のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

「さばき主、イエス・キリスト」

聖書箇所 ユダの手紙5節~16節



「さばき主、イエス・キリスト」という説教題は、よく見ると、「おやっ」と思います。それは、イエス・キリストすなわち「イエスは救い主である」という言葉の冒頭に「さばき主」とも書いてあるからです。イエス様は救い主だから「イエス・キリスト」と通常、そう呼んでいるのに、その頭に「さばき主」ともついている。これは矛盾しているのではないか。いったい、どっちなのだと思わされるからです。
 
皆さんはいかがでしょうか。イエス様は救い主でしょうか。それともさばき主でしょうか。イエス様ご自身はこうおっしゃっています。
「わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。」ヨハネ12:47
 
 だからイエス様がクリスマスに来られた本当の目的がやはり私たち罪人を救うためです。ではさばき主ではないのか。
 使徒ペテロは使徒の働きでこう言っています。
「イエスは、私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。」使徒10:42
 
今日の説教の着地点は14節~15節を読んでお判りのように、イエス様の再臨です。そして、その再臨によって「不敬虔な者たち」が罪に定められると書いてあります。それは、再臨の主がさばくお方であるということです。それは終末における出来事であり、その終末におけるイエス様の役割が「人をさばく」ということです。それは主の救いを信じ続ける者にとっては、愛する主が迎えに来てくださる大変喜ばしい時ですが、信じない者にとっては、さばきの時になるということです。ペテロが言っているのは、この終末の最後の審判における主イエスの使命についてだということです。
 
先週から、ユダの手紙に入りましたが、先週は教会に誤った教えが忍び込む危険に警戒することを学びました。そのためにユダが手紙を書きました。それが聖書になった。だから、私たちもユダから受け取った聖書としての手紙から、信仰のために戦う意識を持つ必要を覚えました。
 
今日の箇所はその続きです。4節でユダが言っている「彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている」と言うことの実例が5節以降で言われているということです。「昔から前もってしるされている」、「不敬虔な者たち」がこれまでどのようになっていったのか。そのことを思い起こさせるところに、今日の箇所の中心テーマがあります。
そういうことで、本日は「さばき主、イエス・キリスト」と題して、みことばに聴いてまいりましょう。
 
 
1.逆らう者にとってはさばき主イエス
 ユダは、この手紙の受け取り手である諸教会のクリスチャンたちに、背教が進んできている現状を知り、信仰のための戦いが必要との意識を持ってもらうために、思い出してほしいことを、大きく二種類に分けて記します。
 
 一つは今日学ぶ5節から16節。それは5節に「思い出させたいことがある」とあるからです。そして、もう一つは17節から23節です。それは17節にも「思い起こしてください」と繰りかえしているからです。しかも、17節以降は「使徒たちが、前もって語ったことば」です。では、今日の箇所は、何を思い出してほしいと言っているのか。
 
 5節を読みましょう。
「あなたがたは、すべてのことをすっかり知っているにしても、私はあなたがたに思い出させたいことがあるのです。それは主が、民をエジプトの地から救い出 し、次に、信じない人々を滅ぼされたということです。」
 
 ここに「あなたがたは、すべてのことをすっかり知っているにしても」とありますが、なんかぎこちない日本語になっています。この「すっかり」は、原語では3節の「ひとたび」と同じ単語が使われていて、「一回きり、きちんと」という意味の「ひとたび」です。それで先週は一度きりのイエス様の十字架の贖いの御業に対する信仰のための戦いだとお話しました。だからここでも、この手紙を受けとるクリスチャンたちに、既にきちんと聴いているはずのことを改めて思い出させたいと言っているわけです。
 
 その思い出させたいことの突破締めが、5節後半にある出エジプトのことです。次が6節にあるノアの洪水前にあった「神の子ら」の堕落のことです。そして7節ではアブラハムの時代にあったソドムとゴモラの出来事、9節にはモーセの話、11節にはカイン、バラム、コラという人物について。14節にはエノクへの言及。
 
