日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

「信仰のために戦う時代」

聖書箇所 ユダの手紙1節~4節
 
 

 今日から3週に渡ってユダの手紙から聴いてまいります。ユダの手紙はご覧のように聖書の最後から2番目の書です。しかも、大変短いので、目立たない書かも知れません。でもとても大切なことが書かれています。それは、終末における背教への警告です。黙示録の直前に置かれていることも意味があると思います。
 
 終末については、まずイエス様ご自身が、仰っています。
「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私がそれだ』とか『時は近づいた』とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません。…大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます。…そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。」ルカ21:8~27
 イエス様も前兆の中に疫病や飢饉ばかりではなく、「わたしを名のる者が大ぜい現われる」とあるように、イエス様の偽物がはびこるとも言われています。それは我こそは、キリストであるとするカルト宗教や、いたずらに終末を煽る異端と呼ばれる宗教団体のこともすぐに思います。しかし、それだけならばかえってわかりやすいです。新興宗教、異端はまだ分かりやすい方です。しかし、現代の背教は更に進んでいて、教会にひそかに忍び込む教えが分かりにくいのです。
 
 このユダの手紙が書かれた時代でもそれが始まっていたのですから、それから2000年も経っている現代は益々、その危険が極まっていると言えるのではないでしょうか。現代の私たちを取り巻く信仰の世界は、確実に終末に向かって進んでいるのです。これは終末を煽っているのではありません。これがすぐに起こるとは言いませんが、まだまだ先の話とも言えません。だから、常に信仰の目を覚ましていなければならない時代であることをともに覚えたいのです。教会に忍び込む誤った教えに惑わされず、皆さんとともに、栄光のキリストをお迎えすることが、この地上に置かれている私たちの希望だからです。
 
 そういう意味で、このアドヴェント、クリスマスに向かう時期に、終末をテーマにしているこのユダの手紙は現代を生きる私たちキリスト教会に対する重要なメッセージなのです。
 
 
1.主の兄弟から主のしもべへ
 このユダの手紙を書いたのは、主イエス様の弟のユダだと言われています。これは、単に伝説ではなく本人が暗にそう伝えているからです。1節、2節にこう書いてあります。
イエス・キリストのしもべであり、ヤコブの兄弟であるユダから、父なる神にあって愛され、イエス・キリストのために守られている、召された方々へ。どうか、あわれみと平安と愛が、あなたがたの上に、ますます豊かにされますように。」
 
 ユダはまず、自分のことをイエス・キリストのしもべであるということをはっきりと言っています。しもべというのは原語では奴隷と同じ言葉です。しかも、「イエス・キリストの」と、イエスという方をキリスト、つまりメシアであると告白して始めます。そして、そのあとに、自分がどういうユダなのかを説明しています。
 ユダという名前はユダヤ人ではありきたりの名前です。聖書全体を見てわかるように、ユダという人がたくさんいます。それで、どのユダなのかを区別するために、○○のユダと名乗るのです。ですから、このユダの手紙を書いたユダは、みんながどのユダなのかを認識できるように「ヤコブの兄弟であるユダ」と名乗っている訳です。
 
 そうすると、それでは「ヤコブ」ってどのヤコブか、という風に思われるかも知れません。ヤコブも聖書の中にたくさんいます。使徒の中では、ゼベダイの子ヤコブ。もう一人はアルパヨの子ヤコブがいました。では、ユダの兄弟のヤコブってどっちなのか。実はどっちでもありません。それは、この初代教会時代に、「○○の」と付けないでも、もう知られているヤコブがいたからです。それが主の兄弟ヤコブです。そうです。イエス様の兄弟のヤコブのことです。彼はこの当時、エルサレム教会の監督になっていた初代教会でも重要なリーダーの一人です。ヤコブの手紙を書いた人でもあります。
 そうすると、「なんだ、このユダもイエス様の兄弟ではないか」という事になります。ところがユダはそうは名乗らないのです。あくまで、イエスというお方は私のキリストであり、私はその奴隷に過ぎませんと告白するのです。ここに、ユダの信仰が明確にされています。このユダの信仰告白こそ、この手紙でユダが、この手紙の受け取り手である諸教会の兄弟姉妹たちと共有したい、確認したい、まず一つ目のことです。
 
 冒頭でユダが告白しているイエス様への態度、イエス様が自分にとってどんなお方か。
エスというお方は、肉においては自分の兄であったけれども、私の罪を贖うキリストであった。そして、私はもはや肉における兄弟という絆ではなく、このキリストのしもべとして永遠に変わらない関係の中に置かれている恵みを語っているのです。そしてイエス・キリストこそ、唯一の支配者であり主なる神であると。
 ユダが背教者たちのこととして、4節で「支配者であり主であるイエス・キリストを否定する」と言いました。その「支配者であり主」というのは神であるお方という意味です。このまま、旧約聖書の原語であるヘブル語にすれば、「支配者でありヤハウェである」という意味です。そのことを否定する教えが、私たちの中から出て来てはなりません。キリスト教会と名乗っていながら、そのキリストを否定してはなりません。看板に偽りありとなってはなりません。
 
