のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

2021年8月22日 礼拝

説教題 「霊の目が開かれるとき」
聖書箇所 創世記28章1節~9節
 

"1 イサクはヤコブを呼び寄せ、彼を祝福し、そして彼に命じた。「カナンの娘たちの中から妻を迎えてはならない。
2 さあ立って、パダン・アラムの、おまえの母の父ベトエルの家に行き、そこで母の兄ラバンの娘たちの中から妻を迎えなさい。
3 全能の神がおまえを祝福し、多くの子を与え、おまえを増やしてくださるように。そして、おまえが多くの民の群れとなるように。
4 神はアブラハムの祝福をおまえに、すなわち、おまえと、おまえとともにいるおまえの子孫に与え、神がアブラハムに下さった地、おまえが今寄留しているこの地を継がせてくださるように。」
5 こうしてイサクはヤコブを送り出した。彼はパダン・アラムの、ラバンのところに行った。ヤコブエサウの母リベカの兄、アラム人ベトエルの子ラバンのところである。
6 エサウは、イサクがヤコブを祝福したこと、またパダン・アラムから妻を迎えるために彼を送り出したことを知った。7 イサクが、ヤコブを祝福して送り出したときに、カナンの娘たちから妻を迎えてはならないと命じ、
8 ヤコブが、父と母の言うことに聞き従って、パダン・アラムへ行ったことも。
さらにエサウは、カナンの娘たちを、父イサクが気に入っていないことを知った。
9 それでエサウはイシュマエルのところに行き、今いる妻たちのほかに、アブラハムの子イシュマエルの娘で、ネバヨテの妹マハラテを妻として迎えた。"



 これまで創世記27章から四回に分けてご一緒にみことばを聴いてまいりました。その中心的なテーマは「ヤコブへの祝福」だと言っても良いでしょう。それが神様の御心でした。しかし、その手続きに問題がありました。それは祝福を受けるヤコブが父親と兄を騙すということです。そして、騙された父イサク、エサウにも、またヤコブにつく母リベカにも、それぞれ問題があったことが浮き彫りにされました。
 
 そもそも、アブラハムから生まれた子どものうちイシュマエルではなくイサクが選ばれ、イサクから生まれたエサウではなくヤコブに絞られていく。そこからイスラエル民族、その2000年後にイエス・キリストに向かって行く。その一族の歩みは、まさに私たちの聖化の歩みと重なります。
 
 私たちも、イエス様を信じて神の子どもとして歩んでいく中で、最終的にイエス様に似た者へと造り変えられていきます。それが完成された姿です。ですから、そこに今の私たちは向かっている。それは、まさにこのイサク一家が、きよめられていく姿と同じなのです。
 
 不信仰が明らかにされ、罪が指摘され、汚れた性格、薄汚れた性質が、神のきよさに向かって造り変えられていく。だから、争いを避けながら井戸を掘って、信仰深かったはずのイサクの霊性の低さがあえて指摘されてきました。またリベカも、かつて信仰によってイサクと結ばれ、その後も夫婦仲が良いおしどり夫婦でありましたが、その夫婦関係にも実は弱さがあったことも明らかにされました。何よりも、これからのお話の主人公であるヤコブ自身の罪深さが露呈され、神に選ばれた者としてのきよめと訓練が始まるのです。それは、信仰を持つときに、神様はその信仰とともに、私たちの肉体も含めたすべてを御自身のきよさに与らせようと、造り変えてくださるからです。
 
 今日は、そのヤコブの旅の始まりにあたって、この家族として、どのようにきよめられ、どのように信仰の父アブラハムの子孫として、他の国々にも主の祝福をもたらす民族としてスタートするか。その姿を皆さんと一緒に見ようとしています。それは、そこに私たちもその信仰の家族に連なる神の教会として、そして神のこどもとして、この世で生きるための良き模範があるからです。
 
 
1.失敗の中で霊の目が開かれる
 1節。「イサクはヤコブを呼び寄せ、彼を祝福し、そして彼に命じて言った。『カナンの娘たちの中から妻をめとってはならない。さあ、立って、パダン・アラムの、おまえの母の父ベトエルの家に行き、そこで母の兄ラバンの娘たちの中から妻をめとりなさい。』」
 父イサクは、あらためてヤコブを呼びよせて祝福します。このイサクの様子が短く紹介されていますが、前回のヤコブへの祝福のときと、何かが違うと感じないでしょうか。一番大きな違いは、イサクは祝福する相手を、エサウではなく、ヤコブであると認識して祝福しているということです。
 
