日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

2021年10月31日 白石教会礼拝

説教題 「主があなたを祝福されたからです」
聖書箇所 創世記30章25節~43節
 
 

 昨日、10月30日は、私の受洗記念日でした。ある意味、もう一つの誕生日とも言えます。1983年の10月30日に、私はイエス様を信じて、告白し洗礼を受けて、神様の子どもとして生まれ変わった日だからです。そして、今日10月31日は宗教改革記念日です。1517年の今日、カトリック教会の修道士であったマルティン・ルターが、当時教会から発行されていた贖宥符、いわゆる免罪符に対する問題点を書いた紙を、ヴィッテンベルク教会の門扉に貼ったと言われています。それが、プロテスタント諸教会が生まれる原点であったと言われているからです。
 
 私のクリスチャンとしてのスタートも、ルターの宗教改革としてのスタートも、実は似たような共通点があります。それは。その結果自体は凄い出来事です。人が救われることや、教会が誤った信仰から目が開かれて、正されていくということは、素晴らしい出来事です。でも、その始まり自体は、そこまで考えていなかった小さな出来事からスタートしているということです。
 
 私は救われるまでの、そのスタートは小学5年生のときに英語を習いにいった、OMFの宣教師との出会いがありました。そのときに私は初めてクリスチャンという人たちに会い、時々聖書の話を聞いていただけです。その後、信仰を持ったのも、そのOMFの教会ではありません。洗礼を受けたのもOMFではなく、ブラザレン派の教会です。でも、そのスタートは5年生のときに英語を習うためという目的しかなかったのです。そして、その宣教師たちとの出会いの中で、やがて信仰が芽生えていったのです。
 
 ルターの宗教改革も、ルター本人は現代まで繋がっていくような、プロテスタントとしてカトリック教会から分離するような大きな改革は予定も想定もしていませんでした。一人の修道士として、また大学の教授でもありましたので、自分が気になっている問題点を発表して、議論し、せいぜい、教会内の刷新に繋がれば良いな、くらいのものでしかなかったのです。何せラテン語で書いたものをドイツの町に貼りだしたところで、一体どのくらいの人が読めたのか不明です。しかし、その小さな一歩が、神様の御手の中で用いられていくときに、大きな働きへと繋がっていくのです。
 
 今日、ご一緒に読んだ創世記30章25節~43節には、ラバンの家からカナンの地に帰ろうとするヤコブの姿が描かれています。結果的に、その方法としては、羊やヤギの繁殖によって神様の祝福を証明し、ヤコブを何とか引き留めようとするラバンの思いを挫こうとする姿です。家畜の繁殖ですので、それはあくまで神様の御手に委ねるべきことです。そして、神様が為してくださることを見て、神様を崇めるべきことです。
 
 しかし、聖書には、そこにヤコブの働きを記し、さも、その働きがあって、このあとの祝福に繋がったのだと言わんばかりの様子が記録されています。そのことがあって、このあと彼らはカナンの地に帰り、そこでイスラエル民族として成長し、やがて救い主イエス様の誕生にまで繋がっていく、神様の大プロジェクトへと用いられていくのです。その大プロジェクトのスタートのところのお話なのです。
1.周囲に広がる主の祝福
今日の説教は30節のみことばを中心に考えていきたいと思います。説教題もここからいただきました。
「私が来る前には、わずかだったのが、ふえて多くなりました。それは、私の行く先で主があなたを祝福されたからです。いったい、いつになったら私も自分自身の家を持つことができましょう。」
 
 これは、ヤコブが出て行こうとするのを引き留めようとするラバンに対して語った、ヤコブの言葉です。この言葉には、ラバンのもとで14年間苦しみつつ耐えて、妻たちと結婚し、子どもが与えられ、家族が増やされてきた歴史が凝縮されています。まず大事なことは、まず総てが主の祝福であるという告白です。そして第二に、そのヤコブへの祝福の恩恵をラバンも受けているという証しの言葉です。
 
 ヤコブは、ラバンと出会ってから、人に欺かれることの辛さを、身をもって味わいました。その中に先週までの妻たちの争いもあり、苦しい14年間だったでしょう。しかし、その中にも、主がともにいて、主が背後で導いていてくださったという信仰も成長していたのです。その苦しみが、ヤコブを人間としても磨かれるために用いられたということです。
 
 石を枕に夢の中で主と出会い、そこで彼は、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と驚きをもって告白した。主の臨在に触れて、この場所こそ神の家だと言って礼拝をささげた。そのように、自分が気付かないだけで、主はこの所におられるという信仰が、益々、この14年間で磨かれ、苦難の中にも主の祝福があったことを確信しているのです。
 
 そして、それだけではなく、自分とともにおられる主の祝福が、ヤコブと一緒にいる人たちにも溢れて、その人たちをも祝福するという神様の途方もない大きな恵み。そのことをラバンにも伝えているわけです。
 