 これらの情報は、一言でいうと何のことでしょうか。それは、基本的に旧約聖書の出来事、人物に関する内容と言えます。ですから、ユダはまず思い出してほしいことは、既によく聞いていることだとは思うけれども、「旧約聖書における主がさばかれた実例」なのだということです。だから次週取り上げる17節以降の「使徒たちが、前もって語ったことば」とは、現代で言うならば新約聖書における実例だと言えます。でも新約時代はこの当時始まったばかりですから短いです。
 
 つまり、ユダが先週から救いの手紙から切り替えて、この注意喚起の手紙を書き、伝えたい中心は、あらためて聖書をよく読みなさいということなのです。ここを、今日はまず抑えたいです。これはクリスチャンにとって、キリスト教会にとって、基本の基です。
 
 その上で、ユダはまず5節から7節までに3種類の聖書の出来事を取り上げて、そこに起こった神様のさばきに読者を導きます。その最初が出エジプト。しかし、ユダは、その旧約聖書の出来事に上手にさばき主イエス・キリストを重ねるように語り始めるのです。ここが、ユダの旧約聖書を用いた説教だとも言えるでしょう。
それは、主が民をエジプトの地から救い出し、そればかりか信じない人々を滅ぼしたのも主だと言っていることです。この主は、4節で言っている「私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリスト」のことです。
 
新しい新改訳2017では、この5節の方の「主」のところを「イエス」と訳しています。現在世界中の聖書翻訳の元本になっているギリシア新約聖書でも、ここは「イエス」となっています。ですから、やはりユダは、救い主イエス様がイスラエル民族をエジプトから救い出したヤハウェなる主であり、同時に信じないで逆らった人々を滅ぼしたのもイエスだと言っているのです。
 
更に6節では、今度は堕落した御使いへのさばき。7節では、不信者であり不道徳極まりないソドムとゴモラの人々へのさばきがあった。
 
ここにユダは、まず神に選ばれた民のうちで主を信じ続けることができなかった人びと。さらに高慢になって自分の領分から逸脱した御使いという霊的存在。そして、最初から神を信じないで好色におぼれ堕落した人々という、三種類の者たちに対するさばきが主イエスによって行われたのだと述べているのです。特に、クリスチャンにとっては、神様に選ばれているイスラエル民族の中でのさばきがあったことは他人事ではありません。
 
神様に選ばれているのに、堕落したら滅ぼされるのかと恐ろしくなるかも知れません。でもユダは、一応、それぞれのさばきには違いがあることを、そのさばきの表現を変えているように思えます。神に選ばれているのに信じなかった人たちに対しては、「滅ぼされた」(5節)とあります。堕落した御使いに対しては、「大いなる日のさばき」つまり最後の審判のために「永遠の束縛をもって暗やみに閉じ込めた」とあります。ここはペテロがその第二の手紙でも言われていて「地獄に引き渡し」とあります。そして、ソドムとゴモラの町の人々には「永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています」とあります。いずれも恐ろしいのは確かです。
 
しかし、もしかしたら選びの民が堕落した場合のさばきには「永遠の束縛」とか「永遠の火の刑罰」とは言われていないので、もしクリスチャンが堕落した場合は永遠の刑罰ではないけれども、この地上から絶たれるという意味かも知れません。ここはユダも含みを残していると思われます。また御使いが自分の領域を守らなかったというのは、私たちにも起こる罪です。神の領域を侵すことが今の現代社会では多すぎるからです。それらが影響して現在は様々な分野で社会が成り立たなくなってきています。
 
いずれにしても、そのそれぞれのさばきをされるのは主イエス・キリストだということです。私たちも、あらためて、このような旧約聖書の出来事で主を信じなかった者がどうなったかということを思い出したいと思います。そして、そのさばき主が私たちの救い主でもあるはずのイエス様であったということを心に留めたいと思います。非常に厳粛な思いにさせられます。
 
