のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

2022年1月9日 白石教会礼拝説教

説教題 「救い主のしるし」

聖書箇所 マタイの福音書16章1節~4節

 

 今日から始まるマタイの福音書16章は、まさにイエスというお方はだれなのか。そこに大きなポイントを置いている箇所です。その中心は16節のペテロによる信仰告白です。

「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

 

 イエス様は、この信仰告白に「わたしの教会」を建てると言われました。ですから、この16章はマタイの福音書の中でも大切な位置にあります。イエスこそ、神の御子であり救い主である。それは、これが、キリスト教会において、もっとも大切な真実の告白だからです。私たち白石教会も信仰告白が与えられましたが、その原点はここにあります。主が「わたしの教会」と言われたキリスト教会として、置かれたこの時代、その社会の中で、「私たちはここに立ちます」という表明がとても大切だからです。

 

 それで、そこまでの導入として、これまでのお話があり、今日の箇所があります。実は、14章の後半にある5000人の給食から15章後半の4000人の給食まで、パンにまつわるエピソードがちりばめられています。それは、イエス様こそ真のいのちパンである、生ける神の子キリストだからです。

 

 ですから、今日お読みした1節から4節は、5節以降で言われている「悪いパン種」を表わすパリサイ人、サドカイ人が登場します。それは彼らに代表される「誤った教え」がはびこる時代における私たち信仰者の立つべきしるし(サイン)を主イエスは指し示しているからです。

 

 それで今日の箇所を通して、この世が求めているしるしではなく、イエス様が指し示しているしるしにこそ目を留め、それを携えて立つ大切さについて聴いていきたいと思います。

 世の中には多くのしるし(サイン)があり、多くの人が求めているしるしがあります。しかし、まことのパンであるイエス様ご自身は、どのようなしるしを私たちに指し示しているでしょうか。

 

 

1.不信仰は真理を見えなくする

1節「パリサイ人やサドカイ人たちがみそばに寄って来て、イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ。」

 パリサイ人とサドカイ人たちとは、当時のユダヤ教の教派名です。大きくパリサイ派サドカイ派に分かれていて、宗教的な意見の違いから対立していた人たちです。

 パリサイ派旧約聖書全体を重んじ、復活と死後のさばきも信じていましたが、律法を行うことで義とされると教えていました。つまり自分の力で神様の律法を行えると信じて、律法を行えない人を蔑む傾向にあった人たちです。このパリサイ派の教えが当時の一般的な民衆にも浸透していました。

 

 他方、サドカイ派モーセ五書だけを重んじ、宗教的な儀式を守ることのみを大切にしていた人たちで、復活も死後のさばきも御使いや悪魔も信じておらず、極めて現実主義的で政治的な色彩の強いグループです。多くの祭司や政治家などの裕福な人たちが、このグループに属していたと考えられています。

 だからパリサイ派とは信仰における考え方がまったく違うので普通は一緒に行動するようなことはありません。

 しかし、共通する目的のためには、互いの違いを乗り越えて結託する姿がここに記録されています。

 ここに、このマタイ16章における、信仰者としての誤った一致に対する皮肉があるように思います。もちろん対立とか争いは良いことではありませんが、「イエスは生ける神の御子キリストです」という真理に立つのではなく、真理ではないことで一致し、かえって真理から逸脱してしまう愚かさがここにあるからです。

 しかも彼らは「天からのしるしを見せてください」と頼んだとありますが、その心は「イエスをためそう」ということでした。

 

 神様を試すことは良くないことです。でも、かつてのモーセのように、神様に召されていく中で、自分に自信がなくて、神様を信じたいけれども、なかなか一歩が踏み出せないときなどは、神様の方が何度も寄り添い、決断するまで促します。そのあと主の怒りがモーセを襲いますが、それも恐らくモーセのためには必要なプロセスだったでしょう。士師記のギデオンの召しのときにも、同じことが言えるでしょう。マラキ書を見ると、十分の一の献げ物のことで、神様ご自身が「わたしを試して見よ」と仰っています。ですから、主を信じ、信じてついてこうとするプロセスの中での主を試すことはあると思います。

