のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

主の民となった

申命記 27章9~10節

"それから、モーセとレビ人の祭司たちはイスラエル全体に告げた。「イスラエルよ、静まって聞きなさい。今日あなたは、あなたの神、主の民となった。
あなたの神、主の御声に聞き従い、私が今日あなたに命じる主の命令と掟を行いなさい。」"

  神はご自分の民と他の民と区別されます。それは、神の民として祝福されるということがまず第一でしょう。しかし、そればかりではなく、主の民だからこそ、神の御声に聞き従い、神の命令、掟を行う。このことも大変重要です。

 

 神は神の民だから、神の民としてのきよい歩みを期待され、それを行うことができるようにと願われるのです。

 

 では、なぜ他の民には、イスラエルの民に対するようには扱われないのでしょうか。

 

 それは、神なる主の大いなる救いの恵みを知らないからです。主の偉大な愛、その憐れみ深さを知り、その憐れみの恵みの上に自分が置かれていることが分からないと、本当の意味で神の御声を聞き、命令、掟を行うことができないからです。

 

 このことは、新約時代におけるクリスチャンにも適用できることです。それは、クリスチャンも主の十字架と復活の恵みを自分のためであったと信じてから、主の弟子として歩むからです。

 

 ここに愛があると言われた、宥めのささげものとなられた贖いの業こそ、神の私たちに対する完全な愛の表れだからです。その救いの恵みに感謝することこそ、今日のこのみことばにあるように、神の民でなければ果たせないことだからです。

 

主の弟子は、十字架の恵みを知り、信じたからこそ、主のみことばを聞き、それを行うことができるのです。

 

それは、キリストを信じた者に与えられる聖霊が私たちの歩みを助け、キリストの弟子として歩むことを確かなものとしてくださるからです。

 

この違いを知らなければ、救いと聖化がごちゃまぜになり、罪の赦しの必要を無視した自分勝手な異端的救済を福音として売り込む危険が生じるのです。

 

弟子の真似事が救いなのではありません。神が示された救いの恵みに応答し、救いをいただくことがまず大切です。

 

それは、そのために御子キリストがご自身の命をもって、代価を支払われたからです。このことは、イスラエル民族で言えば、奴隷の国エジプトから救われた恵みです。だから神はそれによって救われた民に新しい約束の地できよく生きることを願われたのです。

 

私たちも、まず主の贖いの恵みを信じ。受け入れて救いをいただきましょう。そして、そこに示された神の恵みの大きさを味わい感謝する生き方が始まります。

 

そこに天の御国への聖化の歩みがあるからです。

 

"私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。
肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。
御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。
肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。
私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。"
ガラテヤ人への手紙 5章16~25節