日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

2022年2月6日 白石教会礼拝説教

説教題 「捨てて得るまことのいのち」
聖書箇所 マタイの福音書16章21節~28節
 
 

 日本人は、自分の意見をはっきり言うことを避ける傾向にあると言われています。場の雰囲気を気にしすぎて、大事なことが話し合えないのです。私もそういう傾向があります。関係性を気にしすぎてしまい、遠回しには言っても、単刀直入に言うことを避けて来た人生だと言っても良いでしょう。
 確かに、発言をするときは、相手の人格や、気持ちを考えて言うことは大切です。パウロも「悪い言葉を一切口から出してはいけません」と言っているように、同じことを伝えるにしても、言い方や、言葉遣いには注意が必要です。
 
 さて、今日の聖書の場面では、ペテロがイエス様から「下がれ。サタン」と、非常に強い言葉で叱責を食らったことが伝えられています。この言葉を聞いて、皆さんはどう思うでしょうか。ここまで言わなくてもとか、もっと別な言い方があったのではとか、ペテロを弁護する方がいてもおかしくないように思えます。
 
 愛のお方であるイエス様。多くの人は、イエス・キリストは博愛主義者と呼びます。またはクリスチャンでも、主はどんな人をも受け入れる愛のお方。隔ての壁を取り除いて、みんなを平和に仲良くさせてくださるお方。そのように思っている方が多いと思います。でも、今日のイエス様は違います。かなり、かなり厳しく叱っている。しかも、たった今、「あなたは生ける神の御子キリストです」と優等生の信仰告白をして、イエス様がお喜びになった、その直後、その弟子に向かってサタン呼ばわりするのです。
 
 イエス様が、人に向かって「下がれ。サタン」と言われるのは大変珍しいことです。イエス様の公生涯では、ここだけです。福音書では、このマタイと並行記事のあるマルコだけです。そのくらい、やはり滅多に言わないことを、イエス様はこのときにお語りになるのです。
 
 いったいイエス様は何を問題にしてペテロを、ここまでして叱ったのでしょう。そこから、キリストを信じて従うということは、いったいどういうことなのか。今日は、このところから「捨てて得るまことのいのち」と題して、みことばに聴いてまいりましょう。
 
 
1.下がれ。サタン。
 前回、正しい信仰告白をしてイエス様に大変喜ばれた場面を見てまいりました。イエス様はその正しい信仰の上に「わたしの教会」を建てると言われた。そのくらい、その告白は、他の群衆たちにはなかった、本当に正しくイエス様を見て、体験して、信じた弟子ペテロの信仰の証しと言っても良いでしょう。
 でも、そこから一転して23節のことばがありました。ペテロのことを「お前はサタンと同じだ」と言わんばかりの厳しい内容です。
「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを想っている。」
しかし、イエス様がそのように言わなければならなかったのには、きちんと理由がありました。イエス様もその理由をきちんと述べておられます。それは、「わたしの邪魔をする」ということ。その本質が「神のことを思わないで人のことを思っている」ということです。
 
 それでは、あらためて21節を読みましょう。
「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらな ければならないことを弟子たちに示し始められた。」
 
 ここでイエス様が言われたことは、端的に言うとどういうことですか。これは明らかに、イエス様がこれからどうなるかということの中心部分を教えてくださったということです。それが、十字架にかけられて殺され、三日目に復活するという予告です。イエス様のこの死と復活の予告は、イエス様の公生涯の中で三回だけ弟子たちになさいました。今日の箇所はその第一回目です。ですから、弟子たちはここで初めて、イエス様がまず死ぬこと、そして、三日目によみがえることを聞いたのです。
 
そして、その内容が福音書記者マタイによって要約されていて、ここはイエス様の会話文ではないというところも面白いです。マタイがイエス様が言われた大事なことを代弁しているのです。マタイが言いたいことは、イエス様こそ、本当のキリストであり、その本当のキリストはどのように人々を救うのか。その救いの御業の中心が、ここで語られたのだということを強調しているのでしょう。
 
 だからマタイは、これまで「イエスは」と呼んでいたお方の事を、このときには「イエス・キリストは」と言い換えています。それは、この十字架と復活こそ、このお方の真のキリストとしてのしるしなのだとマタイも証言しているということです。なぜならば、神様が私たち罪人に与えてくださった唯一の救いの手段であり、ここが、聖書が指し示す福音の源泉だからです。
 
このように、このイエス様の死と復活は、あってもなくても良いものではなく、なくてはならない、人類救済のための神の知恵なのです。しかし、ペテロにはそのことがまだ理解できなかった。まさかメシアであるイエス様が殺されるなんて。これまで、信じてついて来た弟子たちに絶望感が過る瞬間でした。誰もが死んだら終わりだと考えてしまいます。もう、ここではペテロの耳には、イエス様が言われた三日目によみがえるという言葉は吹っ飛んでいます。
 
