のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

神の権威の価値

"エルサレムにいる使徒たちは、サマリアの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところに遣わした。
二人は下って行って、彼らが聖霊を受けるように祈った。
彼らは主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだ、彼らのうちのだれにも下っていなかったからであった。
そこで二人が彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。
シモンは、使徒たちが手を置くことで御霊が与えられるのを見て、使徒たちのところに金を持って来て、
「私が手を置く者がだれでも聖霊を受けられるように、その権威を私にも下さい」と言った。
しかし、ペテロは彼に言った。「おまえの金は、おまえとともに滅びるがよい。おまえが金で神の賜物を手に入れようと思っているからだ。
おまえは、このことに何の関係もないし、あずかることもできない。おまえの心が神の前に正しくないからだ。
だから、この悪事を悔い改めて、主に祈れ。もしかしたら、心に抱いた思いが赦されるかもしれない。
おまえが苦い悪意と、不義の束縛の中にいることが、私には見えるのだ。」
シモンは答えた。「あなたがたが言ったことが何一つ私の身に起こらないように、私のために主に祈ってください。」
こうして、使徒たちは証しをし、主のことばを語った後、エルサレムに戻って行った。彼らはサマリア人の多くの村で福音を宣べ伝えた。"
使徒の働き 8章14~25節

 魔術師シモンは、ペテロとヨハネが祈ると人々に聖霊が与えられることを見て、自分にも、その権威が与えられることを望みました。

 

 そこまでは良いでしょう。しかし、ここでシモンは大きな間違いを犯してしまいます。それは、神の権威を金で買えると思ったことです。これは、単なる間違いでは済まないことでした。

 

 ペテロはこの罪に対してとても重い言葉を告げます。それは、悔い改めて祈るならば赦されるかも知れないという、裏を返せば、悔い改めても赦されないかも知れないということです。

 

 聖書は、罪を告白して悔い改めるならば、神はどんな罪でも赦してくださると言います。しかし、赦されるかどうか、はっきり言えない罪があるというのです。

 

 それは主イエスが言われた聖霊を汚す罪と等しいということでしょう。聖霊の働き、その権威を軽く見ること。しかも、何でも金で解決しようとする、実に物質的な価値観から抜け出せない思考回路。

 

 聖霊の働きを冒涜したその発想は、やはり聖霊を汚すものであったのです。しかし、悔い改めれば赦されるかも知れないということをペテロは強調しています。それは、魔術師シモンが自分でどれほどの冒涜を神の前にしたのかすら分からなかったからでしょう。

 知って犯した罪と知らずに犯した罪では、その罪の責任において、扱いは変わってくるからです。

 

 私たちも毎日罪を犯して生きているような者です。だれも、このシモンのことを笑えないし、一方的に断罪できないと思います。だからこそ、毎日、主の前に罪の精算をして、悔い改めて祈る時が必要です。

 必ず知らないで犯している罪があり、また知って犯している罪もあるはずだからです。そのことを、いつも意識して神の前に出ましょう。隠さず全てを主に委ねて、心からの罪の告白と悔い改めをさせていただきましょう。

 そうすれば、主イエスの血は全ての罪から私たちをきよめるとのみことばのとおりに、あなたの罪は主イエスの十字架で流された血潮にある神の権威において赦されるのです。

 その権威の価値は決してはかることのできない聖なる神そのものだからです。

 

"私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。
もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。
もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。
もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。"
ヨハネの手紙 第一 1章5~10節


"私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。
この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。"
ヨハネの手紙 第一 2章1~2節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会