のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

使徒パウロの説教①「出エジプトからバプテスマのヨハネまで」

使徒の働き 13章13~25節

"パウロの一行は、パポスから船出してパンフィリアのペルゲに渡ったが、ヨハネは一行から離れて、エルサレムに帰ってしまった。
二人はペルゲから進んで、ピシディアのアンティオキアにやって来た。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。
律法と預言者たちの書の朗読があった後、会堂司たちは彼らのところに人を行かせて、こう言った。「兄弟たち。あなたがたに、この人たちのために何か奨励のことばがあれば、お話しください。」
そこでパウロが立ち上がり、手振りで静かにさせてから言った。「イスラエル人の皆さん、ならびに神を恐れる方々、聞いてください。
この民イスラエルの神は、私たちの父祖たちを選び、民がエジプトの地に滞在していた間にこれを強大にし、御腕を高く上げて、彼らをその地から導き出してくださいました。
そして約四十年の間、荒野で彼らを耐え忍ばれ、
カナンの地で七つの異邦の民を滅ぼした後、その地を彼らに相続財産として与えられました。
約四百五十年の間のことでした。その後、預言者サムエルの時まで、神はさばきつかさたちを与えられました。
それから彼らが王を求めたので、神は彼らにベニヤミン族の人、キシュの子サウルを四十年間与えられました。
そしてサウルを退けた後、神は彼らのために王としてダビデを立て、彼について証しして言われました。『わたしは、エッサイの子ダビデを見出した。彼はわたしの心にかなった者で、わたしが望むことをすべて成し遂げる。』
神は約束にしたがって、このダビデの子孫から、イスラエルに救い主イエスを送ってくださいました。
この方が来られる前に、ヨハネイスラエルのすべての民に、悔い改めのバプテスマをあらかじめ宣べ伝えました。
ヨハネは、その生涯を終えようとしたとき、こう言いました。『あなたがたは、私をだれだと思っているのですか。私はその方ではありません。見なさい。その方は私の後から来られます。私には、その方の足の履き物のひもを解く値打ちもありません。』"

 パウロバルナバは、ピシディアのアンティオキアに来ました。途中まで一緒にいたヨハネ(マルコ)は、エルサレムに戻りました。ホームシックになったと言われていますが、このことがパウロにとって後々まで尾を引くことになります。

 さて、このアンティオキアは、シリアのアンティオキア、つまりパウロバルナバを送り出したアンティオキア教会があるアンティオキアとは違うことを、記者ルカは「ピシディアの」と書くことで区別しています。

 ここは、小アジアと言われる外国の町ですが、ここにもユダヤ教の会堂がありました。パウロバルナバユダヤ教徒として、そこで礼拝するために入ったのです。

 その礼拝を導く会堂司は、おそらく新顔が入って来たので、聖書の朗読が終わってから説教を依頼してきたのでしょう。そこでパウロが語り始めます。

 今日の箇所は、序論です。イスラエルの歴史を振り返っています。これは、この会堂に来ている他のユダヤ人たちも知っていることであり、共通の話題と言えるでしょう。導入としては最適です。

 しかし、端的に話すためにアブラハムからではなく、出エジプトからです。そして、ダビデへの神様の約束。つまりダビデ契約のことに触れて、そのダビデの子孫として生まれたのがイエスであるというところまで語り、イエスというお方が、パウロバルナバだけでなく、イスラエル全体、そして、この会堂に集う一人ひとりにも繋がっていると語ります。

 そして、誰もが知っている彼らの時代の有名人であり預言者であったバプテスマのヨハネが、このイエスをどのように扱ったか。どのようにリスペクトしていたか。どのように指し示していたか、を語り、この会堂に入ってきた新顔の自分たちだけではなく、ユダヤ教徒ならば誰もが尊敬しているヨハネ先生のイエスについての証言を紹介して、説教の導入としたのです。

 

 私たちも人々に、福音を語るとき、このパウロの説教は良いお手本となるでしょう。

 それはまず、そこにいる人たちの共通の出来事を語る。聞く人たちが、「そうそう」と思える話題を語る。そうすることで、人々の心の畑が耕されていきます。その心の土がフカフカにされていくのです。

 その中から、語るべき本題であるイエス・キリストを紹介しますが、それも唐突に持ち出すのではなく、この場面ではユダヤ人の歴史から始まり、そこに著名な人であるバプテスマのヨハネの証言も借りて、徐々にキリストにフォーカスしていくのです。

 今日は日曜日です。主の日です。私たちは主を礼拝します。そこで説教をききます。その説教もこのパウロと同じように序論があって、私たちのこころを耕すことでしょう。心の畑がフカフカにされるでしょう。

 ぜひ、そのことをみことばを聞く者としても意識してみてはいかがでしょうか。何にも準備もなく、何を語るのか、という気持ちで聞くのではなく、そこに礼拝者として備えを持って聴くということです。日本語で言うならば「聴く」のであって「聞く」のではないと言うことです。

 話されているみことばを単に音として耳に入れるのではなく、心を尽くし、知性を尽くして受け止めるのです。それは、耳だけの仕事にしないで、心も頭も全身を使って聴こうとすることです。

 その取り組みを導入と言います。ぜひ、今日の礼拝が受けるだけのもので終わらず、献げるものとなりますように。礼拝を受けるのは神様です。私たちは自分の最善をもって献身する。それが礼拝です。

 一見、聞くという時間である説教のときも、それは受けるのではなく、ささげることを信仰をもって意識しましょう。

 今日のあなたの礼拝が、祝されますように。心からお祈りいたします。

 

"ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。"
ローマ人への手紙 12章1節
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