のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

2022年1月16日 白石教会礼拝

説教題 「パン種に気をつけよ」
聖書箇所 マタイの福音書16章5節~12節



 先日、ある方から「生食パン」というパンをいただきました。「生(なま)」という言葉がついているので、生焼けのパンのようなイメージを持ちますが、生クリームを使用しているという意味だそうです。生チョコレートと同じ意味です。確かに生クリームが入っているだけあって、甘みが強い感じがしました。それにも増して、ふかふかで、焼き立てもおいしいのですが、少し焼いてトーストにしてもとても美味しかったです。
 一方、先週は聖餐式がありましたが、そこでもパンを食べました。でも同じパンなのに、まるで違う食べ物のようでした。その大きな違いは何でしょうか。生クリームの違いでしょうか。いいえ。そうではありません。小麦粉を練るところまでは一緒ですが、そこから先の手順が違います。

 今、白石教会の聖餐式で使用しているパンは、別名「種なしパン」と呼ばれるもので、イースト菌を入れない、発酵させないで、練った小麦粉をすぐに焼いて作ります。まさにイエス様と弟子たちが最後の晩餐で過ごした過越しの食事と同じように、素朴に、短い時間の中でイースト菌による発酵を省いて作っています。だから、パンと言うよりはクラッカーのようなパリパリ感があって食感がまったく違います。パンは、発酵させるパンとそうでないパンとでは、同じパンと言っても、全く違う食べ物になるのです。
このようにイースト菌、すなわち「パン種」による発酵によってパンが変わるということを、聖書では譬えで多く用いられています。そもそも聖書自体が「パン」という言葉が多く出てきます。それは、この当時の人たちの主食だったからです。主食は毎日生きるために欠かせないエネルギー源です。生きていく上で、なくてはならないものです。特に新約聖書においては、その命を繋ぐための大切なものとしての意味合いで多く使われています。

 そこから永遠のいのち、すなわち今、私たちが読んでいるマタイの福音書16章の文脈でいうならば、26節の「まことのいのち」を与えるパンであるイエス様のこと、またそのみことばのことと重ねられて用いられています。ヨハネ福音書では、イエス様ご自身が、ご自分で「わたしがいのちのパンです」と言っておられます。
 ですから、私たち主の弟子は、そのいのちのパンであるイエス様、その教え、みことばを純粋に、福音をそのまま信じれば良いのです。混ぜ物なし、偽物のなしです。素朴な種なしパンをいただくように、キリストご自身をそのままの恵みとして頂けば良いだけです。
 しかし、今日の箇所はそういう私たちイエス様を信じる者たちに、イエス様ご自身が警告を与えているのです。この世に置かれた主の弟子として、どんなことに注意すべきか。前回は「しるし」のことに触れました。この世の求める「しるし」と聖書が指し示す「しるし」には大きな隔たりがあることを学びました。この世では、自分の利益になる価値観によって、自分が満足するしるしを求めるのに対し、聖書が指し示すしるしは、この世の常識では愚かと言われる「十字架につけられたキリスト」でした。
 今日は、その連続の中で語られている「パン種」についてともに考えてまいりましょう。「パン種に気をつけよ」


1.イエスの教えを曇らせる主の弟子
 先週のパリサイ人たちとの問答を行った場所から、今日の5節以降から場所が変わります。それまではマガダン地方という、ガリラヤ湖の西側にいました。15章39節に「マガダン地方」と書いてあります。いわゆるマグダラという町のあたりだと言われています。そこから東側へ移動しました。
 イエス様と弟子たちはいつもこのようにガリラヤ湖を挟んで、行ったり来たりしています。そして、たいていは舟で移動していました。このときも、おそらくイエス様から、また向こう岸へ行こうと言われて、急いでそのとおりに行動していたのでしょう。5節を見ると、「向こう岸へ行った」とありますので、また舟に乗って移動したことがわかります。

 ところが、弟子たちは慌ててイエス様についてきたために大事なことを忘れていました。それは、パンを買って来ることです。イエス様も含めて13人分の食料ということです。でも、忘れてしまったことを互いには分かっていたものの、イエス様には言っていませんでした。きっと叱られるかも知れないと思ったのでしょう。でも弟子たちの頭の中は「パンを持って来るのを忘れた」ことでいっぱいです。
 こういう時って、気持ちが上の空で、誰かが何を話していたとしても、まともには聞けません。心配なことで頭がいっぱい、心が騒いでいて、イエス様のことばすら、自分たちの心配事に引っ張られて、頓珍漢な会話になっています。イエス様が言われたのはどんなことだったでしょうか。6節。
「イエスは彼らに言われた。『パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。』」

