のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

バルナバをゼウス、パウロをヘルメスと呼び

使徒の働き 14章1~18節

"イコニオンでも、同じことが起こった。二人がユダヤ人の会堂に入って話をすると、ユダヤ人もギリシア人も大勢の人々が信じた。
ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人たちを扇動して、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。
それでも、二人は長く滞在し、主によって大胆に語った。主は彼らの手によってしるしと不思議を行わせ、その恵みのことばを証しされた。
すると、町の人々は二派に分かれ、一方はユダヤ人の側に、もう一方は使徒たちの側についた。
異邦人とユダヤ人が彼らの指導者たちと一緒になり、二人を辱めて石打ちにしようと企てたとき、
二人はそれを知って、リカオニアの町であるリステラとデルベ、およびその付近の地方に難を避け、
そこで福音の宣教を続けた。
さてリステラで、足の不自由な人が座っていた。彼は生まれつき足が動かず、これまで一度も歩いたことがなかった。
彼はパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼をじっと見つめ、癒やされるにふさわしい信仰があるのを見て、
大声で「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は飛び上がり、歩き出した。
群衆はパウロが行ったことを見て、声を張り上げ、リカオニア語で「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになった」と言った。
そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人だったことから、パウロをヘルメスと呼んだ。
すると、町の入り口にあるゼウス神殿の祭司が、雄牛数頭と花輪を門のところに持って来て、群衆と一緒にいけにえを献げようとした。
これを聞いた使徒たち、バルナバパウロは、衣を裂いて群衆の中に飛び込んで行き、叫んだ。
「皆さん、どうしてこんなことをするのですか。私たちもあなたがたと同じ人間です。そして、あなたがたがこのような空しいことから離れて、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えているのです。
神は、過ぎ去った時代には、あらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むままにしておられました。
それでも、ご自分を証ししないでおられたのではありません。あなたがたに天からの雨と実りの季節を与え、食物と喜びであなたがたの心を満たすなど、恵みを施しておられたのです。」
こう言って二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げるのを、かろうじてやめさせた。"

 パウロバルナバの福音宣教は続けられて、ユダヤ人にも異邦人にも信じる人が起こされていきましたが、他方、反発する人もいました。

 この人々の反応の図式は、現在でもよくある聴衆の姿です。

 

 またパウロバルナバは、そのような福音宣教の中で稀有な出来事にも遭遇しました。それは、神々の降臨と思われ礼拝の対象にされかかったことです。

 パウロバルナバは、自分たちも同じ人間だと叫ばねばならないほど、その人々は大きな勘違いをしたのです。とりあえず、かろうじてやめさせられたことは良かったと思います。

 しかし、「かろうじて」とあるように、使徒たちに対する彼らの思いが完全に拭い去られたわけではないと言うことです。

 このような出来事は、現在ではいかがでしょうか。現在では使徒はいませんが、牧師や宣教師などの伝道者がそれに該当すると思います。

 そのような人々に対して神扱いすることはないでしょうか。牛を捧げようとすることはないにしても、必要以上にその存在に対して偶像化することはあるのではないでしょうか。

 それは単に尊敬している枠を超えて崇拝するような、その人を教祖化することはないか注意しなければなりません。

 往々にしてあるのは、教会の開拓で活躍された宣教師によって導かれた人たちの中に、キリストの福音ではなく宣教師の人柄とか、一緒にいて楽しいとか、そのような基準で洗礼を受けているパターンです。

 しかし、本人は気づいていません。自分が宣教師に感化されて、その素晴らしい人柄、惹きつけるカリスマ性で福音を信じていると勘違いをしていることを。

 これはキリストを信じているのではなく人を信じているのです。

 だから、その後、日本人牧師へとバトンタッチしてから、語られる説教やみことばへの姿勢等ではなく、単に素晴らしい宣教師と比較して、そのような色眼鏡でしか見ないために、牧会を引き継いだ牧師を批難して宣教師を懐かしむのです。

 同じように、日本人牧師をうまく受け入れられたとしても、今度はその牧師から洗礼を受けた人が、必要以上にその牧師についてしまう分派主義に陥ることもあります。

 自分はイエス様に仕えるように牧師に仕えているという感覚かも知れませんが、どんなときも牧師の腰巾着になって、牧師が間違ったことを言っても、そのことばを持ち上げて、牧師を教祖化するのです。

 それはまさにこのときのパウロバルナバを拝もうとした人々と同じです。

 今日はこのことを心に刻みたいと思います。説教者、牧師、宣教師、牧会リーダー、キリスト教宣教団体主事、神学校の教師講師等、周りには魅力的なキリストの奉仕者がたくさんいます。

 当然、私たちは人間ですので、人間の影響を受けることは避けられません。特に教えていただく立場と教える立場という関係性の中で、教えてもらう相手をリスペクトすることは当たり前でしょう。

 しかし、だからこそいつも自分自身をチェックしなければならないのです。その人をキリストと並べていないか。聖書のみことばが素晴らしいはずなのに、その先生の話すこと、することを殊更に褒めちぎり、虜になっていないか。

 また最近では動画配信している牧師が多くいますが、このようなコロナ禍で日曜日に教会に集まれないことが多くある中で、自分好みの説教動画を選んでいないか。自分好みの礼拝を選んでいないか考えてみましょう。

 確かにお話が上手で、色々な話題と絡めて面白いお話をされる方々の動画は、私も面白いと思って見ることがあります。でも、礼拝を自分の所属教会がありながらそちらに行くこともせず、その動画配信も見ずに、それらの他の配信によって自分を満たしているならば、それは主の前にどうなのか吟味が必要です。

 正しいことをしていると思っているうちは気づきませんが、一度立ち止まってあらためて自分自身の立ち位置を確認した方が良いでしょう。

 パウロバルナバもかろうじて偶像化をやめさせました。そのくらい、偶像化している側の人たちは自分ではきづかないのです。

 私たちは今日、みことばによって教えられていますので、このみことばを今日、心に置いて歩んでまいりましょう。何よりも崇めるべきお方は私たちのためにご自身をささげられた主であることを覚えつつ、主への思いを益々溢れさせて、主を賛美する者として歩んでまいりましょう。

 

"あなたがたはそれぞれ、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」と言っているとのことです。
キリストが分割されたのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。"
コリント人への手紙 第一 1章12~13節


"キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるためでした。これはキリストの十字架が空しくならないようにするためです。"
コリント人への手紙 第一 1章17節


"しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。
「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。"
コリント人への手紙 第一 1章30~31節
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