 ユダ自身は、最初はイエスというお方が自分の兄弟であるという以上のことは考えられなかった。小さなころから一緒に育ってきたから、その染みついてきた常識があるのはわかります。しかし、ユダはそこから兄としてのイエスではなく、人間の姿で来られた神、ヤハウェとしてのイエスへと目が開かれたのです。
 
 そこでユダは、諸教会のクリスチャンたちへ、挨拶を通して、私たちクリスチャンがどれほど恵まれているか、どのように祝福されているかを伝えつつ祈ります。父なる神にあって愛され、イエス・キリストによって守られていると。しかも、その立場が私たちの側からではなく、あくまで神様からの召しであると言います。「召された方々」とは、神様に選ばれ招かれているということです。そういう私たちに、「神様のあわれみと平安と愛がますます豊かにされますように」と、いただいているこの救われた者としての立場が、自分の力で得たのではないことを、祈りをもって宣言しているのです。

 


2.聖書を記す人へ
 だから「愛する人々」と呼びかけて、その主によって選ばれ招かれている私たち教会の交わりが「愛する人々」の交わりであると告げています。3節。
愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙 を書く必要が生じました。」  
この「愛する人々」という呼びかけをユダはとても気に入っていて、17節でも、20節でも使っています。それほど、自分と同じように主によって贖われた人たち、イエスをキリストであると告白し、そのしもべとなり、父なる神に愛され、守られている主の群れ。その素晴らしいキリストの教会にユダは感動をもって、このように呼びかけています。
 
 ここで「私たちがともに受けている」の「ともに」は、今日の箇所でとても大切な言葉です。それは、救いが自分だけでなく、主の群れとして、キリスト教会としての「ともに」だからです。そのことを主の群れとしてともに告白しともに確認する必要があるからです。
ユダは、その恵みをもたらした主の救いがどれほど素晴らしいか。イエスの弟として生まれ育った自分が、今、その兄であった人を、神として、救い主として信じ受け入れて喜びに満ちている、その証しも含めて伝えたかったのでしょう。そして、ともに預かっている素晴らしい救いについて、手紙を書こうとしてあらゆる努力をしていました。
 
 ところが、状況がそれどころではなくなってきた。「聖徒にひとたび伝えられた信仰」が揺さぶられるような出来事が起きてきたからです。それで、本当は主の救いの恵みがどれほど素晴らしいか、努力して書こうとしていた手紙を、今、私たちが目にしているように、「信仰のために戦うよう…勧める手紙」を書くことに切り替えたのです。そのくらい、この出来事が教会にとって重大な問題となっていたからです。
 
 その問題の一つが先ほど言った、キリストを否定するという誤った教えがあったことです。そして、もう一つは「神の恵みを放縦に変える」ということです。合わせて「不敬虔な者」と言っていますが、この人々が教会の中に背教を運び込んで来たのです。背教とは教会内に起こる出来事ですが、その原因は当然外から来ます。主の教会は主の血によって贖われた群れですから、その中には本来背教の種はありません。しかし、ひそかに忍び込んで来るので気付かないことが多いのです。
 
 放縦というのは何でしょうか。それは、恵みを恵みと思わなくなり、当たり前になり、どうせ赦されているのだったら、どんどん罪を犯しても大丈夫だと、恵みを侮ることです。恵みの内にある神様からの大きな愛を忘れて、自分の価値観に切り替えて、自分に都合よく恵みを貪ることです。
 
 ユダの時代に、もう既にこのように恵みを侮る誤った教えが教会に入り込んでいました。しかし、このような出来事はこの時に初めて起こったことではありません。今日の説教題は「信仰のために戦う時代」としましたが、今だけがそうだというよりも、今までもそうだったが、これからは益々そうなるという意味です。信仰の戦いの歴史を遡れば、それは創世記の3章から始まっています。神様によって愛され、神のかたちに造られたアダムとエバは、その恵みを侮って、神様と一緒にいることが苦痛だと思う様に悪魔にそそのかされて、神様との祝福の関係を壊してしまいました。
その時から、私たちの信仰の戦いは続いています。そして人間の歴史が、その繰り返しのように、いつも神様か人間か、その価値観の間を行ったり来たりしています。
 
 先週は宗教改革記念日でしたが、宗教改革もそのような振り子現象の一つに過ぎません。しかし、この振り子現象は、ただ同じことの繰り返しでは済まされないのです。よく歴史は螺旋状に進んでいると言われます。同じようなことを繰り返しながら、時間の中でより良い方向に発展していると言われます。でも、その考え方は聖書とは逆行しています。
 
