のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

サウルの死

"このように、サウルは主の信頼を裏切った不信の罪のゆえに死んだ。彼は主のことばを守らず、霊媒に伺いを立てることまでして、
主に尋ねることをしなかった。そのため、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された。"
歴代誌 第一 10章13~14節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 イスラエル王国最初の王であるサウルは、敵ペリシテ軍によって討ち取られた。正確に言うと打たれる前に自分で死を選んだのである。

 サウルが王に選ばれた時は、ハンサムであったことや、背が高かったことなど、王としての見栄えは良かったと言える。しかし、彼は非常に謙遜な人で、決して不信仰な人でもなかった。

 しかし、王に選ばれてから、それまでは謙遜に見えていたサウルが、その本質を見抜かれていく。それは、神のことばに忠実かどうかである。

 ところが、彼は預言者サムエルの期待を裏切る。王の分を超えて、犠牲の生贄をささげる事件が起こる。サウルの言い分は、サムエルが来るのが遅かったことや、敵が迫っているなど時間がないと思われる中で、サウルはサムエルの言ったことを待ち切れずに自分でいけにえをささげてしまったのである。

 これは明らかに越権行為であり、自分の分を弁えていないという表れだった。それは同時に神を軽んじたと言うことでもある。

 このようにサウルは神の前に罪を犯したのである。しかも、その罪を犯した場面で、民たちの前に、自分の面目を立てるようにサムエルに願ったのである。

 今日のこのサウルの最期は、その罪の結果であると言うことである。

 私たちも、やはり、あらためて、どんなときにも神のことばに尋ね求めて、従順に従い、行う者でありたい。サウルの最期はその歩み方を象徴していた。

 私たちも、普段どのように生きているかが問われる。誰でも必ず死を迎える時が来る。しかし、どう生きてきたかで、その死の意味も変わってくるのではないだろうか。

 そうであるなら、なおさら主のみことばに忠実にありたい。主のみことばに対して謙る者でありたい。最期まで主を愛する者でありたい。