日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

2021年12月26日 礼拝説教

説教題 「礼拝に招かれた羊飼いたち」
聖書箇所 ルカの福音書2章14~20節
 
 

 ちまたではクリスマスが終わり、お店のBGMは、クリスマスソングからお正月の歌へ。店頭に並んでいるのはクリスマスの飾りから正月の締め飾りに切り替わりました。
 私も幼い頃から、このような雰囲気に慣れているので、いよいよ大晦日で正月が来るという気持ちの流れがあるなと思います。私が子どもの頃は、年末のレコード大賞があったり、漫才の特別番組があったりして、NHK紅白歌合戦を見ながら一年を終えるという、一つの流れがありました。クリスマスは一年の終わりのしるしのような位置づけです。
 
 でもクリスマスは実はエピローグでありつつプロローグでもあります。一年の終わりでもあり初めでもある。イエス様のことをαでありωであるお方と言いますが、まさにそういう意味がクリスマスにもあると言えます。
 
 救い主が初めて肉体をとってお生まれになった初臨という意味ではα、つまり初め、プロローグです。しかしアドヴェントから続くクリスマスには、もう一つ意味があって、救い主イエス様がもう一度来られる再臨と重ねて待ち望むことも大切です。その再臨によって、この天と地が終わるからです。まさにエピローグ。でも、そのあとに新しい神様の御国が建てられるのです。そこから、新しい天と地が始まる喜びのときでもあります。それは完成した神の国の始まりです。
 
 ですから、私たちも2021年を振り返りつつ、2022年への展望を持ってこのときを過ごしたいものです。それで、今朝の聖書のみことばは、昨日がクリスマスですから、その続きの箇所にしました。それで、読んでいただく箇所も、予定とは違って14節の天使の賛美からにしていただきました。というのも、今日の説教題を見てお判りのように、今朝は「礼拝に招かれた羊飼いたち」から学ぼうとしているのに、その礼拝の大切な部分を省いてしまっては、片手落ちとなってしまうからです。
 
 今日の箇所で羊飼いたちが赤ちゃんのイエス様にお会いし礼拝します。その礼拝はどこから始まっているでしょう。それは、10節から14節がまでが招きの詞であり、14節の天使の歌は、礼拝における前奏のようなものです。それは神様からの招きを表わしている部分です。それで、今日の白石教会の礼拝でもその天使たちの賛美を神様からの招きの詞として、司会の方に語っていただきました。
 
 そういうことで、2021年最後の礼拝は、この羊飼いたちの礼拝を通して、あらためて礼拝者としての私たち自身を見つめ直していきたいと思います。特に16節にある「急いで行って」、そして17節の「告げられたことを知らせた」、最後に20節の「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」。この3つの羊飼いたちの行動をともに見てまいりましょう。
 
 
1.急いで行って(16節)
「そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。」
 私はいつも、何でも急いでしまう癖があります。とにかく、どんなことも10分前、30分前、1時間前行動です。これは恐らく、これまで務めてきた仕事のせいだと思います。それは、私はもともとはぼーっとした子どもだったからです。しかし、電話工事の仕事で、お客様の希望の時間に合わせて仕事をしているうちに、そうなったと思います。
 
 一日、平均10件前後の家に、それぞれの希望通りに行くためには、一件目の家には8時とか、早い時で7時に着いて、出来るところからでも始めさせてもらわないと、とても最後のお客様の希望する時間には間に合いません。というのも、もう何度も時間に遅れて叱られてきたことがあるからです。今でも、夢を見るのはその夢ばかりです。今もなかなか牧師をしている状態の夢は見た覚えがありません。いまだに電話工事で大変な現場に当たってしまい、遅れていく夢ばかり見ます。
 
 でも、ここで言っている「急いで」という意味とは違います。私の場合は、お客様に叱られるからとか、NTTの評価が下がるとか、そんな理由です。しかも、それは仕事の話であり、この羊飼いたちが急いだこととは意味が異なります。羊飼いたちが「急いで」と言っているのは、あくまで主を礼拝するためであり、そこにあるのは遅れたら叱られるというネガティブな理由ではなく、わくわくして、早く行きたいという、ポジティブな理由です。
 
 ここに、この羊飼いたちの行動を通して、礼拝における大切な姿勢を学びます。それは、恵みへの応答としての礼拝であるということです。羊飼いたちは、家にも帰れないで、羊を相手に野宿するのが当たり前でした。エルサレムの神殿で礼拝するどころかユダヤ人の会堂にすら行けません。そんな彼らに主は現れてくださって、救い主を礼拝するという、これまで誰も経験したことのない礼拝に招いてくださった。
 