 

 しかし、ここで言っている「イエスをためす」というのは、先に不信仰ありきです。主イエスを初めから信じない。むしろ、イエス様が目の前でしるしを行っていても信じず、かえって、このように更に陥れる口実を見つけようとする不信仰によって、主を試すことは大きな罪です。彼らは、イエス様の事を妬み憎むというフィルター、こんなやつはメシアではないという先入観によって、真理が見えなくなっていたのです。そういうとき、人は自分の基準で「こういうことをしたら信じる」とか「神を見せてくれたら信じる」と言って、自分のニーズに合ったしるしを求めます。

 

 私たちは、その誤ったニーズをきちんと見極めていく識別力が必要です。教会、クリスチャンとして社会のニーズに応えていくことは大切です。でも、福音の真理から遠ざかっていくようなニーズと、世の光としての使命を果たせるニーズとを見分ける霊的な識別力が求められます。

 

 

2.誤ったしるしを見分ける

 ここでイエス様は、彼らの求める「天からのしるし」に対して、天気の見分け方を取り上げ、その時代に起こる出来事を識別しなさい。そして、その中でわたし(イエス)とは誰なのかを見分けなさいと言われます。2節と3節。

 

「しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、夕方には、『夕焼けだから晴れる。』と言うし、『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ。』と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。」

 

 パリサイ人とサドカイ人たちがイエス様を試して求めたのは、神から遣わされたメシアだというのなら、天からの、そのしるしを見せなさいということです。そこでイエス様は、誰もが知っている、天気の予想方法を取り上げます。

 

 『夕焼けだから晴れる。』とか『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ。』と、一つのサイン(しるし)によって、そのあとどうなるのかという判断を普段、普通にしている。特別な預言者でなくても、当たり前に天気の予想をしていながら、どうして、今、目の前で起こっていることによって、メシア到来の時期を見分けられないのか。そこから、わたし(イエス)が誰なのかを識別できないのですかと指摘しているのです。

 

 というのも、イエス様がこれまで行ってきた業、教えを聞いた人たちがどうなっていったのか。目の見えない人が見えるようになり、耳の聞こえない者は聞こえるようにされた。まさに荒れ地のような人生を歩んでいた人びとがイエス様によって泉が湧き出るように癒されていったのです。その人生が変えられていったのです。その事実にこそ、イエス様が誰なのかを明確にする証拠があるからです。それは旧約聖書で預言されていたメシアの記事を知っていれば、誰でも認めざるをえないことだからです。それが今日お読みした交読文であるイザヤ書35章に書かれています。

 

 聖書によって指し示されたことがイエス様によって実現している。なぜ、そのことによって識別できないのか。そういうことです。でも、パリサイ人、サドカイ人たちは、霊の目が不信仰によって閉ざされており、そのことが受け入れられなかった。聖書の先生でもあるパリサイ人たちも、イエスを信じない罪のゆえに、聖書の預言が目の前で起こっていても認めなかったのです。

 

 ここに、多くの人が期待する宗教観というか、多くの人が好む信仰があると思います。私たちの暮らす現代社会もポストモダンと言われ、絶対的なものを否定し相対化させ、個人主義が根付いています。でも、朝のテレビ番組でも必ずやっているのが「占い」です。それは、やはり現代の人びとの多くは、キリスト教に限らず既存の宗教ではなく、自分個人として密かに気になっている自分の運勢は気になります。だから星占いでその一日の運勢を知って、一日の励みにしたいからでしょう。

 

 多くの人は、確かな信仰、宗教と言うよりも、自分の未来を予想させてくれる程度の予言、占いに興味を持ちます。昔、流行ったノストラダムスの大予言も、その類です。当時は映画にもなったし、たくさん本も出版されて、私の小学生時代には予言博士みたいな友達もいました。