 私もきっと、英語を習いにいった宣教師との出会いとは、最初、このようなものだったのではないかと思うのです。そのとき小学生で英語よりも友達と野球したかった。結果的に英語クラスをさぼって野球しに行くことが多くなって、その宣教師とは離れていくのですが、しかし、神様が祝福していたその宣教師を通して、私にもその祝福を広げて祝福していたのです。その時は、私はわかりませんでした。ラバンもまじないで知ったと変なことを言っていますが、私もそのような者でした。
 皆さんはいかがでしょうか。これまでの皆さんの人生の歴史の中で、主によって祝福されていた人たちとの出会いによって、その祝福を皆さんもいただいていたのだということがなかったでしょうか。
 
 そして、そのことは、今度は現在、主に救われ祝福の中にある私たちを通して溢れる主の祝福が、また誰かを祝福しているかも知れません。それは、私たちに自覚がなくても、昨日、道ですれ違った人に、近所の同じ町内のお向かいさん、お隣さんに、私たちの自覚とは関係なしに、主に祝福されている私たちから必ず、祝福に預かっている人がいるのです。そう考えると、そのために祈らされます。
 主の祝福の恵みは、私たちが受けてきたように、今度は、私たちが関わる方々にも及んでいくのです。
2.祝福のために最善を尽くす
ところが、今日の箇所の問題点は、ラバンにとっては、その祝福に預かっているという情報は、そのようなヤコブを引き留めて、ここでこれからも働かせた方が特だという、ご利益的な発想止まりだったということです。彼がまじないによって知ったことが、「主が私を祝福してくださったこと」と彼は告白していますが、ラバンが言っている「主」というところは、実は創世記の写本の中では「神」と記されているものもあるそうです。それはすなわち、神様を表す「エロヒーム」という複数形の神々とも訳せることば。
たとえ「主」の方が正しいとしても、恐らくラバンの信仰としてはまじないもやり、31章には大事にしている偶像も出てきますので、主も信じているけど偶像も拝んでいるような、混交的な信仰であったと言えるでしょう。
 
だから28節で報酬を支払おうと言っている言葉の裏には、報酬を支払うことで、さらにここにいさせて、ヤコブによってもっと儲けさせてもらおうという魂胆があったのです。それは、ヤコブの「いったい、いつになったら私も自分自身の家を持つことができましょう」と、きちんと問題点も告げているように、報酬はあくまで報酬であって、ラバンとヤコブの間の契約関係が解消される話ではないからです。
 
ヤコブが14年前にこのハランに来てから、ヤコブはラバンの家の養子契約だったようです。だから、財産が持てないし、彼の妻も子どもたちも、家長であるラバンの所有であってヤコブのものではないのです。ラバンが生きているうちは、ヤコブはその財産を受け継ぐことができませんから、その束縛からの解放をヤコブは願っているわけです。
31節の「何をあなたにあげようか」というラバンの言葉は、「一時的に報酬を与えて良い思いをさせてやるから、関係はこれまで通りだ」というダメ押しの言葉です。
 
そこでヤコブは、持ち前の知恵によって、報酬が欲しいわけではないが、主からの祝福の実を見させることでラバンの心に問いかけようとしたと考えられます。このあたりのしたたかさは、主がエサウではなくヤコブを選んだ理由かも知れません。
 
ヤコブは、羊であれば黒、ヤギであれば白。そして、それぞれのブチとか縞模様とか混じりけのある毛のものだけを報酬としてくださいと言います。後日、結果的に6年後になりますが、そのときにその中に、白い羊や黒いヤギがいたら、それはヤコブがラバンから盗んだということになるが、そうでなければヤコブは誠実な男であり、独立させても良いという判断ができるだろうという提案をするのです。
 
この地域では当時、羊は普通白ばかりで、ヤギは黒ばかりであったことがわかっています。だから、黒い羊、白いヤギは稀で、ブチやまだら模様もそんなに多くないのです。だから、損得勘定で生きているラバンにとっては、ヤコブに報酬として渡す家畜が稀な毛の色のものばかりで、そんなに頭数は多くないので、きっと「ラッキー」と思ったでしょう。そんなもんでいいのかと、内心喜んだでしょう。
 
そこで、まずラバンの持っている羊やヤギのうち、ヤコブが報酬としてくださいと言った模様の羊とヤギを分けて、それをラバンの息子たちに守らせて、ヤコブにはラバンの方に残すはずの白い羊と黒いヤギだけの群れを守らせるのです。
 
そこでヤコブは、37節以降にあるように、ポプラ、アーモンド、プラタナスの木の皮をはいで、白いところをむき出しにして、水を飲みに来るヤギや羊たちに見せるという、ちょっとおかしな作戦を始めます。これは当時、そのように思われていた方法で、何の生物学的な根拠はないのですが、聖書はこの作戦が功を奏して、ブチ毛やマダラ毛の羊やヤギがたくさん生まれて、それがヤコブの取り分になり祝福されていったと告げているのです。
 