 「注意して気をつけなさい」とは、言葉が重複しておかしな日本語ですが、原語のギリシア語でも「見なさい」「気をつけなさい」と二つの命令が語られていて、イエス様はそのくらい、ここは注意しなさい。気をつけなさい。目を凝らしていなさいと警告しています。新しい訳では「くれぐれも用心しなさい」となっています。
 このイエス様の命令はマガダン地方でのパリサイ人やサドカイ人たちとのやりとりを通して、イエス様が弟子たちに伝えたかったことです。パリサイ人たちとイエス様とのやり取りを見ていた弟子としては、その主のみことばにしっかりと耳を傾けるべきでした。

 ところが、弟子たちの頭は「パンを忘れてしまった」という他の問題でいっぱいで、イエス様のお話を正しく聴きとれなくなったのです。7節。
「すると、彼らは、『これは私たちがパンを持って来なかったからだ』と言って、議論を始めた。」
 弟子たちは、イエス様がパン種のことを話されたことで、そこから、パンをもって来なかったこととリンクして、もうパンを忘れた話にしか聞こえない。パンを忘れてしまったという心配事のフィルターがかかってしまって、もう正しいメッセージが聞き取れなくなっていたのです。

 このようなことは、私もよくあります。他のことで頭がいっぱいで相手の話がよくわからない。または、自分の心配していることが先にあるので、その心配事が邪魔してせっかくのお話を正しく聞き取れないのです。だから、よくあったのは、昔、電話工事の仕事をしていたときに、一日、外でお客さんからのクレームがあったり、会社から叱られたりして、がっかりして家に帰ると、妻からは妻としての私への報告があります。

 でも、私の気持ちはお客様からのクレームと会社から叱られたがっかり感でいっぱいなので、妻が私に話される言葉が、私へのクレームに聞こえて、腹を立てたことが何度もあります。私の心には先にある心配事、クレーム対応のためのストレスでバイアスがかかって、妻の話をまともに聞けなくなっているのです。すると、お互いに疲れているのに、さらに疲れる展開に発展していくのです。

 同じように、みことばもそうです。せっかく聖書からみことばを聴こうとしても、自分の中にある問題、心配事が邪魔してしまって、神様が私たちに教えようとしていることが受け取れないことがあります。特に礼拝説教ではよく起こります。

 先日、ある牧師と話をしていたら、その牧師は、自分が聖書からお話したメッセージが、礼拝に来られていた方にまったく逆の意味に受け取られたことで、自分の説教のまずさに反省させられたということを証ししてくださいました。神様の恵みに感謝して、肩の力を抜いて委ねていきましょうというメッセージが、今週も何とか頑張っていきましょうと受け取られたというのです。
 私はそのお話から、私自身が聴き手としてよくあるなと思わされました。以前あったのは、礼拝中に、午後からの総会のことで頭がいっぱいだったことで、礼拝中なのに語られている牧師の説教が上の空でした。そういう時に限って応答の祈りに当たってしまい、まったく頓珍漢な祈りをしたことがあります。だから、このイエス様のお話に対する弟子たちの頓珍漢な様子は、自分のことだなと思わされます。

 あらためて、主の前に、そのみことばをきちんと耳を傾けて聴くことが大切だと思います。心配事や自分の問題はもちろんあって良いのです。なぜならば、このときに弟子たちに欠けていたのは、パンを忘れたことを自分たちの問題だけで終わらせないで、きちんと、この問題、心配事を先にイエス様にお話することだからです。
 ペテロはこのときの出来事を思い出しながらだと思いますが、その手紙の中でこのように私たちを励ましています。ペテロの手紙第一5章7節。
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」

 自分の頭でぐるぐるしてしまって、神様のみことばが聞こえなくなるくらいならば、先に神様にすべてお話しましょう。祈りは空気に向かって話すことではありません。目には見えずとも生きて働かれる私たちの父なる神に聴いていただくことです。父なる神様の深い御心のうちにその悩みを全部打ち明けたときに、語られるみことばがまさに、その心配事でぐるぐるしている私たちを励ましてくださるからです。


2.誤った教えを見分ける主の弟子
 それでイエス様は、弟子たちの問題をお聴きになりながら、さらに、その物質的な視点から霊的な視点を持つように導かれます。8節。
「イエスはそれに気づいて言われた。『あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。』」
 信仰の薄い人たちとは、イエス様は手厳しいことを言われるように思いますが、弟子たちに対して率直に何が足りないのかきちんと知らせるのも指導者としての務めです。事の問題点を曖昧にせずに正しく指摘することは大変大事なことです。信仰が薄いとは、彼らの関心がいつも物質的なところにあることを指摘しています。

 それで、その霊性の低いところから引き上げるためにイエス様がなさったことは、14章、15章で行われた、パンの奇蹟のことをあらためて思い出させることです。5000人の給食と呼ばれる奇蹟と、4000人の給食と呼ばれる奇蹟がありました。そのどちらも弟子たちはイエス様がどのようにして多くの人びとを養ったのかを体験していたからです。