 

 つまり、そういうニーズがあると言うことです。少し先の未来のことを教えてほしい。それがわかれば、少し不安なく過ごせるという欲求はわかります。私もクリスチャンになる前は、心から信じていたわけではないけれども、おみくじや占いには興味がありました。恐らく多くの日本人は、正月に初詣をしたり、お盆には墓参りをして、それを怠らないでやることで、不安がいくらか紛れるのではないでしょうか。

 

 でも、そこで、そのようなニーズがあるからと言って、キリスト教会が占いやおみくじや予言をすることは正しいでしょうか。それは間違ったニーズへの対応となります。占いは旧約聖書で厳しく禁じられていますからもちろんダメです。真の神様を信じている人が、他の霊的な力に依存するようなことはあってはなりません。同じように未来を言い当てようとする予言もだめです。

 

 聖書における預言とは未来を言い当てることが目的ではありません。預言の「預」の字が違います。あくまで神様から預かった言葉を語ることが目的であり、それによって神様の栄光が現わされなければなりません。

 

 現代でもときどき現れる未来を予想する予言者は、未来を言い当てることが「しるし」となって周囲を驚かせ、凄いと思わせます。それは神の栄光ではなく、未来を言い当てて凄いと思われる自分の栄光にしかならないでしょう。ですから、占いとか予言などということを、キリスト教会が社会のニーズとして応えていくことは誤りです。また、最初は凄いと思われていたことでもすぐに当たり前になり飽きられてしまい、実は奇蹟にはきりがありません。スプーンまげも、昔はみんな驚きましたが、今は手品でも簡単にできるとわかって、色々な人が普通にやって見慣れてしまっています。だから、イエス様が癒しや悪霊の追い出しすることも、見慣れてくると魔術師でもできると揶揄するのです。

 

 ですから何が最善で神の御心か、神の栄光を現わすのかをよく吟味する必要があります。

 現代を生きる私たちは、誤ったしるしによってではなく、キリスト教会として正しいしるしにのみ立ち、そのしるしを掲げていくことが肝心なのです。

ではイエス様が指し示した、そのしるしとは、何でしょうか。それは彼らの期待とは大きくかけ離れたものでした。それが、4節です。

 

 

3.正しいしるしによって

「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」そう言って、イエスは彼らを残して去って行かれた。

 ここでイエス様は、以前も言われたヨナのしるしのことをもう一度、ここでも語られました。

 ヨナ書については、一昨年の暮れに連続講解説教をしましたが、旧約聖書のヨナ書に登場する預言者ヨナの事です。彼は神様からニネベという町に宣教に行けと命じられます。ところが、ヨナにとってニネベと言う町は敵であるアッシリア帝国の首都だったので、とても宣教する気にはなれませんでした。それで、その町とは逆方向の国へ逃げようとするのですが、神様は海に嵐を起こさせ、ヨナは海に投げ出されます。

 

 そこで神様が用意したのが大きな魚でした。ヨナは、その魚に呑まれて三日間、死んだも同然の中で神様と出会い、祈り、悔い改めて、魚から吐き出されるということが描かれています。イエス様は以前、マタイ12章で既にそのこととご自分の死と復活を重ねて、このしるし以外にしるしはない。つまり、死と復活こそ、真のメシアとしてのしるしであるということでした。

 

 ですから、ここでイエス様はヨナのしるしのことをあらためて言われたのは、目前に迫る、これからご自分が臨む、十字架の死とそこからの復活という出来事こそ、真のメシアが行うしるしであり、そこを見極めて、わたしが誰なのかを知りなさい。見分けなさいと言われたのです。

 

