のりさん牧師のブログ

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祭司の組み分けをするダビデ

歴代誌 第一 24章
1,アロンの子らの組分け。アロンの息子は、ナダブ、アビフ、エルアザル、イタマル。
2,ナダブとアビフは父に先立って死に、彼らには子がいなかったので、エルアザルとイタマルが祭司の務めに就いた。
3,ダビデは、エルアザルの子孫の一人ツァドク、およびイタマルの子孫の一人アヒメレクと協力して、アロンの子らをそれぞれの奉仕に任命し、それぞれの組に分けた。
4,エルアザルの子孫のほうが、イタマルの子孫よりも一族のかしらが多かったので、エルアザルの子孫は、父祖の家のかしらごとに十六組に、イタマルの子孫は、父祖の家ごとに八組に分けられた。
5,彼らはみな同じようにくじを引いて、それぞれの組に分かれた。聖所の組の長たち、神の組の長たちは、エルアザルの子孫の中にも、イタマルの子孫の中にもいたからである。
6,レビ人の出である書記、ネタンエルの子シェマヤが、王と首長たち、祭司ツァドク、エブヤタルの子アヒメレク、祭司とレビ人の一族のかしらたちの前で、それらを書き記した。エルアザルから一つの父祖の家が選ばれると、イタマルからも一つ選ばれた。
7,第一のくじは、エホヤリブに当たった。第二はエダヤに、
8,第三はハリムに、第四はセオリムに、
9,第五はマルキヤに、第六はミヤミンに、
10,第七はハ・コツに、第八はアビヤに、
11,第九はヨシュアに、第十はシェカンヤに、
12,第十一はエルヤシブに、第十二はヤキムに、
13,第十三はフパに、第十四はエシェブアブに、
14,第十五はビルガに、第十六はイメルに、
15,第十七はヘジルに、第十八はハ・ピツェツに、
16,第十九はペタフヤに、第二十はエヘズケルに、
17,第二十一はヤキンに、第二十二はガムルに、
18,第二十三はデラヤに、第二十四はマアズヤに当たった。
19,これらが主の宮に入って奉仕するために登録された者たちで、彼らの先祖アロンが、イスラエルの神、主の命令にしたがって定めたとおりである。
20,残りのレビ族については、次のとおりである。アムラムの子孫ではシュバエル。シュバエルの子ではエフデヤ。
21,レハブヤについて。レハブヤの子では、そのかしらイシヤ。
22,イツハル人では、シェロミテ。シェロミテの子ではヤハテ。
23,ヘブロンの子は、そのかしらがエリヤ、第二はアマルヤ、第三はヤハジエル、第四はエカムアム。
24,ウジエルの子孫はミカ。ミカの子ではシャミル。
25,ミカの兄弟はイシヤ。イシヤの子ではゼカリヤ。
26,メラリの子はマフリとムシ。彼の子ヤアジヤの子孫、
27,すなわち、メラリの子孫で、彼の子ヤアジヤから出た者は、ショハム、ザクル、イブリ。
28,マフリからは、エルアザル。彼には子がいなかった。
29,キシュからは、キシュの子孫のエラフメエル。
30,ムシの子は、マフリ、エデル、エリモテ。これが、それぞれその父祖の家に属するレビの子孫である。
31,彼らもまた、彼らの同族であるアロンの子らと全く同じように、ダビデ王、ツァドク、アヒメレク、祭司とレビ人の一族のかしらたちの前で、くじを引いた。一族では、かしらもその弟と全く同じであった。

 

 ダビデは神殿建設そのものを行うことは主から禁止されましたが、その準備は許されたようです。これまでも使う木材などだけでなく、いつでも礼拝ができるように、レビ人たちをあらためて、神殿に仕える人々として聖別しました。

 

 そして、今度はその礼拝を司る祭司を、律法と伝統に従ってアロンの子孫から選びます。それをエルアザルの子孫たちを16組に、イタマルの子孫たちを8組に分けて、礼拝が滞らずに続けていけるように組み分けたのです。

 

 このように、礼拝奉仕者たちをもダビデイスラエルの王として整えたと言えるでしょう。神殿建設の準備だけでなく、それが完成したあとの礼拝のことまでもダビデは手がけ、イスラエル王国がいつまでも主だけを信じて、主だけを礼拝していけるように、その努力を惜しまなかったのです。

 神様はかつてダビデに契約を与えました。それはダビデから出る子孫によってとこしえに王国が治められるという祝福の契約でした。

 主によってとこしえに続くという祝福をダビデは、自らも最善を尽くして、とこしえに主を礼拝する王国として整えようとした。ここに、私たちキリストを王とする御国へ入れられた者としての模範があるのではないでしょうか。

 

 私たちは、神の一方的な恵みによって救われて礼拝する者にされました。それはそのまま受け取るだけで十分です。そのままで永遠のいのちが与えられ、天国へも入れるでしょう。しかし、それだけではなく、そこで永遠に主を礼拝するための備えをしていくことの大切さをダビデを通して学ぶのです。

 

 それは、この世における礼拝を大切にしていくことこそ、これから来ようとしている新しい天と地における礼拝のための備えになるのではないでしょうか。

 それが教会にとって最高の務めであり、存在意義でもあるのです。まだ完成しておらず、まだ救われるべき人が多くいるこの世にあって、私たちクリスチャンは今ここでできる最善を尽くして、神を礼拝し、神に仕え、主に仕える祭司として備える。

 それが私たちの存在意義です。この地上にあって、それぞれ置かれた場所で、神の祭司としてなかなか自覚持てないかも知れません。しかし、今日、主はこのダビデによって整えられた祭司の組み分けを通して、礼拝に備えることの大切さを教えてくださいました。

 

 私たちもまずは次週の礼拝を覚えて、次の礼拝が最高のものをささげる最高の

礼拝となるように祈りましょう。そして、礼拝に仕える者としてその力も心もからだも最善を尽くして、ささげてまいろうではありませんか。