 
2.信じ続ける者にとっては救い主イエス
 それでユダは8節で「それなのに」と、更に話を進めます。これは、「既に先人たちが失敗し、堕落し、その結末がみせしめとされているにも関わらず」ということです。 
ユダはここから、旧約聖書と合わせて、当時のクリスチャンたちがよく知っていた資料の話も取り入れて、さらに思い出させようとしています。
 
 時間の都合上、一つひとつ丁寧に見ていくことができませんが、ここから、ユダは人物に絞って、この手紙を読むクリスチャンたちが、この背教の出来事を他人事ではなく、自分に起こることなのだと伝えています。
 
 9節を読みます。
「御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことはせず、「主があなたを戒めて くださるように。」と言いました。」
御使いのかしらミカエルがモーセのからだのことで悪魔と論争したことは聖書には書いていません。これは「モーセの召天」という、現在では偽典とされる文書にある出来事です。しかし、その悪魔に対するミカエルの姿勢が真理であったので、この記事を用いたと言えます。
 
 私たちにも、偽教師、偽クリスチャンとは言いませんが、みことばではなく人間的な教えをするような人に出会ったときに、どのような態度をとるべきかというヒントが、ここで言われているのでしょう。それは、この御使いのかしらミカエルがそうであったように、自分で手を下すことはせず「主があなたを戒めてくださるように」と言うべきであり、そのように振る舞うべきだということです。
 
 というのも、10節にあるように、不敬虔な者たちは、みことばで語られている真理を理解していないので、その真理をそしったり、わきまえのない動物のように滅んでいくからですと、それが自滅に向かっているからです。そこにユダはあらためて旧約聖書の人物であるカイン、バラム、コラの名前を出して、聖書を知っているはずのクリスチャンたちに、そこを思い出しなさい。もし忘れていたら読みなさいと勧めています。今日も、ここで3人の出来事をあらためることはしませんので、思い出せる方は思い出して、思い出せない方は、家に帰ってから聖書を読んで、学びましょう。
 
 結局、教会に背教をもたらす人々「彼らは愛餐のしみ」だと。キリスト教会の当時礼拝の中心であったパン裂きを始め、教会のその交わりを汚す存在であると、絶妙なたとえを用いて、その最後が「真っ暗なやみが、彼らのために永遠に用意されている」と結論づけるのです。そして、最後に、その主イエス・キリストの再臨があることを、エノクを通して語ります。エノクは創世記の系図の中に死なないで神様のもとに召された人物として僅かに記されている人物ですが、この14節の内容も、エノク書という偽典の一つです。これは今でもエチオピア正教会では聖典とされています。
 
 14節をお読みします。
「アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。『見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。』」
 
 主は最終的に千万の聖徒たちを引き連れて来られるとあります。千万というのはおびただしい数を表わすことばですので、少ないなと思わないでください。しかし、この聖徒たちの中に、私たちはいるのか、それとも、このあとに書いているさばかれる者、すなわち「不敬虔な者たち」の中にいるのか。これが、今日の最終的な問いです。
 
 ここで4節の「不敬虔な者」と16節の「不敬虔な者たち」が繋がっていて、この手紙の注意喚起の柱になっています。この背教者たちは、この「不敬虔な者たち」に集約されます。そして、あらためて主の再臨のときには、この「不敬虔な者」の罪が具体的にどのようなか。どんな者を主イエスがさばくのか。そのことに焦点を合わせるように述べます。
 
それは、このことを具体的に示すことで、この手紙を読む私たちが、「私たちは健全だから大丈夫だけど、あの人は危ない」などと思い上がらず、私こそ、その可能性がある。または今、危ない状況だと、この当事者であり得ることに気付くためです。
15節、16節。
「『すべての者にさばきを行ない、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。』彼らはぶつぶつ言う者、不平を鳴らす者で、自分の欲望のままに歩んでいます。その口は大きなことを言い、利益のためにへつらって人をほめるのです。」
 
 その具体的なこととは、神を恐れないだけでなく、神を恐れないで犯したいっさいの行い。ここでは「神」と言っていますので、主イエスを含めた三位一体の神そのものを恐れない不信仰であり、そこから犯した罪の行いのすべてです。そして、次は「主」に言い逆らった無礼全部です。そういう者から出るのは文句と不平。それは主が中心でなく自分の欲望が中心だということです。
 