 「悪い、姦淫の時代」それは、もうこのときのイエス様の時代には始まっていました。だから、聖書の先生であるパリサイ人や、当時の礼拝を司る役目であったサドカイ人たちは、天から降る、何か不可思議な、誰もが驚くような奇蹟を求めたのです。それは、これまでマタイの福音書の中で、イエス様が行ってきた奇蹟以上の奇蹟を求めていたということでしょう。それは、旧約聖書で預言されていたメシアとしての証拠になるべきしるしではなく、彼らの価値観と欲求と悪意に立った、的外れな求めでした。

 

 しかし、イエス様が示されるしるしとは、ヨナのしるしに重ねられた救い主は殺されるというネガティブな内容であり、そのあとに復活するということも、サドカイ人にとってはありえない空想話でした。つまり、彼らのニーズには合わないことが、真のメシアのしるしだということです。

 

 このことについて使徒パウロもこう言っています。

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Ⅰコリント1:18)

 そして、的外れなしるしを求める人々に対してもこう言っています。

ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を要求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」(Ⅰコリント1:22,23a)

 

 ユダヤ人たちは「しるし」を要求すると言われています。それは自分たちが納得する奇蹟を求めているということです。つまり、イエス様がこのあと臨む十字架刑で死んだ男なんか愚かだ。それは負けた証拠であってメシアとしてのしるしではないと言っているということです。またギリシア人が知恵を要求するとは、イエスの十字架には知恵がないと馬鹿にしているということです。 

 

 このことは日本人の私たちにもある感覚です。私たちもユダヤ人のように不思議なしるしを求めるものです。神様のことは信じなくても幽霊やオカルトのような悪霊の働きに興味を持ちます。また、学歴偏重社会、科学至上主義が先だって、聖書以上に科学における仮説が優先されます。そして聖書の教えが古いとか、科学では証明できないから嘘だとか言われます。

 

 いずれにしても、神様がせっかく示されたメシアのしるし、救いのサインなのに、自分の中の悪いパン種が邪魔をしてそれを認められないのです。

 ですから現代は、ますます「悪い、姦淫の時代」が拡大し、深刻になっている世界だと言えます。個人が大切にされることは大事なことですが、真の神様を退け、自分中心の価値感や、自分中心のルールが蔓延することで、結局はすべての善悪を見分ける識別力もそれぞれ個人の基準であり、個人崇拝主義の思想、芸術、文化が生まれ、神なき世界は混迷しています。

 

 つまり神なき世界は自分こそが神になるという、偶像崇拝の極みなのです。「悪い、姦淫の時代」とは性的な堕落もさることながら、人間が神に造られた者としての本分を忘れ、自分を神とする、神でないものを神とする神様への姦淫であるということでもあります。自分を信じるという言葉もよく聞きますが、そのような自分崇拝のような状況が生み出すものは、神を忘れたこの競争社会であり、勝ち組、負け組という二分化であり、行き場を失った人たちは、希望を持てずに自分のいのちを絶つという悲劇です。

 また、無差別に人を殺害する事件が多発しています。昨年も電車の中での殺人事件があったことは記憶に新しいです。

 

 

結び

 このように、私たちが暮らす現代は、イエス様が言われた「悪い、姦淫の時代」の末期的状況であることは明白です。

 

 しかし、だからこそ、この時代に、この社会に福音を届けなければならないのです。しかし、その福音とは、世の中の人びとが愚かに思う十字架につけられたキリストです。でも、その福音はあってもなくても良いものではありません。その人が必要だと気付かなくても、それはその人個人にとって、いやすべての人間、被造物、全宇宙にとって、絶対に必要なしるしなのです。なぜならば、それがなければ神の子どもとなることも、永遠のいのちをいただくことも、この世界が神様の御心にかなったかたちに回復されるためにも欠かせない唯一無二の救い主のしるしだからです。

 

 今週も、この福音という真のしるしに立って、この時代に、この社会に、十字架につけられたキリストを宣べ伝えてまいりましょう。