 前回は、エサウを祝福するつもりで騙されて、ヤコブを祝福してしまった状況でした。しかも、「おまえがほんとうにわが子エサウかどうか。おまえに触ってみたい」、「ほんとうにおまえは、わが子エサウだね」と、「ほんとうに」という疑いの言葉を繰り返していた。実は疑心暗鬼のままだった。でも最後は、間違いないと自分に言い聞かせるように、単に自分の責任を果たそうとしました。それは主に対する信仰ではなく、「私が」という自分のプライド、自分の五感の中だけで決断したものでした。何と言っても27章の書き出しから、イサクの衰え、イサクの落ちぶれ具合が記され、イサク自身も「私は年老いて、いつ死ぬかわからない」と、希望のない信仰者の姿が、私たちにもわかるように伝えられていました。彼の盲目は肉体だけではない。彼の霊の目も見えなくなっていた。その姿でした。
 
 しかし、エサウ本人が帰って来て、事実が分かった時、イサクはどうしたでしょうか。それは、「激しく身震いした」とあります。それは、聖書の中でも大変珍しい、おののきの表現でした。直訳的には「おののきおののいた」とか「震えに震えた」というヘブル語的には大変強い表現です。しかも、同じように騙されたエサウとも違う反応だったことを覚えているでしょうか。エサウヤコブへの恨みによって憤りと怒りに満ち、それが殺意へと燃え上がっていきました。でもイサクはどうして、この28章1節から4節まで、何も迷いもなく、むしろヤコブへの愛に満たされているように、確信に満ちて祝福しているのか。
 
 それは、イサクの中に霊的な変化があったということです。年老いて、目が見えなくなって、更にその霊性も失われていたイサクは、この一連のヤコブへの祝福騒動の中で、なんと神様への信仰に目覚めたのです。イサクもエサウのようにヤコブに怒りを燃やし、恨み、憎しみに満ちても良かったはずです。しかし、彼はそうはせずに、かえって自分自身の間違いに気付かされたのです。
 
 ここに、私たち主を信じる者の霊的スランプを克服する模範があると思います。信仰生活では、必ず霊的なスランプがあると思います。いつも、みことばに感動していたいけれども、まったく聖書のことばが心に響いて来ない。祈っているのに、どうも空気に向かっているような、手ごたえを感じられない時があります。そういうとき、知らないうちに、神様のみことばよりも自分の五感だけに頼っているような、力のない歩みになっているのではないでしょうか。しかし、主を信じる者として、そういうときでも、あきらめないで主へのかすかな信仰を大切にし、今は手ごたえがないように感じても、みことばに聴き、祈り、礼拝を続けていくならば、必ずそこから抜け出すチャンスが与えられます。
 
 そして、そのチャンスはほとんどの場合、自分自身の罪に気付かされて、まずその罪の悔い改めから、目が開かれ、以前よりも増して主を愛するようにされていきます。しかし、そのときに、実は必ず、誰か他の人を恨むような選択肢もあります。「あいつのせいでこうなった」と。でも「あの人が悪い」と思っているときは、霊の目は開かれません。「自分の中にこそ問題がある」という開けづらい扉を、勇気をもって開けるときに、主はその痛いところに触れてくださり、そこから、あらためて主の深い憐みを経験するのです。
 
 イサクは、そのように、これまでの騙された出来事を通して、自分が主の前に不信仰であったことを認め、それを主の前に素直に差し出した。そのとき、神様との関係が修復され、そこに主の愛と赦しを経験して、彼の霊の目がぱっちりと開かれた。それが27章前半にあるような、落ちぶれていく信仰者ではなく、非常に積極的に、目の前のヤコブの顔が見えているように、愛する自分の後継ぎとして心から祝福する霊の人イサクの姿です。
 そして、エサウの結婚に対する悩みをこれまでは口にしてこなかったけれども、イサクは霊の目が開かれたことによって、その問題をきちんとヤコブに告げた。それが、
『カナンの娘たちの中から妻をめとってはならない。さあ、立って、パダン・アラムの、おまえの母の父ベトエルの家に行き、そこで母の兄ラバンの娘たちの中から妻をめとりなさい。』です。
 このエサウの結婚問題は前回46節のリベカの言葉にもありました。ここにあらためて愛し合うイサク、リベカ夫婦としても霊的にも一つとされ再出発した様子が伺えます。このように、神様に対する霊の目が開かれていくときに、私たち自身の霊性のみならず、様々な関係性も修復されるのです。まさにエデンの園が回復するように、そこに神の御国が建てられていくのです。
 