 この当時の弟子たちのメシアイメージというのは、ダビデ王のように政治的な力で、今、支配しているローマ帝国を滅ぼし、イスラエル王国を再建する勇者のイメージでした。だから、ペテロが、ここでイエス様が殺されるなんて話は聞きたくないし、ありえないと否定したい気持ちはわかりますね。22節
「するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。『主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。』」
 
 ペテロは、イエス様を引き寄せたとあります。しかも諫めたとも。それは、弟子として先生に死んでほしくないという気持ちもあったでしょう。でも、彼がしていることは、イエス様の救いの業を妨害することになったのです。神様の御業を邪魔する行為、発言、思いはすべて悪魔から出たものです。ペテロの側から言えば、イエス様を十字架に向かわせないように引き寄せてしまった。そして、イエス様を愛すればこその、その発言が、主イエス様の十字架を遠ざけ、起こるはずがないと、蔑むことになってしまったのです。
 
 だから、イエス様はこれまでにないほどの強い言葉をもって、ペテロにおっしゃったのです。「下がれ。サタン」と。それは、これまで、イエス様の救いの計画を壊そうとしたすべての人間に向けて語られている言葉でもあります。また、これからも、この主の救い。特に救いの源泉である十字架の死と復活を否定すること、軽く見る発言も態度も主は悲しまれます。悲しまれるだけではありません。他にはない態度で、他にはない言葉で、今も、この厳しい言葉を持ってお叱りになるでしょう。それは、本当にその背後にサタンの存在があり、そこに惑わされないようにイエス様は真剣に願っておられるからです。
 
 サタンは、私たちに罪があることや、悔い改めが必要であること。だから、イエス様が身代わりに死んでよみがえってくださった事実の価値を薄めようと躍起です。それは、創世記3章から予告されているように、女の子孫であるメシアによって頭を踏み砕かれることを知っているからです。だから、いつも救い主のかかとにかみつくことを怠りません。だから創世記は神話なのでそのまま信じないようにと誘惑します。その罪の現実と悲惨、呪い。またそこからの救いを曖昧にしようとしているのです。それは、神のことを思わないで、人のことを思っていることです。それはサタンの思う壺。だから、イエス様だってこんなこと言いたくはなかったはずです。しかし、ペテロを始め弟子たちのためには、ここでけじめをつけて言わなければならなかったのです。真理から外れることを犠牲にして、その場の雰囲気を守ることは良くないことです。
 
 私たちが、この福音の真理から外れている悪いパン種、誤った福音が目の前にあるとしたら、黙っていることは正しいことでしょうか。仲良くすること。一見、平和に見えることを優先するあまり、福音の本質を捨てることのないようにしたいものです。ときには、イエス様のようにはっきりと警告することも必要だと思わされます。もちろん、愛と忍耐の中においてです。
また私たちも「下がれ。サタン」とイエス様から言われる教会にならないように、あらためて信仰の識別力をしっかりと持って、霊の目を開けていく必要があるのではないでしょうか。
 
 
2.まことのいのちを得るために
それで、ここでイエス様はあらためて、福音の本質をしっかりと持って弟子たちにご自分について来るようにお招きになります。24節。
「それから、イエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。』」
 
ここで主イエスは「わたしについて来たいと思うなら」と、チャレンジを与えてくださいました。こんなんじゃやってられない。こんなに恥をかかさられるくらいなら、もう弟子をやめると思ったら、ここで終わりです。でも、ここで、主よ、そのとおりですと、へりくだって、益々、イエス様について行きたいと思うならば、ということです。でも、ここでイエス様が言われた内容は決して楽観視できないように思えます。
 
自分を捨てるって、どんなことでしょう。自分の十字架を負うと言うのはどういうことでしょう。この捨てるとか、負うという言葉にかなり重量感がありますね。これは厳しそうだ。今日の招きの詞は、このみことばとは真逆のイメージを持ちます。
 
自分を捨てることは、自分の十字架を負うことと関係しています。それは、自我を捨てること。つまり、死刑の宣告を受けた者のようになると言うことです。「自分の十字架を負う」と言うと自分の罪を背負うのかなと思う方がおられるかも知れませんが、私たちの罪とともに十字架を負い、十字架に釘付けにされたのはイエス様だけです。ですから、私たちが負う十字架というのは、何を負うのかというところに意味があるというよりも、むしろ自分を捨てることに意味があるのです。
 
なぜならば、イエス様を信じて罪赦された者でも、いつもこの世における戦いは自分と言う神です。そして、そのように誘惑するのがサタンです。サタンは、さきほどのペテロに働いたように、敵対する者として立ち向かって来るというよりも、友達のように寄り添ってくるから分かりづらいのです。さきほどのペテロも、知らないうちにイエス様に敵対していました。そのサタンが、神のことばよりも、自分の考え、常識、価値観を優先するように誘惑する。それにまんまと乗せられる。これが、アダムから続く神に逆らう人間の罪の性質です。
 