 物事がより良い方向に発展してほしいという気持ちはわかります。しかし、それは進化論的な発想であり、神はいないという無神論の中で生まれた理想に過ぎません。私も聖書学院で歴史の授業を受け持っていますが、そこでも歴史は螺旋状に進んでいるとお話しています。しかし、それはより良い方向に進んでいるのではなく、むしろこの天と地は滅びへと向かっていることを認識しなければならないということです。
 
 この天地は滅び去ると聖書ははっきりと教えています。そして、それはキリスト教2000年の歴史の中で、螺旋状に同じようなことを繰り返しつつ、確実に迫っているのです。そして、現代、まさに疫病だけでなく背教が進んでいるのです。このユダの手紙の次の書はヨハネの黙示録ですが、そのクライマックスには主イエス・キリストと教会が一つにされることを結婚になぞらえて語られています。それに対応するのは創世記にある結婚の制定です。つまり私たちの結婚制度は神様と人間、そして、人間同士が愛し合いながら建て上げていく神様の栄光を表わす大切な制度です。それはキリストと教会が結び合わされることを表す、聖なるものです。
 
 それが今、大変な局面を迎えていることを皆さんは感じているでしょうか。子どもの頃から赤信号は止まれ、青信号は進めと教わって来ました。それは、車社会でいのちを守る大切な真理だからです。でも今は、赤信号でも渡りたい人は渡っても良いとする時代です。それを多様性と言って、何が白で黒かを曖昧にする価値観がこの世界には蔓延し、教会にもその価値観が、ユダが言っているようにひそかに忍び込んで来ているのです。結婚制度が危うくされていることは教会が危うくされていることなのです。
 
 
結び
 そこで私たちは何をしているでしょうか。その生き方を今朝、ユダを通して学ぶことができます。それは、あらためて自分の価値観を捨てて、イエスは主であり、私はしもべであるということを認めることです。そして、そこには、限りない父なる神の愛が注がれていて、その大きな祝福に私たちは召されているという、恵みに対する再認識です。
 
 そして、その限りない愛によって与えられている救いを私たちは「ともに」受けていることを確認し合うということです。しかし、それだけではありません。ユダがその素晴らしい救いのことを後回しにしてまで、切り替えた、渦中にある問題認識とそれに対する警告、注意喚起です。それは「ひとたび伝えられた信仰」とあるように、この世の多様化した価値観ではなく、ひとたび伝えられた信仰、すなわち、今から2000年前に一度、私たちの滅びを身に負って死んでくださったイエス様への信仰です。
 
 ユダは、イエスというお方を人間として見ているうちはわからなかった。でも、イエスというお方は神なのだということに気が付いたときから、彼の人生が変わりました。それで、その救いの素晴らしさをどのように伝えるべきか努力していた。ところが、教会に入り込んできた誤った教えに気付かされ、彼は手紙のテーマを変えなければならなくなった。
 
 でもユダがこのときに手紙を書いたことが、このような終末の時代に起こる背教に対する防御として用いられたのです。それは現実、今、私たちがこのユダの手紙を聖書として読み、そこに神様の御心を求めていること自体、神様がこの時代に与えてくださった、背教からの防御法だからです。ユダ自身、自分の書いた手紙が後々聖書になるとは思っていなかったでしょう。しかし、彼は聖霊に導かれて、当時の教会に対する警告として書いた手紙が、神のことばとして今、私たちに対するメッセージとなっているのです。当時はまだ新約聖書が完成していませんので、ここでユダによる手紙のことばが聖書としての権威をもって用いられたのです。
 
 ですから今は、聖書が完成していますから、この時代においては聖書を通して、特に今日の文脈で言うならば新約聖書を通して、背教に対する識別力を得ることが重要です。それは、新約聖書には、今日のみことばのように、教理がはっきりと書かれているからです。だからユダも恐らく、既に書かれて諸教会で読まれていた福音書パウロの手紙なども聴いていたでしょう。だから、教会にひそかに忍び込んでいる誤った教えを的確に指摘しているのです。
 
 私たちもあらためて、どのような教えの風に吹きまわされることなく、イエス・キリストこそ私たちの唯一の支配者であり主であることを繰り返し味わいましょう。そして、誤った教えに対して聖書によって見極める力を身につけましょう。そのためには、まず礼拝を中心とした教会生活が重要です。そして、今は印刷技術が与えられて、誰でも自分で聖書を読むことができますので、みことばによって識別する力を養いましょう。
 
 そして今は聖餐式が制定されて、聖書のみことばとともに信仰の目が視覚、触覚、味覚を通しても呼び覚まされるように、招かれています。その主の食卓に召された一人ひとりとして、今週も主を益々愛して、信仰の戦いに望んでまいりましょう。