 
2.霊の目が開かれるとは、神のことばを生きること
  さらに霊の目が開かれたイサクは、ヤコブへの祝福のことばを続けます。3節。
「全能の神がおまえを祝福し、多くの子どもを与え、おまえをふえさせてくださるように。そして、おまえが多くの民のつどいとなるように。神はアブラハムの祝福を、おまえと、おまえとともにいるおまえの子孫とに授け、神がアブラハムに下さった地、おまえがいま寄留しているこの地を継がせてくださるように。」
 ここにイサクが本当に霊の目が開かれて、父アブラハムの信仰に目覚めたことを表す表現が使われています。イサクは、ヤコブのことを祝福する際、単に「神が」とは言わずに、「全能の神が」と信じる神様の全能性を強調しています。この全能の神という表現も、聖書ではそんなに多くはありません。旧約聖書で7回出てきますが、そのうち5回が創世記です。
 
 その最初はどこでしょうか。それはアブラハムが99歳のときに主がアブラハムに現れて名前をアブラムからアブラハムに変えなさいと言われたとき、神様ご自身が、「わたしは全能の神(エル・シャダイ)である」と自己紹介されたのです。そして二つ目が今日の箇所です。イサクがヤコブに対して、神様が全能の神(エルシャダイ)であると宣言する。それは、これからヤコブは一人で荒野を通って旅に出るが、実は一人ではない、全能の神がともにおられるのだと、ヤコブにとって、もっとも大切にしなければならない信仰者としての確信を教育したと言っても良いでしょう。このお方を信じるならば間違いないと。
 このイサクのヤコブへの気持ちは子どもを持つ信仰者の親であれば、だれもがそこを知ってほしい、そのことを経験してほしいと願うはずです。人生の旅路で、辛いことに出会い、自分もまた失敗を繰り返す。しかし、失敗したとしても、この全能の神に信頼し続けることこそ、総てのことが祝福へと変えられる。そのことを自分自身が味わってきた経験を通して、確信をもって言えるのではないでしょうか。
 
 この「エルシャダイ」という神様の御名は、このあとヤコブが旅を終えてカナンの地に帰って来るときにも使われます。それはどういう場面でしょうか。それは、神様ご自身がヤコブの名前をイスラエルと名づけられるときです。実はアブラハムもアブラムから名前を変えられるときに、神様はご自分で「わたしは全能の神である」と語られていました。つまり、信仰者が試練を乗り越え、主の訓練を受け、再出発、もう一度あらためて神様を信じる者として始まる。そのときに神様は、わたしが全能の神だから大丈夫だよ。信頼していいんだよと、励ますお方なのです。 
神様の憐みは素晴らしいですね。聖書全体から見ていくときに、語られる言葉すら、ご自分の祝福の中で調和させ適切に用いるのです。まさに「エルシャダイ、全能の神」です。
 こうして、霊の目が開かれたイサクは、ヤコブを自分の後継者として、今度こそ喜んで祝福し、全能の神にゆだねて、リベカの兄ラバンが住むパダン・アラムへ送り出したのです。まさに、主のみことばを生きる者へと、さらに造り変えられていくのです。
 
 
3.肉の目によってさらに混迷に陥る人エサウ
 6節以降は、霊の目が開かれた人イサクとは逆に、またもエサウに見る、霊の目が閉ざされている人。言い換えるならば肉の目がすべてと言う人の姿です。
ここまで来ても、なおもその目が開かれない頑なさをここに見ます。何度もエサウが、ダメ人間の代表のように登場していて、語る私としても心苦しいのですが、聖書が一貫して、エサウのことを「俗悪な者」と言っているように、そのようにきちんと捉えて、ここから神様が私たちに伝えようとしていることを受け取っていきたいと思います。
 
 エサウは、自分を騙した弟ヤコブが、父イサクからあらためて祝福を受けて、父母の言いつけ通りに旅立ったことを知りました。しかも「カナンの娘たちから妻をめとってはならない」ということが、エサウの心に引っかかったようです。その言葉でようやく気が付いたのか、「カナンの娘たちが父イサクの気に入らないのに気づいた」とあります。
 
 同じような状況を通りながら、一方は霊の目が開かれる。しかし、もう一方は、益々頑なになっていく。ここに、今日のみことばからの私たちへの選択肢が提示されていると思います。特に、このエサウがどうして、こんなにも頑ななのか。その理由として考えられることは、前回の46節のリベカから始まり、この28章でも繰り返されている「カナンの娘たちとの結婚」からの影響です。聖書は決して、外国人との結婚をすべて否定してはいません。問題は、結婚によってもたらされる不道徳な習慣の影響なのです。
 
