のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

知恵と御霊によって

"さて、ステパノは恵みと力に満ち、人々の間で大いなる不思議としるしを行っていた。
ところが、リベルテンと呼ばれる会堂に属する人々、クレネ人、アレクサンドリア人、またキリキアやアジアから来た人々が立ち上がって、ステパノと議論した。
しかし、彼が語るときの知恵と御霊に対抗することはできなかった。
そこで、彼らはある人たちをそそのかして、「私たちは、彼がモーセと神を冒瀆することばを語るのを聞いた」と言わせた。
また、民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、ステパノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。
そして偽りの証人たちを立てて言わせた。「この人は、この聖なる所と律法に逆らうことばを語るのをやめません。
『あのナザレ人イエスは、この聖なる所を壊し、モーセが私たちに伝えた慣習を変える』と彼が言うのを、私たちは聞きました。」
最高法院で席に着いていた人々が、みなステパノに目を注ぐと、彼の顔は御使いの顔のように見えた。"
使徒の働き 6章8~15節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 エルサレム教会で執事に選ばれたステパノは、教会の中だけでなく、普段の生活にもクリスチャンとしての生き方の模範があります。

 彼は知恵と御霊によって歩んでいたので、イエス・キリストについての議論も誰も彼を論破することはできませんでした。しかし、このことがステパノの殉教に繋がっていくのは、大変皮肉なことにも見えます。

 しかし、イエスを信じて神に仕える者とされた私たちクリスチャンは、死ぬことがイコール不幸ではありません。むしろ、神の完成した祝福への入り口であり、古来の信仰者たちが憧れていた場所への帰還です。

 いずれにしても、今朝はステパノが知恵と御霊によって生きていたことに注目しましょう。それこそが、私たちにとっての模範であり、たとえその生き方によって迫害を受けたとしても、決して不幸ではない、神の祝福を誰よりも先行して与えられる光栄に預かるのです。

 また、この知恵と御霊によるイエス・キリストの弁証は、いかなる人間的な議論にも優ることも覚えたいと思います。私たち人間は神について、キリストについて、自分の経験や先入観によって考察するため、正しく理解できない弱さ、また罪の影響を受けています。

 たとえば自由主義とか、また平和主義とか、一見素晴らしい追求と見えるイデオロギーを前提に神を論じようとして、聖書が伝えている真理をも、その誤った前提が、神が伝えている福音、真理さえも複雑にし、多くの人にとって永遠のいのちに関わる大切な教えも、理解しにくいものにしています。イデオロギーヒューマニズムが神からの知恵と御霊の働きを妨害しているのです。

 特にキリストの十字架の死については、神による御子への刑罰であるという側面を否定したいがために、神の私たちに対する救済の恵み、御子を身代わりにするほどの私たちの罪深さの理解から遠ざけています。

 それは神による刑罰はありえないという誤った前提に束縛されているからです。

 神はイエスの死を信じる私たちに対して、ご自分と和解させるため、つまり関係を修復する手段として、十字架刑を用いられ、きよい神の小羊の血潮を流すことによる罪のきよめと同時に、本来罪人である私たちに対する神の怒りと刑罰を御子に負わせることによる罪の贖いを成し遂げられたのです。

 十字架刑はユダヤ人指導者たちによる妬みによる冤罪の死でもあります。そこには死に至るまで神に誠実であった信仰者の模範もあります。しかし、この十字架の死において最も大切な役割は、神と人間の間に横たわっている罪の呪いを解決することです。だから、神は呪いのしるしである十字架をご自分の恵みの中に取り込み、人類救済の手段ともされた。その神による十字架の贖いには、罪をきよめるための神の小羊として血を流す必要と、刑罰として罪人の代わりにさばかれる審判の意味があるという神の知恵であり、御霊の業であるのです。

 

 神ご自身が、ご自分の知恵と御霊によって、イエスの十字架の贖いを為してくださったのです。そこに人間的な知恵や神への先入観を前提にした議論は相応しくありません。

 神が御子を犠牲にするほどに与えてくださった福音を単純に純粋に信じて、まだ知らない方々に宣べ伝えてまいりましょう。大切なことは、神が与えてくださった福音の恵みをそのまま信じて、そのまま伝えていくことです。

 

"イエスガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。"
マタイの福音書 4章23節


"キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるためでした。これはキリストの十字架が空しくならないようにするためです。
十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。"
コリント人への手紙 第一 1章17~18節