 このような貧しい自分、惨めだと感じていた自分に、何と神様が目を留めてくださった。マリヤもその讃歌の中で言っていましたね。
「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです」と。
 だから「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます」と歌ったのです。その感謝と喜びを羊飼いたちも味わったということでしょう。「低い者を高く引き上げ飢えた者を良いもので満ち足らせ」というマリヤの預言がここで成就しているのです。
 
 私たちも、この心と行動を学びたいですね。神様へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神様は、それをさげすまれないお方です。その慈しみ深い主の憐みに触れた時に、このような低い者を選んでくださって、このような神の子どもとしての身分が与えられた。飢えた者を悪いもの、偽物ではなく、良いもの、最善の最良のもの、つまりかけがえのない御子によって満ち足らせてくださった。ここに立つときに、聖霊によって主に対する感動が与えられ、それが礼拝へと向かわせる原動力になるのです。
 羊飼いたちは、その主を礼拝するために、これまでできなかったけれども、羊よりも礼拝を優先することになった。そこにもチャレンジがあったでしょう。でも、大丈夫。神の国と神の義を第一とするときに、必ず必要は満たされます。
 
 
2.告げられたことを知らせた(17節)
 羊飼いたちは御使いに言われたように、救い主を無事に見つけることができました。それは、羊飼いたちにはしるしが与えられたからです。それが救い主は飼葉おけに寝ているというしるしです。こんな赤ちゃんは他にいません。非常に珍しい。家畜の毛や臭いが付いた薄汚れた飼葉おけ自体は、羊飼いにとっては何ともないことです。そのレベルにまでイエス様が降りて来られたということでもあります。
 
 その主のへりくだりによって、羊飼いたちは飼葉おけに寝ておられる赤ちゃんのイエス様と出会うことが出来ました。ところが、ここですぐにひれ伏して拝むのかと思いきや、彼らがした行動が、今日、二つ目のポイントです。それは、「この幼子について告げられたことを知らせた」ということです。これはどういう意味でしょうか。礼拝に来てイエス様について告げられたことを知らせるとは。
 
 これは、礼拝者一人ひとりが神様からいただいたみことばの恵みを分かち合う大切さを表わしているのではないでしょうか。恵みは神様からそれぞれに一週間を通して与えられるでしょう。その恵みを教会に集まって分かち合う。これが私たち礼拝者の大切な行動と言えるでしょう。説教者が聖書からメッセージを語るのは、実は、この理由と同じです。皆さんに対して一方的に聖書の学びをしているのではありません。
 
 私も説教者として教えを説くというよりも、私が神様から聴いたみことばの恵みを分かち合っているだけです。その恵みの喜びや教えを、このようなかたちで分かち合っているのです。説教は一方通行ではなく、対話です。だから、皆さんの表情や存在によって跳ね返ってくる皆さんの応答があって、ようやくお分かちできているのです。ですから、今後、ちょうどよいタイミングが与えられたら、礼拝後に分かち合いのときを持てたら良いなと思います。
 
 今はコロナがまだ終わっていないので、もう少し警戒する必要があると思いますが、ぜひ受けた恵みを語り合う、分かち合う、そのような霊的な交わりができると、教会は益々成長するでしょう。世間話よりも、信仰の証しを互いにできる礼拝、恵みを他の人たちにも「知らせ」合う教会は廃れません。それは、一人ひとりが、日々の信仰生活を生ける神様を感じて生きることになるからです。日々、聖書から御心を知らされ、祈りの生活はクリスチャン個人を育てます。そこに聖霊が働くからです。その聖霊の働きを意識して歩むならば、必ず分かち合う恵みが自然と溢れて来るでしょう。
 
 また楽しいことばかりでなく苦しいことや悲しいことも分かち合えることも大人の教会としては大切です。せっかく弱さを打ち明けても「そんなんではだめ」と否定されたら、誰もこの中で弱さを打ち明けて互いに祈ることはできません。礼拝を大切にして「急いで」いの一番に教会に来て、礼拝をささげ、自分の弱さを皆さんの中で分かち合っても、「私は気持ちが強いからそうは思わない」とか「くよくよするのがよくない」とか言われたら、もう弱さを打ち明けることをしなくなるでしょう。
 そうなると弱さを見せられない教会。弱い人を叩きのめす教会となってしまい、それこそイエス様を外に追い出す教会になってしまいます。そうなったらそれはキリスト教会の名を語った偽物教会になります。それだけは避けたいです。
 