 この欲望は、初めは小さなことから始まりますが、それがやがて7節のソドムの罪のように「不自然な肉欲」へと進化します。その口は主に感謝し賛美するのではなく、文句と不平だけでもなく、人を賛美し、自分を賛美し、いつもその思考の中心には自分にとって損か得か、です。そのために人を賛美する。
 
 このように、神を信じている、イエス様をキリストだと口では言っていても、行動に現れる不信仰、いや不敬虔のゆえに、本来、喜んで待ち望むべき主イエスの再臨が恐怖となってしまうのだ。そのことをユダは伝え、警告しているのです。確かに大変、恐ろしいことを思い出しなさいと言っています。でも、救いの素晴らしさを語るよりも、このことを語らざるを得ないくらい、教会が教会でなくなること、クリスチャンがクリスチャンでなくなることに、旧約聖書を用いて警鐘を鳴らしているのです。
 
 
結び
 さばき主、イエス・キリスト。皆さんにとって、イエス様は、真に救い主でしょうか。それともさばき主でしょうか。イエス様は救い主なのに、どうしてさばくお方でもあるのでしょうか。
 
 使徒ヨハネ福音書の中でこう言っています。
「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」ヨハネ3:17
 
 世が救われるためにイエス様が来て下さったと書いてある。なのに、どうしてさばくのか。ヨハネはこのみことばの次にこうも言っています。
「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」
 
 だから、本当はイエス様が来られたのは、私たち罪人を救うためであったことが大前提なのです。だから、まずイエス様を信じることが大切です。そうすればさばかれないばかりか、永遠のいのちを持つためであるとあるとおりに、永遠の祝福が約束されているので大丈夫なのです。
大事なことは、ここからです。この主が私のために天のお父様から切り離されて来て下さったこと。その意味をいつも思い出すことです。それは、私たちが主からの恵みを忘れてしまったり、当たり前になったりしやすいものだからです。知らないうちに、感謝がなくなり、文句や不平が出てしまうような弱いものだからです。恵みを放縦にしやすい私だから、あなただからです。
 今日のキーワードは「思い出すこと」でしょう。それは、いつもそこに意識を置くということです。それは信じ続けるためです。今日の箇所では旧約聖書にある主のさばきを思い出すことが勧められていました。そして、さばき主こそ、主イエス・キリストであるということが示されていました。
 
 なぜユダは、神と書けば良いことをあえて「主」と書いて、主イエス様がさばくお方であることを強調したのでしょうか。それは、背教が「私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定」することだったからです。このイエス様が、さばき主であるのは、彼が神であるからです。でも、それだけではありません。
 
 そもそも、私たちすべての人がさばきに会わないために、永遠の滅びに行かないように、その神であるお方が何をしてくださったか。そのことをあらためて思い出すためです。そのためにさばき主である聖なるお方が、人となって来てくださって、何をなさったか。
それは私たちが受けるべき「最後の審判」を、あの十字架の上で受けてくださったということです。本来、神であり救い主であり、やがてさばくために来られる方が、先に「不敬虔な者」としてさばきを受けられた。ここに愛があるという、その出来事です。
 
そのことを日々思い出し、ぶれずに信じ続けるならば、再臨の主はやはり私たちの救い主キリストなのです。主は私たちに滅んでほしくないからこそ、まずご自分を犠牲にされたことを今日、ユダが勧めるように思い出したい。そして天のお父様も愛する御子をさばくという、ご自分と一体であったはずの御子を切り離したという大きな痛みを味わわれて今の私たちへの救いがあることを思い出したい。
 
そのような神様からの大きな愛のプレゼントを忘れることがないように、主イエス様が私たちにとって恐ろしいさばき主ではなく、「我に来たれ。我、汝らを休ません」と言われ、私たちをも神の子どもとするためにいのちを捨ててくださったきわめて優しい救い主であることを、今週も毎日みことばを通して、ともに思い出していこうではありませんか。