そのときから、神様のことばに従おうとするときに、必ずそこにブレーキがかかる様になっています。それは、神様のみことばに従うということが窮屈に思えたり、自由を奪われたりすると勘違いがあるからです。だから、イエス様を信じていこうとするときに、そのあとどうなるか心配しすぎて、洗礼を躊躇するという事が起きてきます。また、主を信じて、更に伝道者として召されていながら、家庭のことや経済的なことを心配し過ぎて、あと一歩が出ないということもあるでしょう。
 
私も、そういう信仰生活でした。洗礼を受けるときは、信じているのに、学校の部活動があるので高校3年生まで延期していましたが、今、思うと、早く受ければ良かったと思います。また、献身して、神学校に入るときも、26歳でみことばが与えられていながら、次の一歩を踏み出すには、色々な心配事や、タイミングが違う様に思えて、かなり躊躇しました。今となっては49歳で献身して良かったと思いますが、そのとき、きちんと主に信頼して、その険しく思える道に踏み出すならば、きっとふさわしい助けと、神様の確かな道があったはずだと思います。
 
やはり、みことばにあるように「自分の考えで、自分の選びでいのちを救おうと思う者はそれを失い、イエス様のためにいのちを失う者は、それを見出すのです」
 
エス様は、以前に「狭い門から入りなさい」と言われました。マタイ7章13節、14節
「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです。」
 主の道はいつも狭く見え、険しく見え、苦難に満ちて見えます。しかし、実際に、その一歩を踏み出したときに、何とそれまでの心配がかき消されるように、神様によって、自分が歩むべき道が開かれるのです。大切なのは、信じて従うことです。しかも、常に今です。
 
 
結び
 神様が招かれる道は、一見険しく、苦難があるように見えるのです。十字架の死と復活が福音だなんて信じられない。しかし、そこが神の知恵です。十字架の救いをユダヤ人たち、ギリシア人たちは馬鹿にしました。しかし、そこに神の救いが隠されていたのです。そこを抜きにして、イエス様について行くことはできません。だから、イエス様は強い言葉でペテロを叱りました。ここを無視して、弟子の道はないよ。まことのいのちはないよ。そこを、私たちも今朝しっかりと覚えたいと思います。
 
 そのことをペテロもその他の弟子たちも知りませんでした。救い主が殺されるなんてありえない。そこに救いがあるなんて馬鹿げている。それで、イエス様から叱責を受けました。下がれ。サタンと厳しく、はっきりと言われました。
実は弟子たちは、イエス様の十字架の死と復活を目撃するまで、今日のお叱りの言葉も忘れていました。誰もイエス様の十字架の贖いの死を信じていなかったのです。それで、全員が逃げてしまいました。ペテロも自分の身分を隠してイエスの仲間ではないと三度も否定しました。ところが鶏が鳴いたとき、ペテロは外に出て激しく泣きました。なぜか。それは逮捕されて連れて行かれるイエス様にペテロは見つめられたからです。しかも、聖書は「主は振り向いて見つめられた」と記録しています。
 
 今日の箇所でも、主は振り向いてペテロに言われました。まさに、この場面をペテロは思い出したのかも知れません。自分の罪深さ。サタンが入って主を裏切ったユダと何もかわらない惨めな自分。主が振り向くとき、彼の脳裏にこのときの主の言葉も態度も浮かんだはずです。
 
 救い主が十字架にかけられ殺される姿。一見、人間的な目で見るならば愚かに見えたり、力がなく思えたり、弱々しく見えたり、苦しそうに見えたり、損しそうに見えるかもしれない。しかし、ここに一歩近づくときに、私たちが感謝と喜びをもって生きるまことのいのちがあるのです。
 
今日、あなたがあらためて主について来たいと思うなら、私たちのために罪を負って死んでくださり、三日目によみがえられた主のために、自分を捨てましょう。古い自分と言う重荷を脱ぎましょう。私たちクリスチャンが、もっともっと自分を捨てて行こうとするならば、そこに益々、キリストが輝きます。キリストに従う道は一見険しいように見えます。狭い門です。狭い道です。
 しかし、今日の招きのことばの続きにあるように、実は主イエスのくびきは負いやすく、その荷は軽いのです。なぜならば、重荷を負う私を、くびきを負うあなたを主イエスご自身がすべて負ってくださっておられるからです。
 
 もうキリストという舟に乗っているので、今までの重荷は下ろして良いのです。あとは、その舟を信頼していのちをあずけるだけです。それが、イエス様のためにいのちを失うということです。しかし、そこにこそ、本当のいのちがある。それは、その舟は間違いなく天の御国まで連れて行ってくれるからです。それで、もう充分ではないですか。
 
これからもいっしょに、キリストの教会の一員として、自分を捨て続け、死刑判決を受けた死刑囚として、益々立ってまいりましょう。そこに捨てて得るまことのいのちがあるからです。