大変悲しい事件が起こったのです。それはせっかくイエス様を信じて主の弟子とされたはずの人たちが、罪を犯したことでいのちを落とすという出来事です。

 罪を犯したことで命をとられるならば、私は既にこの世にいないと思います。ではなぜアナニアとサッピラは死ななければならなかったのでしょうか。

 それは、聖霊を欺いたからだと言えます。

 アナニアとサッピラは、自分の土地を売って得た金を全て主に献金したと言いながら、実は一部を懐に入れていたのです。このことの問題点は、全て献げたと偽ったことです。なぜ偽ったのでしょうか。それは、自分たちが信仰深いということをアピールするためでしょう。

 献金という礼拝行為を利用して、栄光を神に帰すのではなく、自分のためであるところに、この偽りの罪の重さがあります。

 神に献金するとは、神に私自身を献げるということです。それは聖書の促しであり、聖霊の満たしを見える形で表す礼拝です。それは人の目を欺いただけでなく、神を欺いたことなのです。

 それは神を侮る行為です。神がその偽りを見抜けないとでも思ったのでしょうか。それは実は神を全く意識していない不信仰な罪でもあります。

 しかし、それにしても、それで罪を悔い改める機会もなく死ぬというのは恐ろしいですね。それで、教会全体とそれを聞いた全ての人々の間に恐れが生じたのです。

 つまり、それは生まれたばかりの教会、その弟子集団にとっても大きな出来事だったことを聖書は伝えています。

 この出来事はある意味、始まって間もないキリスト教会にとって警告となったことは間違いないことです。神のきよさをあらためて考えさせられることです。神が罪を嫌う聖なる方であることを、思い知らされるのです。

 私たちも、このきよい神様の子どもとされた恵みの意味、その重さを知るべきでしょう。本来ならば、きよい神の前に滅んでもおかしくない存在でありながら、神が与えてくださった御子キリストの十字架の死と復活によって、それを信じることで罪が赦されました。

 その罪は神の御子のいのちを要求するほどに汚れたものだったということでしょう。その恵みの大きさを今朝もう一度覚えたいと思います。

 初代教会の兄弟姉妹は、大変ショッキングな出来事を通して直に神のきよさを思い知らされましたが、それは現代を生きる私たちが同じ失敗をしないための反面教師として用いられました。この教訓はとても重い。

 恵み、赦し、神の憐れみ、神の愛だけを取り上げてきよさを見ないでいる現代教会への警告でもあるのではないでしょうか。確かに罪を悔い改めないままでいるならばさばきがあると強調しすればカルトになる可能性があります。しかし、そもそも罪には本来神のさばきがあることも、神の愛を信じるのと同じように信じなければいけないのです。

 あらためて、きよい神様の救いにあるキリストが受けた十字架の死の意味を覚えてまいりましょう。

 

"神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。"
コリント人への手紙 第二 5章21節


"私たちは神とともに働く者として、あなたがたに勧めます。神の恵みを無駄に受けないようにしてください。"
コリント人への手紙 第二 6章1節

"思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。
自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。"
ガラテヤ人への手紙 6章7~8節

"しかし聖霊を冒瀆する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」"
マルコの福音書 3章29節


"神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。"
ヨハネ福音書 3章16節