 だからこそ、この羊飼いたちが「幼子について告げられたことを知らせた」ように、恵みを分かち合うこと、分かち合えるようになっていけるように、言い換えると、教会がイエス様ご自身のように、すべて疲れた人、重荷を負っている人が安心して、その重荷を下ろせる教会であるように、これからも祈りつつ意識して歩んでいきたいと思います。
 
 その羊飼いたちの話を聞いて、それを聞いたその家畜小屋に居た人たちは、みな、その話したことに驚きました。これが、恵みを分かち合って生まれる恵みの広がりです。その恵みの知らせが、多くの人たちへの恵みとなって溢れ出ている。だから、みな驚いたのです。私たちもぜひ、互いに証しを語り合い、驚きたいです。神様がどんな恵みをくださったのか、その恵みを私はどう受け止めたのか、あなたはどう受け止めたのか、互いに驚き合いたいものです。
 
 
3.神をあがめ、賛美しながら(20節)
 この羊飼いたちの礼拝は、ある意味、恵みの分かち合い中心の礼拝となりました。東方の博士たちの礼拝とは違う特徴があります。でもどちらの礼拝も聖書は受け入れています。
 
ひれ伏して黄金・乳香・没薬という価値あるものを通して自分自身をささげる礼拝もあるし、貧しくても、特に何も持っていなくても、今自分にできる最善を尽くして、自分の時間、仕事をささげ「急いで」みことばの恵み、その証しを「知らせ」る礼拝もあります。それで聴いた人たちにも驚くくらいの主の恵みが広がりました。
 
でも何よりもそれを語った羊飼いたち自身に大きな変化が起こりました。それが20節です。
「羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」
 羊飼いたちは、ある意味、みことばの恵みを分かち合うことで、語った方も恵まれているということを表しています。みことばの分かち合いは、もちろんそれを聞く人にも恵みを与えます。しかし、ここで今日学ぶもっとも大切なことは、礼拝を通して、さらに神をあがめ、賛美するということです。しかも、今日、特に注目したいのは「賛美しながら」という言葉です。
 
 これは神様を崇めること、賛美することは、教会にいるときだけではなく、その生活すべてにおいて起こることだということです。使徒ペテロはこう言っています。
「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」Ⅰペテロ1:8、9
 
 羊飼いたちもイエス様に出会って、信仰を持ち、救われたのです。彼らの帰りの足取りは来るときよりも軽やかだったでしょう。これまで経験したことのない嬉しい出来事が彼らの人生に起こったのです。それが、「賛美しながら」という生き方となって現れたのです。神様を賛美しながら生きることは、すなわち、私たちも世の光として輝くことを意味しています。
 
 真の世の光であるイエス様を信じる者は、信じる私たちも世の光となります。または地の塩とも言います。それは、私たちがこの世の闇に対して、そこを照らす輝きを持ち、塩としてきよめる働き、キリストの福音と言う味をこの世に浸透させる役目があるからです。
 
 羊飼いたちも、野宿で夜番をしていた、この世の闇の中に取り込まれてしまっていた人たちでしたが、イエス様と出会い、礼拝を通して今度は彼ら自身が世の光とされて、その暗い夜道すら神への賛美によって照らしていく存在とされたのです。
 
 
結び
 今日は2021年最後の主日礼拝となりました。私たちの歩みは信仰生活と言いますが、それが同時に教会生活であり、礼拝生活でなければなりません。信仰と教会と礼拝は切り離せないものです。でも、信仰が形式化して来ると、教会に集まることや、礼拝することが億劫になって来ます。それは、心に神様への感謝が薄れるからです。それは私もそうです。かたちだけになりやすい弱さを持っています。この一年間もそうならないように、意識して来たのは確かです。
 
 でも、だからこそ、神様はやはり聖書のみことばを通して語っておられるのです。今日は、礼拝に招かれた羊飼いたちの姿を見て来ましたが、そこには礼拝者としての3つのポイントがありました。
 
一つは、「急いで」という言葉にあったように、何よりも礼拝を第一にする信仰者の姿がありました。二つ目は「告げられたことを知らせた」にあったように、恵みを独り占めしないで分かち合うことの大切さを学びました。そこに、どんなことも話せて祈りあえる教会の姿があることも学びました。そして、三つ目は「賛美しながら」とあったように、私たちの歩みは賛美の人生であるということです。主はイスラエルの賛美を住まいとしておられると詩篇にありますが、どんなときでも主を崇める生き方、口から賛美が溢れる人生、それが今、私たちに与えられている新しい人生であるということです。
 
 このことを思いつつ2021年を振り返って、私は礼拝者としてどんな歩みだったか悔い改めつつ、新しい年を迎えてまいりたいと思います。ぜひ、ともに、主を愛する礼拝者として、来年も一緒に心から主を礼拝させていただきましょう。