 それは、もうこの頃から、カナンの宗教が単に偶像崇拝だけではなく、道徳性に問題があったからです。それは、子どもを火の中にくぐらせるモレク信仰や、男女の性を露骨に取り入れたバアル信仰など、その儀式だけでなく、そのような不道徳を良しとする生き方の価値観に大きな歪みがあったと考えられます。だから、その宗教、文化が常識となっているカナン人、ヘテ人たちとの結婚は、エサウアブラハムから受け継いだ純粋なヤハウェ信仰を蝕み、価値観を鈍らせ、霊の目に影響を与えたと言えるのではないでしょうか。結婚は男女が一体となることです。パウロも「遊女とまじわれば、一つからだになる」と警告しているように、祝福された家庭を築きたいならば、早いうちから、きちんと主の前に結婚のことを、結婚する相手のことも具体的に祈っていくべきです。
聖書は言います。
「結婚がすべての人の間で尊ばれ、寝床が汚されることのないようにしなさい。神は、淫行を行う者と姦淫を行う者をさばかれるからです。」ヘブル13:4
 
 結果的に、エサウのそのあとの様子が、9節での行動で明らかにされています。9節。
「それでエサウはイシュマエルのところに行き、今ある妻たちのほかに、アブラハムの子イシュマエルの娘で、ネバヨテの妹マハラテを妻としてめとった。」
 
 このエサウの行動を見て、皆さんはどう感じたでしょうか。エサウは、ことの本質がわかっていない。問題点がどこにあるのか、彼はまったく見えておらず、さらに妻を得るという選択をするのです。実は、この場面はエサウにとって悔い改めるチャンスでした。今あるところから、主を呼び求めるチャンスでした。自分の罪の清算をして、祝福を得るチャンスでした。しかし、彼の目には、神様ではなく、やはり肉眼に映る父しか見えていなかった。
 8節に、「父イサクの気に入らないのに気付いた」とありますが、これは、エサウ霊性の欠如の極みを表すことばです。彼の価値観の限界です。それは、主なる神に喜んでいただくことではなく、あくまで父イサクに喜んでもらうことしか頭になかったのです。しかし、そのあとの行動は、まったく父の喜ぶことからはかけ離れている。すっかりエサウは泥沼に陥っています。イシュマエルの娘は確かにアブラハムの孫にあたり、エサウと従妹です。でも、既に妻が二人いるのに、これなら文句ないでしょと言わんばかりの行動。非常に悲しいです。その空回りの姿が、ここまで来ると本当に痛々しいです。
 
 
結び
 どんな信仰者でも失敗をするものです。しかし、そこから立ち直るチャンスは必ず目の前にあります。その失敗に気づかされたときに、どうするのか。その大切さをこの二人の姿から学ぶことができます。
私たちには、肉の目と霊の目が与えられています。そのどちらも実はまず神様を見上げるために造られています。ですから、本来の使い方を誤った時には、私たちは人生の意味、生きる価値を見失います。それは、信仰者でも陥ることがあるのです。イサクがそうだったように、そういう自分にもなかなか気が付かない。そういうことが起こって来る。そのとき、私たちは神様への信頼ではなく、自分の力で頑張っているものです。だから、心もからだも疲れるし、その自分の頑張りへの報酬もほしくなります。エサウが父イサクの気に入るように行動したように、ほめてもらいたい。報われたいと思うのです。
 
 そして、いつしか疲れ果て、信仰を持っていても意味がないとか、神様がいるならどうしてこんなことが許されるのかと、自分の不信仰をよそに神様を責め立てるのです。しかし、そこには何の解決もありません。むしろ、神から離れた行動はもっと、どつぼに、はまっていきます。そのとき山を見上げてため息をつく詩篇121篇の詩人と似ています。しかし、詩人は、山ではなく、目には見えなくてもその山すら造り支配しておられる主なる神に目を上げるときに、そこにこそ真の助けがあることに気が付かされるのです。それは、そのときに霊の目が開かれるからです。そこからあなたの人生に光が差し込むのです。
 
 イサクは騙された現実にぶちあたったとき、この上もなく心が震え、ヤコブにではなく、自分の不信仰に気が付かされ、そこで神様にしっかりと向いて、目が開かれ、心が新しくされて、今度は神様のみことば通りにヤコブを祝福しました。それは、こころから主のみことばに従ったときに与えられる、この上ない平安に満たされた瞬間でした。
 
 私たちも今朝、あらためてイサクのように悔い改めて主を仰ぎたいと思います。そして霊の目を開いていただきましょう。そのとき、主を通して見えて来るすべてのものが、まったく違って見えてきます。主を通して見る、様々な問題の中に神様の御手が見えてきます。苦手なあの人のことも、まず主を見上げ、主を通して見るならば、愛すべき人に見えてきます。
 あなたはどこに目をとめているでしょうか。あなたを愛し今も祝福しようと招いておられる神様に、でしょうか。それとも、あなたを苦しめる、目の前にある問題、出来事、または人でしょうか。今週も山ではなく、生ける神様に目を上げて、確かな助けを受け取ってまいりたいと思います。
 
祈り