これは、どういう意味でしょうか。主の祝福のためには、やはり私たちの努力が必要だ。祝福を受けるためには私たちの行いも大事だという意味なのでしょうか。
 
いいえ。そうではありません。もし、そうであるならば、私たちも、もっと祝福を受けるために、まごまごしてないで、何か作戦を考えなければならないでしょう。でも、聖書はそのような、私たちの業を必要とする祝福があるとは言っていません。
それは、ここを通らされたヤコブのこのあとの言葉からわかってきます。今日の範囲ではありませんでしたが、ヤコブはこの出来事をこのように捉えています。31章9節。
「こうして神が、あなたがたの父の家畜を取り上げて、私に下さったのだ。」
 
 つまりヤコブ自身も、自分が行った木の皮をはいで白い部分を見せる作戦ではなく、神様がそうしてくださったとはっきり認めて告白していることを見ると、彼の作戦は必要だった行為ではなく、彼自身の最善を尽くす信仰による行動であったということです。ただ待つだけではなく、主の業に自分も最善を尽くして参加していく。しかし、それは自分の業として誇るために参加しているのではない。主を愛し、主を信じているからこそ、自分にできる最大限の努力をもささげていく信仰者の姿を主が尊び、喜んでくださったので、さも、その一見愚かしく思える行為すら、ご自身の業として取り込まれて用いたと言ってくださっているのです。
 
 
結び
 ルターも大げさにする気は毛頭なかったのに、自分が主を愛して行った95箇条のラテン語で書かれた問題点を貼り出すということを、主が用いてくださったと言えるのではないでしょうか。そして、彼は自分のしたことで教会が「信仰のみ、聖書のみ」と、その価値観が正されていくことを喜びつつ「我ここに立つ」とカトリック教会の裁判の席でそう答えたのです。ただし教会に自分の名前が付けられることを拒否しました。それは、誰でも教会にキリストではなく自分の名前が付けられるのは嫌なはずです。また、そのような人の名前が付けられていくところから、「信仰のみ、聖書のみ」というキリスト教会としてのいのちであるはずの教理が、ルター派教会という一派としてのプライドに成り下がることを嫌ったからです。
 
 そこはメノナイトと名乗っている我々も注意が必要です。キリスト教会なのか。メノナイト教会なのか。教会に人間的なプライドが挟まってはなりません。誇りは常にキリストの十字架です。十字架以外に誇りとするものがあってはなりません。
 
 ヤコブは、自分の作戦が功を奏してたくさん儲かったとは言いませんでした。それは「神がくださったのだ」と、全ての栄光を主に帰したのです。この姿こそ、私たち、全ての神のイスラエルに連なる信仰者、神の子どもたちの模範です。
 
 私が1983年10月30日に信仰を告白し洗礼を受けたのは、その宣教師の所属していた宣教団体である国際福音宣教団の教会ではありません。だから、私の中には、その先生に申し訳ない気持ちが心の片隅にありました。でも、洗礼を受けて嬉しかったので、その頃すでにスイスに帰っておられたその宣教師に御礼の手紙を書きました。「先生の宣教のおかげで私はイエス様を信じることができました」と。
 するとその宣教師からも喜びの手紙が来ました。その手紙を読んで、私は、福音の種を蒔く人の信仰とその姿勢を学ぶこととなりました。
 
 てっきり、私はその宣教師は自分の働きによる実として喜んでおられると思っていたのですが、手紙には、ご自分が経験した滝川での開拓伝道における大変さとか、それが私の救いによって報われたことなど、自分の業にかんすることは一切記されておらず、ただ、小学生だった私が、英語クラスをさぼって野球をしていた私が、どんなかたちであれ、イエス様を信じて罪が赦され救われた事実を、心から喜んでおられたのです。
 
 それ以来、毎年、クリスマスにはクリスマスカードが送られてくるようになり、私たちの祈祷課題も送ってほしいと言われ、私が献身するときも、聖書学院に入学するときも、白石教会の牧師に招聘されたときも、いつもスイスから祈りささえてくださった方でした。
 
 それは一貫して、自分にではなく、ただ主に栄光を帰す生き方であり、今も私が願う福音宣教者の姿です。今日、私はルターやこの宣教師を称賛するためにここに立っているのではありません。主の祝福が人から人へと溢れて広がっていくものであるということと、私たちの存在をも、ルターやその先生たちのように、また誰かに神様の祝福が及ぶ者とされていることを、あらためて覚えて、今日からの新しい一週間を喜んで生きるためです。
 
 今週も、既にいただいている主の祝福があなたから溢れて、すれ違う人、出会う人、電話の相手、コンビニの店員さん、主が私たちに備えられた、出会うすべての人に祝福が及ぶように、それぞれの家庭に、職場に、学校に、地域に、祈りつつ、遣わされてまいりましょう。
 
 
祈り