のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

同じみことばを聞いても、その受け取り方の違いがあるが…

 

使徒の働き 17章16~34節

"さて、パウロアテネで二人を待っていたが、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを覚えた。


それでパウロは、会堂ではユダヤ人たちや神を敬う人たちと論じ、広場ではそこに居合わせた人たちと毎日論じ合った。
エピクロス派とストア派の哲学者たちも何人か、パウロと議論していたが、ある者たちは「このおしゃべりは、何が言いたいのか」と言い、ほかの者たちは「彼は他国の神々の宣伝者のようだ」と言った。パウロが、イエスと復活を宣べ伝えていたからである。


そこで彼らは、パウロをアレオパゴスに連れて行き、こう言った。

「あなたが語っているその新しい教えがどんなものか、知ることができるでしょうか。私たちには耳慣れないことを聞かせてくださるので、それがいったいどんなことなのか、知りたいのです。」


アテネ人も、そこに滞在する他国人もみな、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。


パウロは、アレオパゴスの中央に立って言った。

 

アテネの人たち。あなたがたは、あらゆる点で宗教心にあつい方々だと、私は見ております。道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られていない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけたからです。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを教えましょう。この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で造られた宮にお住みにはなりません。また、何かが足りないかのように、人の手によって仕えられる必要もありません。神ご自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられるのですから。神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。
それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。『私たちは神の中に生き、動き、存在している』のです。あなたがたのうちのある詩人たちも、『私たちもまた、その子孫である』と言ったとおりです。そのように私たちは神の子孫ですから、神である方を金や銀や石、人間の技術や考えで造ったものと同じであると、考えるべきではありません。神はそのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は日を定めて、お立てになった一人の方により、義をもってこの世界をさばこうとしておられるからです。神はこの方を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人にお与えになったのです。」


死者の復活のことを聞くと、ある人たちはあざ笑ったが、ほかの人たちは「そのことについては、もう一度聞くことにしよう」と言った。


こうして、パウロは彼らの中から出て行った。


ある人々は彼につき従い、信仰に入った。その中には、アレオパゴスの裁判官ディオヌシオ、ダマリスという名の女の人、そのほかの人たちもいた。"

 ユダヤ人の会堂でもそうでありましたが、このギリシャ人たちの前でも、同じような現象が見られました。

 

 それはパウロを通して語られる、同じみことばを聞いたのに、あざ笑う人、また聞くことにすると言った人、信じる人がいたというところからわかることです。

 

 この場合、パウロの説教は福音メッセージであり、聞く人たちも、初めて会った未信者です。つまり、語る側は、キリストを信じてほしくて伝えているのですが、聞く側は、何を語るのだろうかという興味や関心があったとしても、特に説教者への尊敬や愛はありません。

 

 ですから、聞いたことに対しての態度がそれぞれ違うということは、やむを得ないことでしょう。それは、ユダヤ人たちの会堂でもそうです。

 しかし、ユダヤ人たちの会堂とこのアレオパゴスとの違いは、ユダヤ人の会堂は神を礼拝するところで、アレオパゴスはギリシャの議会のような、議論するところだったということです。

 つまり、そこにいる人の目的が違うのです。

 

 これは、私たちが伝道のために、路傍で語るか、礼拝のために教会で語るかという違いと同じです。そうすると、聴く側の態度としては、やはり説教者への尊敬や、そこで語られる神の御心を知ろうとする信仰が必要になります。

 

 その違いはとても重要です。というのは、私たちは人の話を善意で聞くか、悪意をもって聞くかで、全く聞こえ方が変わるからです。

 たとえば、菅首相に対して参加をもって記者会見を聞いている人ならば、その説明に対して、わかりやすいと表現するかもしれません。

 でも菅首相のことが嫌いだ、または信頼できない人が聞いたならば、何を言っているのかわからないと言うでしょう。

 実は、これは神様のみことばに対しても同じで、聖書を読んで、理解しにくいところがあった場合、神を愛している人は、分からないけれども、そこを善意で受けとり、決して神様の御心に反するような受け取り方をしないはずです。しかし、神を愛していない人が読んだ場合は、神への尊敬も愛もないわけですから、自分に都合の良いように、自分の理解の中で勝手に解釈することを何とも思わないでするのではないでしょうか。

 つまり、聞く側の、語り手への思い、尊敬、愛が問われるのです。

 

 今日の箇所の場合は、ある意味、聴く側が未信者ですから、その態度がまちまちであり、パウロに対する不遜な態度も許されるでしょう。しかし、もし神を礼拝すると言いながら説教者の語るみことばに対して、へりくだることをしないならば、その責任は問われなければなりません。

 

 礼拝とは説教者から会衆へのサービスではありません。あくまで神へのサービスであり、会衆もまた、みことばに対してへりくだって聴くという神へのサービスが必要なのです。

 礼拝は受けるものではありません。ささげるものです。それも神様へ。

 

 ですから説教者は、自分でも足りない者であることを認めつつ、神の前に静まってみとこばの備えをし、語るときも神から聴く思いで語るのです。しかし、そこには聴く側の礼拝者たちの助けも必要とします。

 説教者が極力、わかりやすい言葉で、理解しやすいスピードで、眠くならないように冗談も言うかも知れませんが、それは聴衆へ神のみことばが届くための助けです。同じように、聴衆も(ここでは信者のこと)、説教者が語りやすいように、顔を上げるとか、うなずくとか、そして、善意をもって聞き取ろうとする、説教者への助けが必要なのです。

 

 あなたは、いかがでしょうか。礼拝を受けていませんか。サービスしてもらおうとしていませんか。もし、あなたがクリスチャンであるならば、ぜひ、神様にささげる礼拝を目指してください。そして、語る説教者のことばへも尊敬と愛をもって臨んでください。それが、礼拝者としてみことばを聞く姿勢です。

 明日は日曜日です。ぜひ、あなたの教会で語る牧師の助けになってあげてください。それによって、牧師もあなたへ尊敬と愛をもって語るそのことばが生きたものとなるはずです。

 互いにキリストのことばを住まわせて、互いに語り合い、互いに助け合って、一つの礼拝をささげましょう。

 

"キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。
キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。"
コロサイ人への手紙 3章15~16節