 ここでのポイントの言葉は9節の「まだわからないのですか。覚えていないのですか。」です。それは、間違ったパン種、悪いパン種に惑わされないためのヒントがここにあるからです。それは、何か。
 それは主イエスを信じ従っていくときに体験させられる数々の主の御業を思い出すことです。それが、私たちにとって大切な信仰の武具となっていくからです。イエス様が弟子たちに思い出させようとされたパンの奇蹟は、私たちに置き換えるならば、イエス様を信じてから経験してきた主の恵みの業の数々と言えるでしょう。

 そして、更には、聖書が完成した現代で言うならば、その主の御業が証しされている聖書のみことばそのものを覚えることの大切さとも適用できるでしょう。それは、どういうことでしょうか。それは、イエス様を信じる中で体験する数々の恵みの業を思い出し、みことばによってそれを裏付けされていくということです。その御言葉の体験、一つひとつを思い出すことで、みことばが紙に書かれた文字、文章と言う枠を超えて、今も生きて働かれる真の神のことばとして、この時代、この社会にあっても、立体的にここに働かれることを確信できるからです。

 それは、つまり本物を知ること、本当の救い、本当の生ける神のことばを体験することこそ、誤ったパン種から自分を、また私たちが集う教会を守ることになるからです。パン種は、パン生地を発酵させ膨らませる力があります。真の福音でないもの、誤った聖書に関する教えなども、それ自体には何の価値も、力もないものですが、小さなイースト菌がパンを発酵させるように、その僅かな偽物によって、教会も質的にも量的にも誤ったかたち、間違った方向へと変質するのです。それも知らないうちに。

 発酵もいきなりパン生地の姿を変えることはせずに、じわりじわりと変わっていくように、主の群れも、主の弟子も、そうなるからこそ、イエス様は、注意して気をつけよ。パン種に気を付けよと警告されるのです。

 しかし、その防御策として、今日の箇所で学ぶのは、本物をよく知るということなのです。本物を知れば知るほど、偽物ははっきりします。本物をよく知らないから、間違っていることにも気づかないのです。逆に、偽物や誤った教えなど、または異端の教理など、偽物もよく知っておいた方が良いのではないかという意見もあると思います。しかし、偽物を学ぶ時間があったら、本物をよく学んだ方が効果的です。

 ある作家志望の方が、出版社に小説の原稿を送ったそうです。その原稿を見てもらって小説の雑誌に掲載してもらうためです。かなり自信があったらしくきっと採用されると思っていたそうです。でも送ってしばらくしてから、不採用の通知とその原稿が送り返されてきたそうです。それで、その人は、返された原稿を見て憤慨しました。というのも、その人は、自分の原稿がきちんと読まれたかどうか確かめるために、真ん中のページだけこっそり軽く糊付けをしておいたのです。ところが、返ってきた原稿は、その糊付けされたままだったというのです。それで、怒ってすぐに出版社に電話をしました。「全部きちんと読んでいないではないか」すると、編集長が出て、こう言ったそうです。「ダメなものは全部読まなくてもわかる。」

 悪いパン種である偽物の教え、誤った福音もそうです。偽物をすべて知らなくても良いのです。そのかわり、真の神であり、真の救い主である主イエス・キリストのことをよく知ることが肝要です。主があなたにどんなに良くしてくださったか。どんなことをしてくださったか。今、問われたら言えるでしょうか。


結び
 今日、弟子たちに言われた9節のイエス様のことばは、私たちへの言葉でもあります。
「まだわからないのですか。覚えていないのですか。」
主がどんなお方か、主があなたに何のためにどのようなことをしてくださったか。そして、今もなお、どのように導いて日々恵んでくださっておられるか。「まだわからないのですか。覚えていないのですか」とイエス様は今日も問われている。その問いを通して、あらためて、聖書のみことばと合わせて、思い起こして行きたいです。

 先週はそのことを忘れないために、覚えるために聖餐式がありました。パン種の入っていないパンを一緒に食べて、主の十字架を覚えました。そのことを、たとえ聖餐式がなくても、意識して、主の業を思い起こし、感謝することが大切です。そのことを端的に言い表すのが信仰告白です。そのことは来週学びますが、あらためて、今週も、パン種である間違った教えに惑わされないためにも、ただひたすら、聖書のみことばと信仰生活という真理にとどまるための両輪の中で、本物の神であり救い主であるイエス様ご自身をより深く知る歩みを続けてまいりましょう。主を知るとは主を愛することです。その愛も先に主が私たちを愛してくださったから、私たちもその愛の中にとどまり、その愛を携えて私たちも主を愛するようにされました。

 この主の愛が豊かになるためにも、主を知り続けることを切に追い求めてまいりたいと思います。

 最後に今週のみことばを一緒に読んでお祈りしましょう。

 

「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、
いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分(みわ)けることが
できるようになりますように。」 ピリピ人への手紙1章9節、10節a